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受賞論文アップしてみる。ポル語からテトゥン語への聖書翻訳と植民地主義

はじめに

この記事は、京都大学の「東南アジア研究」という雑誌に掲載された論文を含んでいます。(3年経つし、既に無料で一般公開されてるしだいじょぶでしょう。)米国アジア研究協会の2017年東南アジア部門最優秀院生論文賞を取った拙著の日本語版です。英語版は2024年に一般公開されますが、今はコーネル大のIndonesiaを定期購読してる人しか読めません。

 https://www.asianstudies.org/grants-awards/graduate-student-paper-prizes/
↑米国アジア研究協会各賞について

受賞の裏話等はこちらで↓ 

なんでこの論文を書いたかと言うと、東ティモールって1980年代から90年代にかけて人口の90%くらいがキリスト教に改宗したんですけど、それが「宣教の成功例」としてだけ紹介されてたんですね。実はティモール人の改宗には、植民地時代にポルトガルが宗主国だったこと、自分の宗教を公的に認められている6つの宗教から選んで宣言しなきゃいけないという(1975年以降に占領した)インドネシアの法律が背景にありました。で、ティモールに住んだことがある私からすると、ティモール人の村落と教会の摩擦はかなりあるんです。それを無視して成功だけが強調されるのはよくないというのがひとつ。

2つ目は、キリスト教の現地の言語への翻訳において、土着文化を理解した上で工夫して翻訳できれば、宣教はもっと穏便にうまくできるということが言いたかったというのもあります。これは中国の聖書で、中国では幸福と繁栄の象徴である「龍」が西洋においては悪魔の化身である「ドラゴン」に翻訳されちゃったから17世紀の宣教が失敗したみたいな話です。日本の聖書も日本の文化にもっと関心を持って翻訳できれば、親しみやすい日本語版の聖書ができるんじゃないかみたいなことを私は考えていました。

私が出した論文でおそらく一番難解なものかと思われます。あと、長いので読むのに30分くらいかかると思います。関心と読む元気がある方だけ読んでいただければOKです。

コロナの記事と同じく、京大からは「一般公開の記事は転載してもいいけど、その場合は出典を明らかに」と言われているので、引用される方は、

土屋喜生「ポルトガル領ティモールにおける19 世紀後半から 20 世紀初頭の宣教テキストのテトゥン語訳―西洋中心主義的「誤訳」とその社会的・学問的影響―」東南アジア研究55 巻 2 号(2018 年1 月)139-168頁

とするか、以下のサイトをチェックしてください。(なぜか京大版はタイトルがものすごく長くなってしまった。)

以下が記事です。

要約

ティモール文化の研究者たちは、長らくルリックという概念に関心を寄せてきた。ルリックの意味するところは、時代により大きく変化してきた。主なものとしては、「偶像崇拝」「聖なるもの」「禁止されたもの」「黒魔術」「ティモール人のアニミズム」「ティモール文化の核」などである。本稿は、19世紀の宣教師たちによるポルトガル語からテトゥン語へのキリスト教テキストの翻訳の過程を読み込むことによあり、ルリックの様々な意味の起源を明らかにする。初期の宣教師たちの報告書において、ルリックはカトリック教の他者、抑圧すべき敵として発見された。そしてルリックは「偶像崇拝」の訳語として採用された。しかし、「偶像崇拝」「土着の宗教」としてのルリックの用語法を統一することはできなかった。ティモール人たちが、宣教師たちを「ナイ・ルリック=ルリックな主」と呼んだからである。聖書翻訳に協力した無名のティモール人たちも、宣教師たちの土着文化の理解の浅さを逆手に取った。初期のテトゥン語の聖書物語においてイエス・キリストは、土着の政治的・儀礼的支配者を自称し、大司祭カヤパは西洋人宣教師、ポンテオ・ピラトはポルトガル人総督とのアナロジーで語られることとなった。結果として、西洋人宣教師たちのカトリック教を西洋の宗教として紹介しようとする計画はテトゥン語においては失敗し、キリストの受難は植民地政府によって処刑された無垢な原住民の復活の物語となった。しかし、当時の宣教師たちによる西洋中心主義的な文化翻訳やティモール人の宇宙論の読み違えの影響は、本日までの学会におけるルリックの理解の変遷に反映されている。


