見出し画像

話題にしてくれないので自分で自分の受賞論文の話をする

しょうがないから。

私は、米国アジア研究協会(AAS、会員数8000人の世界最大の地域研究の団体のひとつ)から2つ論文賞をもらっている。聞いた話では院生時代に2つもらってる人の先例はほぼ無いらしい。けれど、日本では誰も話題にしてくれないので、しょうがないから自分で話題にする。というか、私は他の人達の良いところを見つけて紹介するし、後輩の推薦状も書いて彼らの奨学金獲得に貢献したりしているが、大多数の人たちは友人をプロモートしてくれるほど面倒見がいいわけではないし、私の研究自体かなりニッチなのでしょうがない。(恩知らずだと思われたくないから一応書いておくと、指導教官たちにはとても感謝してる。院生時代に良い論文が書けたのは半分くらいは彼らのおかげで、彼らはとてもよく面倒を観てくださっている。)

2017年に発表した"“Converting Tetun: The Early Missionary Texts in a Timorese language and the Timorese Absent Presence 1875-1937”に対して表彰されたパタナ・キティアルサ賞が、今の所私が頂いた賞では一番大きい賞だ。学生とポスドクレベルまでを含んだ年次学会の若手の参加者の論文のうち東南アジア部門の最優秀論文賞にあたる。ぶっちゃけ、東南アジア研究をしている学生が期待できる賞で世界で一番名誉のある賞のひとつだ(もうひとつはICASの博士論文賞で、これに関しては私のはノミネートされずに落ちた)。ちなみにパタナ賞の受賞は、日本人としてもアジアの大学の院生としても初の受賞である。

<AAS賞のウェブサイト>


この論文は、元々博士論文の一部として書いたのだけれど、議論が予定外な方向に進んでいって博論の話題の範疇から出ていってしまったため、結局独立した論文として学術雑誌に載せることにした。日本語で書き直したバージョンが京都大学の「東南アジア研究」に掲載されて、その後コーネル大学が東ティモールの特集を組むからというので(京都版の翻訳という建前で)英語版が、かつてベネディクト・アンダーソンが編集していたIndonesiaという雑誌に載ることになった。どちらも日本と米国では東南アジア研究の登竜門的な雑誌だ。日本語版は、タダで公開されているから誰でも読める。

京都版. https://kyoto-seas.org/wp-content/uploads/2017/07/550202_Tsuchiya.pdf

内容はというと、自分で説明するよりパタナ賞の選考委員会の説明のがわかりやすいから引用する。

画像1

「土屋氏は、19世紀のティモール島のポルトガル人宣教師たちの文学・言語学的作品を研究することにより、植民地時代の宗教ミッションが、どのように現地のテトゥン語のコスモロジー(宇宙論)において、『偶像崇拝』やキリスト教の『神』などの概念(の関係性)をはっきりさせようとしたのかを調査している。このエッセイは、歴史的・社会言語学的な方法論の近現代東南アジア研究への有用性・応用可能性を立証し、これまで周縁化されてきた東南アジアの人々(つまりティモール人)に焦点を当て、詳細な情報を提供している。」

筆者は「もっと複雑だよ」って思うけれど2文にまとめればだいたいそんな感じ。読めばわかるけれど、20世紀の文化人類学者たちのティモール文化論の総体が、19世紀の植民地化と宣教に燃えた宣教師たちが用いていた概念を流用したことで、ティモール人の宇宙論を読み間違っていた可能性があるというのが主な主張なので、一部の人類学者たちからは慎重に扱われているようだ。選考委員の一人、オオナ・パレデス(カリフォルニア大助教授)も文化人類学者。最近彼女の本を読ませていただいたけれど、私と近い問題意識を持っていることがわかった。

パタナ賞受賞論文の観点・内容には、私自身の日本やティモールでの経験がかなり反映されており、そういう意味でも筆者お気に入りの論文だ。けれど、そういう裏話については読者が勝手に解釈すればいいと思っている。

発表時のこと

この論文を発表した2017年は、博士課程の3年目の終わり頃だった。その前に国際学会に出たのが修士のときだから、4年くらいは沈黙して研究してて学会には出ていなかったことになる。

