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コミュニティ形成の東南アジア史(4)古典的国家の分裂と再統合、アユタヤの勃興 14世紀から16世紀頃まで

NUSでやってる東南アジア史入門の日本語版講義用ノートを作るぜ!」と息巻きつつ、しばらく放置していた「コミュニティ形成の東南アジア史」の第4回目を書きます。

前回までのコミュニティ形成の東南アジア史

(1)シリーズ概論. https://note.com/kishotsuchiya/n/n0efb8957dc94?magazine_key=ma29b33ae93fc

(2)地形、基層文化、神話体系. https://note.com/kishotsuchiya/n/n89d0b5694ed4

(3)古典的国家の形成. https://note.com/kishotsuchiya/n/nbc189c4ee42b?magazine_key=ma29b33ae93fc

初めに

前回の第3回でシュリーヴィジャヤ、パガン、アンコールなどの東南アジアの古典的国家について書きました。私のコミュニティ形成の東南アジア史シリーズでは、「その後の様々な国家がモデルとした初期の大国家」という意味で古典的国家と呼んでいます。例えば、シュリーヴィジャヤはマラッカやシンガポール、パガンはミャンマーの、アンコールはカンボジアやタイの後々の国家のモデルとなります。

東南アジアの古典的国家の共通の特徴としては、

1.インドの王権思想をそれぞれの土地に適した形で受容。

2.個々人の関係に基づく、非中央集権的で、境界が曖昧なマンダラ政体・太陽系政体モデルを採用した国家が成立。

3.水と労働力の管理に大きな関心を寄せた国家。

4.大きく分けて広大な農作地帯を持つ農業国家と海上貿易を重視する港市国家の2種類が存在した。

などがありました。そして、これらの国家は、後々各国史の「黄金時代」として記述されたりするほどに後の世代の考え方や自己認識に影響を与えていきます。

しかし、今回扱う1350年頃から1550年頃まで古典的な国家が滅亡しました。ビクトール・リーバーマンが指摘していることなのですが、ほぼ同時期にフランスなどの西洋諸国やロシアを含むユーラシアの「保護された周縁地帯」でも同じような現象が起きます。この現象に関しては、タイ人の民族的移動などの東南アジア地域特有の要因の他に、モンゴル人の侵略や環境の変化など共通の要因があります。日本はちょっと特殊なのですが、それでも鎌倉幕府の滅亡後にいろいろとごたつき、16世紀に入ると織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が登場して「天下統一」に向かうという流れには「ユーラシアの保護された周縁地帯」としてのいくらかの共通点があります。

世界史的・長期的な人類のコミュニティーの話をすると、大きな流れとしては、国家が出来て帝国になると、領土拡大→定着→分裂→再統合→拡大→定着→分裂→再統合というサイクルを繰り返しています。インドや中国などと異なり、騎馬民族などによる予想外の攻撃を受けにくかった東南アジア・日本・ロシア・西洋のような「囲われた周縁地帯」においては特に規則的に見られるパターンです。そのようなパターンの中で、14世紀から16世紀頃までは分裂→再統合の時期になります。

このプロセスの結果、東南アジアには新しい権力の中心が現れ、大きな流れとしては山地や内陸部から沿岸地帯と海を介した交易に権力の中心が移っていきます。今回は、特にタイ人の大陸部東南アジアでの歴史的役割に着目しつつ、この流れを見ていきます。(ミャンマー、アンコールひいきの方々すみません。第3回ではどちらかと言えばミャンマー・アンコールびいきの解説になっているのでそちらをどうぞ。)