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序論

本稿では,19 世紀末から 20 世紀前半ごろまでに現れたポルトガル人宣教師たちによるテトゥン語文献(ポルトガル語とのバイリンガルを含む)をティモールの口伝伝承や植民者側の史料などと合わせて読み解く。このような作業により,宣教師たちがどのようにティモール人の文化・宗教・言語と接触し,それらをどのように理解・解釈し,影響を与えようとしたのかを再構成する。(注1)本稿が取り扱う宣教テキスト及び宣教師たちによる言語学的な作品は,ティモールにおけるキリスト教宣教やその後の言語学の土台となったものの,歴史学や社会科学の観点からは,現在に至るまで研究の対象とされてこなかった。一般にティモール史や教会史においては,当時のポルトガル人宣教師たちは「テトゥン語の南東部方言(所謂テトゥン・テリック)を用いた」と紹介されている。しかし,筆者が実際に当時のテトゥン語宣教テキストに目を通してみると,そこで用いられている表現は,現在東ティモールの公用語となっているディリ方言とも南東部の方言とも大きく異なっており,職業言語学者たちが編纂した辞書を用いても読解できない言
葉やフレーズが用いられていることがわかった。そして明らかになったのは,当時の宣教師たちが自ら作り出したテトゥン語の造語が,解読困難な表現の大部分を占めているということであった。

このような事情により,20 世紀初頭までのテトゥン語宣教テキストを読み解くためには,当時の宣教師たちが編纂した言語学的な作品(辞書,バイリンガル聖書物語,文法書)を研究し,彼らがどうテトゥン語を理解していたのかを知る必要があった。そして,これらの資料を研究する中で,筆者はある疑問を持つようになった。それは当時の宣教師たちの最大の関心は,ポルトガル語・キリスト教の世界観をテトゥン語に移植することにあり,テトゥン語をそれ自体の世界観に則って科学的に理解するという目標はしばしば二の次にされていたのではないか,ということである。

さらに,筆者が本稿で主張することは,このような西洋中心主義的な翻訳活動は,宣教師たちやその後の研究者たちが作り出したティモール人やテトゥン語に対するイメージに影を落としているということである。そこで例として本稿が議論する概念は,「ルリック」というテトゥン語の言葉である。筆者の考えでは,「(民俗学的)ティモール人とはルリック=アニミズムの崇拝者である」というイメージは,通常想像されているようにティモール人や文化人類学者の側から生まれでたものではなく,文明化の使命に固執した宣教師たちの偏見に基づくテトゥン語の世界観の誤読にその起源を求めることができる。それは言語学及び宗教テキストによる「カトリック教から見た異教徒」「植民地主義下の原住民」としてのティモール人像の構築とも密接な関係を持っていた。

本論考は 3 つの点に特に着目している。特に第 3 のルリック概念の再検討が本研究の中心となる。

本稿の一点目の目的は,植民者とティモール人の文献にあらわれる「西洋人」及び「ティモール人」像を比較することにより,その間の差異を明らかにすることである。エドワード・サイードが批判した「オリエンタリズム」に類するところの,ティモール人を劣等人種・劣等文化として規定し続ける学術伝統はかつてポルトガルにも存在していた[Said 2004; cf. Castro1867]。しかし,筆者の関心は,そのような言説はそのままティモール人社会の内部にも押し付けることが可能だったのかどうか,という点にある。

二点目の目的は,近年盛んになっているキリスト教の人類学という分野から影響を受けたものである。東ティモール史の研究においては,「ティモールのカトリック教会は,1975 年以前は植民地主義の尖兵であったが,ティモール人のマルティーノ・ダ・コスタ・ロペス神父及びノーベル平和賞受賞者のベロ司教が代表となってから人民の教会となった」という些か単純化された歴史観が主流となっている[Crowe 1996; Kohen 1999]。このような見方は,ポルトガル語及び英語の文献の表面に表れる言説を端的に表象したものであり,現地語の文献を参照してはいなかった。筆者は,主にレイナルド ・ イレート,ヴィセンテ・ラファエル,そしてウィリアム・ハンクスなどが発達させた現地語・バイリンガル文献を読み込む方法論を参考にしつつ,翻訳作業に伴う交渉に注目する[Ileto 1979; Rafael 1993; Hanks 2010]。