その年AASが、インドネシア研究委員会を「インドネシア及び東ティモール研究協会」に改名すること、「東ティモール研究イニシアチブ」を作ることを決めた。なぜかと言うと、2002年に独立した東ティモールもアジア域内なのに、米国に研究している人がほとんどおらず、情報がなかった。それで研究を奨励するために改名したそうな。

最初の年だからということでワークショップをやることになった。これに参加するということでAASの年次学会に行くことになった。タイミング的にとてもラッキーだった。

↑そのときのワークショップ。

今だから言うけれど、このワークショップ、発表時間が10分という、発表者から見ればかなりの無理ゲーで、私は論文の前半部分の要約だけに集中した。他の発表者たちのほとんどは発表の途中でぷっつり切られた。発表された他のトピックは、インドネシア時代の歴史認識とか、人権問題とか、あとは独立後の民俗学的なリサーチが多かった。当時、ポルトガル時代を扱ったり、ポストコロニアルなスタンスでアプローチしてたのは、このグループでは私だけだった。正直、「俺やっぱ東ティモール研究のグループだと浮くなー」って思った。

でもまあ、このワークショップと、その後の東ティモールでの学会で東ティモール研究の人たちの間ではコネができた。(東ティモール研究の状態は、ここ3、4年間でかなりかわって、女性の歴史とか一般民衆の歴史とかポストコロニアルな研究とか、割と私好みのわりと先端的な研究も出てきた。)

その後、AASの論文賞(パタナ賞と7つの各委員会賞)の話をきいた。その年私が参加したのは、年次学会の本プログラムではなくて、年次学会と一緒に行われるAAS主催のワークショップだったから、実は参加資格が微妙だったのだけれど、選考委員会にメールしたら「とりあえず送って」と言われたので、あまり期待せず「もらえたらラッキー」くらいの気持ちで送っておいた。

3,4ヶ月後に「パタナ賞に選ばれました」というメールが来たときは、「嘘だろ」と思った。370組のパネル、1200人以上の発表者が参加していた年である。

ちなみにこの年、私はインドネシア及び東ティモール研究委員会の論文賞にも応募したのだけれど、こちらは落ちた。この賞を取ったのは、NUSの東南アジア研究学科の先輩で当時はイェール大の博士課程にいたファイザ・ザカリア(現南洋工科大学助教授)だった。ファイザは、後で「私のが先輩だから」といって昼食をおごってくれた。その後は一緒にパネル組んだりしてる。若手の東南アジア研究者で、いろいろな賞にノミネートされる人って特定の何人かに限られてるのだけれど、ファイザはそういう人のひとりで、素晴らしい作品を書いてる。彼女の本は、そのうちワシントン大の出版局から出る予定で、私は確実に購入する予定。


受賞時の事

受賞式は2018年の年次学会でワシントンDCだった。受賞者として学会に行くのは、やっぱり初回とは違って人間関係も広がったと思う。授賞式の会場はカバーフォトの部屋。他のAASの大きな賞も同じ式典で授与される。当時の会長とかと写真を取ったりするのだけれど、わりと緊張してたから自分用の写真を取るのを忘れた。

受賞者だからAASから飛行機代くらいは下りたのだけれど、2018年当時まだ博士課程の公聴会の前で、しかも体調不良で日本の実家に帰っていたから大学から旅費が下りず、切実にホテル代が払えなかった。こちとら奨学金が出てるとは言え、二児の父だ。貯金など無い。実を言うと、小遣い稼ぎに土日に大井のフリーマーケットで服とか売ってるレベルで資金がなかった。

画像2

<↑大井のフリマ時代>


そこで思いついた。NUSでお世話になっていた某教授に「本当に申し訳なのですが、一週間くらい泊めていただけませんか。ホテル代払えないし、低額でできる範囲で学会の後1・2日観光もしたいです。」とメールした。「一週間?お前、ほんとに図々しい生徒だな(笑)」と言いつつ許可してくださった。結局、授賞式以上に、一週間に渡って彼と夕食を食べたり、歴史学やアジア研究について語り合ったことが一番の思い出だし、今やっている研究のベースになってる。

(結局自分の受賞論文の話をする記事でさえ他人の話をしてしまったではないか。)


よろしければサポートお願いします。活動費にします。困窮したらうちの子供達の生活費になります。