着目点

ー 古典的国家の分裂後、東南アジアの政体はどのように再統合に向かったのだろうか。

ー どのようなメカニズムが新しい国家の形成につながったのだろうか。

ー 新しい国家は、それまでの古典的な国家が作り出した伝統をどのように継承し、あるいは刷新していったのだろうか。

東南アジアの古典的国家の分裂期

14世紀における世界中での古典的国家の滅亡には、長期的で共通の要因としては古典的国家自体の政治的・財政的・環境的行き詰まり、より直接的な要因としてはその時期の急激な環境の変化や13世紀のモンゴル人たちのユーラシア中での侵略活動などがありました。14世紀になると、仏教国でもヒンズー教国でも、寺院や修道院への寄付が増大し、世俗の国家の財政を悪化させ、支配が不安定化します。西洋のキリスト教国でも似たようなことが起きました。また、モンゴル人の侵略で、滅亡した国々もあれば、耐えたけれど軍事費の支払いで困窮し、しばらく経った後に潰れた国々もあります。環境が変化し、食料の供給ができず、内部の反乱で滅亡した国々もあります。日本史でも聞いたことあるような話です。

東南アジア特有の要因としては、タイ人の南進が挙げられます。中国南部に起源を持つと言われるタイ人の移動は6世紀末から始まっているのですが、11世紀、13世紀と時代が進んでいくと、より多くのタイ人たちが現在の東南アジア大陸部に移り住みます。古典的国家の時代、タイ人たちは地方のマンダラ政体(第3回を参照してください)と結びついていきます。そして、元々「地方」あるいは「準国家」だった地方の都市が、新しい人口とともに成長していきます。11世紀あるいは12世紀には現在のタイ北部にタイ人の国も生まれます。

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↑オレンジ色が現在のタイ語人の居住地域。

15世紀から16世紀にかけて、世界交易・アジア交易もインド洋や南シナ海などを中心に拡大していきます。それに連れて、アラブ人、インド人、中国人の商人たちの活動も活発化し、銀貨や火薬を用いる武器などをもたらします。沿岸部へのアクセス権を持った東南アジアの政体たちは、一国の自給自足経済から海洋貿易にシフトしていきます。この頃の世界貿易は国家権力の援助によって成り立つ「政治的資本主義」に基づいていて、たくさんの港市国家がもうけを狙って競争しています。

大陸部東南アジアにおいては、政治的中心がアンコール帝国からアユタヤに移っていき、アユタヤは大きな人口を持つ地域となっていきます。少し引いて観ると、アンコール帝国時代の辺境の「植民地」のような地域が新しい王国の中心地として育っていきます。そして、政治的にも文化的にも、アンコール時代の伝統がアユタヤ時代にもある程度継続していきます。しかし、アンコールが主に農業国家だったのに対して、アユタヤは海洋国家として育っていきます。

宗教について見てみると、島嶼部ではほぼ最後の大帝国であるマジャパヒト帝国の崩壊に象徴されるように、古典時代に栄えたヒンズー(大乗)仏教文化は人々の文化としては残りますが、国教としては廃れます。大陸部では、ミャンマーやタイなどで受け入れられた上座仏教、島嶼部ではイスラム教やキリスト教が広く信仰されるようになります。

再統合に向けて

古典的国家の分裂・滅亡後の再統合への動きとして、3つの共通のパターンが挙げられます。

1.領土の定着:マンダラ政体的な文化は存続していくわけですが、現在で言うところのミャンマー、タイ、マレー半島、スマトラ、ジャワなどでは、ある程度領土的な支配と帰属意識が定着していきます。

2.行政の中央集権化:これは必ずしも西洋と同じ道をたどったというわけではなくて、東南アジアの基準において中央集権化していったということです。かつて地方の支配は土着の貴族などに任せていたところを、中央政府から派遣された王族や行政官などが支配し、担当者が死亡あるいは任期が終わると別の者が派遣されるというようなシステムが成立していきます。

3.文化的な単一化、標準化、正統教義の普及:ミャンマー語、タイ語、マレー語などがそれぞれの領域・民族内の共通語として定着していき、国家はそれぞれ正統派教義と考えた宗教集団をプロモートしていきます。

このような現象が起きた背景には、それらにつながる複数の要因があります。

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