三点目の目的は,上記 2 点,つまり植民地主義的な言説のティモール人への波及の是非の解明,及びティモールにおけるキリスト教の人類学的な再検討のために,本研究が特に注目する点,つまり,「ルリック」をめぐる言説上の問題である。ティモール研究史において比較的量が多いルリック(lulik)概念に関する研究における歴史的文脈への関心の低さを批判しつつ,ルリックという語の解釈問題が紛糾し,多数の用法が存在するようになった背景を明らかにしたい。ジュリアス・バウティスタのように「シンクレティズム」や「異端」などの宗教的他者に対する表象を権力関係が作り出した言説として読むならば,「ルリック」はまさにティモール人の非キリスト教的な文化を可視化しようとする教会的言説の中心を成していた[Bautista 2010: Ch. IV]。以下,ルリックの概念をめぐる学問上の経緯についてもう少し具体的に述べる。

学会におけるルリックという語の意味論において,研究者たちはこの語を強くティモール人のアイデンティティーと関連付けてきた。英語圏においては,おそらく H.O. フォーブスが1884 年に発表した旅行記が初出であるが,彼はこの語を形容詞的に「神聖な」「封印された」(lulik house, Dato-lulik, the lulik, etc.)などの意味を持つ語と解してティモール文化における「タ
ブー」について語っている[Forbes 1884: 410–415]。1963年には,文化人類学者マーガレット・キングの著作が再度ルリックを取り上げており,彼女にとってルリックは「ティモール人の宗教」であった[King 1963: 150]。2002年以降,東ティモール(旧ポルトガル領ティモール,インドネシア領東ティモール州)はカトリック教徒が人口の 8 割以上を占める新たな「カトリックの国」として誕生する中,ルリックは東ティモール人のオルタナティブなアイデンティティーを表す概念として再度注目を浴びることとなった。歴史家ジェフリー・ガンは,それを「ティモールのアニミズムの本質」であるとともに「黒魔術」であると解した[Gunn 2010]。ティモール人研究者のジョッシュ・トリンダーデはこれを「ティモール文化の核」と呼び,さらに土着主義的な立場からルリックの概念を独立後の国家建設の中心に据えるべきだと主張した[Trindade 2012]。トリンダーデの主張は,ティモール人知識人によるティモール文化論として注目を集め,以後オーストラリアを中心とする英語圏の東ティモール研究において一定の影響力を持ってきた。しかし,このような名詞的用法とは別に,植民地時代のポルトガル人民俗学者たちや世俗の辞書編纂者や構造主義人類学者には,「神聖な」「封印された」などを意味する形容詞として扱い続けた人々が少なからず存在した[Hicks 1976: 20; Dores 1907: 160; Almeida1976: 121–147]。

このようなルリックに関する先行研究の総体は,主に宣教師たちが用いた名詞的用法もしくはフォーブスなどによる形容詞的用法に倣う形で成立してきた一方で,確固たる第一次的史料に基づく「ルリック」の意味論の成立過程の再構成を行ってこなかった。本稿は,このような観点から,19 世紀末から 20 世紀初頭にかけてポルトガル人宣教師たちが残したテトゥン語の文献を時系列的に,当時の文脈の中で読み解くことにより,人類学者たちを中心に広がったルリックの意味論争の歴史的起源を明らかにする。

ルリックの名詞的用法に限って議論するならば,ポルトガル人宣教師たちと英語圏の文化人類学の間には一連の系譜が存在する。英語圏の文化人類学者としては初めてルリックを名詞的に理解し,1 章を割いて議論したマーガレット・キングは,以下のように語っている。

「私が最初にルリックという用語を紹介されたのは,エルメラのパスクアル神父によるものであり,それはカジュアルな鰐の崇拝や血の兄弟盟約などへの言及であった。」[King1963: 150]

キングが出会ったルリックの用法は「鰐の崇拝」や「血の盟約」をはじめとして,互いに直接的関係を持たないような,実に雑多で多様な地域の習慣を包括しており,それが抽象名詞として宣教師からキングに伝えられたことを示している。加えるならば,キングがパスクアル神父と呼んでいた人物は,おそらくA alma de Timor vista na sua fantasia『彼らの空想から見たティ
モール人精神』の著者であるエゼキル・パスコアル神父であり,彼は第 2 次大戦以前の植民地言説の影響を直接に受けた最後の宣教師兼研究者であった[Pascoal 1967]。つまり,現在にまで至る,ティモール人文化論の中心的な概念となっている「ルリック」の基本的な理解の系譜は,19 世紀末から 20 世紀前半のキリスト教宣教にまでさかのぼることができる。本研究が明
らかにしようとしているのは,まさにこの時代に「ルリック」がどのように流用され,それがどういう意味を持ったかということである。

I 19 世紀末~ 20 世紀前半の時代背景とティモール宣教の言説

(1)経緯の概要

ティモール島宣教の歴史は,16 世紀中ごろまで辿ることができる。17 世紀末までのティモールは西洋諸国から正規の「植民地」と認知されておらず,宣教師らは主に混血児たちとそのアジア系家族からなるポルトガル語系住民たちの指導者と見なされた。統計的記録は存在しないものの,島内各地に改宗者が生まれたと記録されている。(注2)ポルトガル政府は,1702 年にイベリア半島から最初の総督を送り,ティモール島を公的にポルトガル領に組み込もうとしたが,既得権を持つティモールの宣教師たち及びトパスと呼ばれる混血集団の頑強で長期的な抵抗にあい,1769 年にはリスボンから送られた総督の集団は,オイクシ(西ティモールのポルトガル系集団の中心地)から追放され,その地点よりも東部に位置する北海岸の小さな集落,ディリに新たな「ポルトガル政府の町」を築かざるを得なくなった。以後,ポルトガル植民地政府の直接統治が及ぶ地域は,ディリ,マナトゥト,バトゥガデの 3 港に限られ,その外部における「土着民政策」は,彼らの慣習を踏襲しつつ,同化を行わない間接統治を基本方針としていた。

このようにティモールにおいては宣教師たちの本国政府への反乱が起きたが,ポルトガル王室は教皇庁から条約上アジアでの布教を委任されており,ポルトガル本土の教会の活動はバチカン以上にポルトガル政府の組織・意向に依存していた。18 世紀中ごろ,リスボンでは「啓蒙専制君主」として知られるポンバル侯爵が権力を握り,イエズス会の追放などが行われた。以後,1920–30 年代にサラザール独裁政権が成立する以前まで,世俗政府の教会に対する優勢が確立していくなか,両者の関係はたびたび悪化した。ポルトガル領ティモールにおいては,1834 年から約 40 年間,イエズス会などの修道会の追放が行われ,ティモールのクリスチャンたちは,不定期に送られてくる(ポルトガルの植民地であった)インドのゴア出身の在俗司祭たちに任されることとなった。

しかし,1874 年に教皇庁とポルトガル政府の合意によって,ティモール宣教がゴア教区からマカオ教区へ移動されたことにより,新たな展開を迎えることとなった[Belo 2012: 309–350]。既にマカオの司教に任命されていたマヌエル・ベルナルド・デ・ソウザ・エネス司教は,ポルトガルの植民地宣教のために整備されたセルナシェ・ド・ボンジャルディン神学校出身のアントニオ・ジョアキム・デ・メデイロス神父(後に司教)をティモールのキリスト教の状態を調査するために派遣した[ibid.: 355–356, 373–374]。

40 年間の修道会の追放の間に,西洋諸国と非西洋諸国との関係は「後期植民地主義」と呼ばれる時代に入っており,メデイロス神父をはじめこの時期のティモールの宣教師たちの大多数を占めたセルナシェ・ド・ボンジャルディン神学校出身者たちは,文明化の枠組みの中で宣教の意義を見出す傾向を持った。メデイロス神父は1876 年にはマカオに帰還しているが,その報告は非常に悲観的なものであった。

「西洋人の宣教師の数が不足しており,インド人やティモール人の聖職者たちに任されている。このせいでキリスト教は衰退の一途を辿っており,現在では,まるで良い宣教師が嘗て一度もティモールに来たことが無かったかのようである。」[ibid.: 358–359]

さらに彼は,ティモールのカトリック教は「異教の習慣」に関わっており,オランダのカルヴィニストたちの影響でポルトガル領への反乱が起こされ,ティモール人が信仰するアニミズムは「ポマリ」につながり,彼らは(異教の)聖具を保管するための聖所を建設し,又バルロケと呼ばれる「異教の婚姻制度」が行われていると報告した。ここで使われている「ポマリ」という言葉は,メデイロス・ミッション以前のポルトガル人たちが作った造語であった。語源学的には「悪 mal」を「据える por」から構成されたと考えられ,非キリスト教的な原住民の儀式やその際に使われた聖具や聖像などを指した。

このようなメデイロス神父の報告は深刻に受け止められ,翌年にはメデイロス神父を長として,他にセルナシェ・ド・ボンジャルディン神学校出身の 6 人のポルトガル人神父と 1 人の中国人神父がティモール宣教のために派遣されることとなった。

ティモールのキリスト教史において,このメデイロス・ミッションは,現在まで続く東ティモールの現地語で書かれた文献に基づくカトリック教の起源として,重要な転換点と見なされている[Fernandes 1931; Belo 2010; 2012]。教会史家たちは,ポルトガルに反教会的な共和国が誕生したことにより再度修道会が追放された 1910 年をもって時代を区切るが,筆者は 1876年のメデイロスの報告から 1940 年代の太平洋戦争という転換点までを,ティモール宣教が大枠においては一定の言説の下で行われたひとつの時代と考える。

この 1876 年から 1942 年までの言説の継続性とは以下のようなものである。まず,メデイロス・ミッション以後は,宣教がティモールの西洋化及び文明化のイデオロギーの下で推進されたという点である。これはもともとティモールにおけるポルトガル支配を強固にすることができなかった 19 世紀末のティモールの植民地政府が間接統治・伝統文化維持を基本方針としていたのに対し,メデイロス・ミッションは西洋文明への同化・文明化の下に自らの宣教活動を正当化しようとしたことが背景にある。リカルド・ロケによれば,当時の植民地政府はむしろティモールの慣習に「寄生」する形で存在を維持しており,首狩りなどの既に西洋では「野蛮」と見なされたような慣習に間接的に参与していた[Roque 2010: Ch. 1]。このような状態は,本土出身者であった宣教師たちの目には「恥知らず」と見なされたのである。

メデイロス神父のインド人やティモール人宗教者,そしてティモール人の「伝統」に対する否定的な考えは,1877年から1886年にメデイロス神父の活動を継いだジュワン・フェレイラ・ゴメス神父や,1930 年代のティモール宣教の指導者アビリオ・ジョゼ・フェルナンデス神父に受け継がれた。島南部のティモール宣教の長となっていたセバスチャン・アパリシオ・ダ・シルバ神父が,担当していた村落の聖所(uma-lulik)を物理的に破壊する行為に及んだ,といったことも報告されている[Rosa 2011]。メデイロス神父の言説は,フェルナンデス神父の以下のような考え方にも表れている。

植民地の人々を文明化することとは,彼らの残虐な野蛮さや彼らの暴君たちの圧政を取り除くこと。女性たちを彼女たちが全ての野蛮な人々の間において占める商品の立場から男性たちのレベルに引き上げること。複婚を終わらせること。彼らの大地から,堕落,暗殺,両親殺し,子供殺し,夫婦間の殺し合い,虐殺に繋がるもっともグロテスクで暴力的な迷信を取り除くこと。西洋文明の精神に感化された家族的・家庭的・社会的・経済的な状況を求めること。つまるところ,究極的にはキリスト・イエスの教義の結実である。[Fernandes 1931: 99–100]

つまり,フェルナンデス神父にとっては,植民地の文明化とキリスト教化は一貫したひとつのプロジェクトだったのであり,その対立物とされていたのは,「野蛮」「暴君による暴政」「複婚」「女性蔑視」「迷信」「暴力」といったものである。しかし,フェルナンデス神父の言葉からは,ティモールにおける特殊性が読み取れない。特にティモールを含めた東南アジア各地においては女性の比較的独立した立場を指摘している西洋人の記録が多く,フェルナンデス神父の言う「女性蔑視」がティモールにどのような形で当てはまるか,当てはまらないのかは注意深く考えなければならない。そこで島北東部のマナトゥトにて宣教していたマヌエル・マリア・アルベス・ダ・シルバ神父の「報告」から見てみよう。そこでは,いくつかの「非キリスト教的な習慣」の実例があげられている。

1.複婚:マナトゥトにおいては,異教的な婚姻(matrimonio gentílico)の際,魔術師(feiticeiro)たちが儀式を行い,複婚が行われている。
2.現地人の婚姻:バルラケ(barlaque)は,新郎と新婦の家族の間で同盟を結ぶための支配的な婚姻の形態である。新郎の家は,30,40,50から100匹までの水牛,同様の数のヤギ,槍,武器などを新婦の家に捧げる。
3.死者への信仰:ティモール人は,魂の不死を信仰する。しかし,このことによって不幸や病気の原因を亡くなった先祖たちの仕業と考え,それに対する儀式が行われる。
4.戦争の儀式:古代的聖職者(ancião sacerdote)がポマリ(pomali)を行う。
5.病気に関する迷信:病気になった場合,魔術師たちや死んだ先祖の仕業とする。
6.血の盟約:同盟を結ぶ際,お互いの血を混ぜて飲む。(注3)

これらの習慣は,必ずしもナザレのイエスによって具体的に禁じられているわけではなく,少なくとも結婚式における持参品や先祖崇拝の解釈に関しては全ての宣教師が合意していたわけではない。例えば,持参品と新婦の関係を物々交換と考え,それを女性の人身売買と見なす立場や,それを婚姻の成立によって新婦側の家族が家族構成員を失った悲しみ・労働力への補てんと見なす立場などがありえた。近年キリスト教の文化人類学が指摘してきたように,何がキリスト教的で何が非キリスト教的かという線引きは,その当時の支配的な言説や個人の立場によって複数の認識が可能である。また何が宗教行為で,何が単に世俗の行為かという判断も,立場によって異なるものであり,17 世紀中国の典礼論争以来アジア諸地域における先祖の崇拝・尊敬を宗教行為と考えるか,世俗的な行為と考えるかで諸修道会は意見を異にした。

ただし修道会が追放されていた 1830 年代から 70 年代初頭のティモールのポルトガル人たちは,積極的に原住民を改宗し現地社会を変革する使命を持たなかったため,大々的な文化・言語翻訳を行う必要がなかった。そのため,非キリスト教的な宗教行為と彼らが見なしたものは,ポルトガル語を用いてポマリもしくは習俗(estylo)と呼ぶだけで済んだ。しかし,メデイロス・ミッションの宣教師たちは,新たに生まれた宣教と新規改宗者を生み出す使命を担ったため,テトゥン語・ガロリ語などを用いることとなった。この文脈で「ポマリ」や「習俗」のテトゥン語における代替用語として発見されたのがルリック(lulik)という言葉であった。そして,ポマリ=ルリックを廃止させることが文明化・キリスト教化言説の中心を成すに至ったのである。このことは,1940年代までのティモールミッションにおいて一貫していた言説であり,ティモールの教会が嘗ての西洋中心主義的な態度に大きな修正を加えた第 2 次大戦後の民俗学研究においてもこれらの語が重要な位置を占めることとなった。

しかし,1940年代までのティモール宣教のもう一方の継続性は,資金的・人的欠如であった。1926 年の独裁政権成立以前は政府と教会の関係は悪化しており,政府からの資金的援助は一切無かった。また,メデイロス神父が新たな宣教師たちを連れて行った際に 8 人に増えた宣教師たちであるが,1931 年のフェルナンデス神父の報告でも宣教師たちは 10 人しかリストアップされていない。1920年代後半には現地人神父の育成が始まるが,常に40万人以上の人口があったと考えられるポルトガル領ティモールに対して,資金的にも困窮していたミッションは,外部からの人材だけを数えればたった 10 人程度で宣教活動をしていたのである[Fernandes 1931:67–68]。このような資金・人員面での不足を原因のひとつとして,宣教師たちは言語・文化翻訳に携わるうえで,翻訳の質的にも常々妥協せざるを得なかった。

これらの少数の宣教師たちが,「ティモール人」に関する知識生産やティモール文化の変容に果たした役割は大きい。メデイロス以後のミッションから出版された書物では,テトゥン語やガロリ語の最も古い辞書や,文字文化の無いティモールにおいては初めてとなる現地語での文学(教理問答集,聖書要約,キリスト受難物語の翻訳など)が書かれ,その後の文化人類学・言語学,そしてテトゥン語文学,テトゥン語の話法を直接・間接的に影響するに至った。

(2)宣教師のティモール宣教の姿勢と「ポマリ=ルリック」の関係

言語史料の分析に入る前に二つの問いをかけてみたい。まず,宣教師たちはどのようにティモール人たちの文化を解釈し,それをキリスト教によって征服しようとしたのだろうか。次に,どのようにキリスト教やその宗教を代表する自分たちをティモール人に紹介したのだろうか。これらの問いへの回答は後々行うが,まだ翻訳の問題が認識されていなかったメデイロスの報告書において,既にティモール人たちの「慣習」は,「ポマリ=悪を据えること」と関連付け
られていた。つまり,宣教の前提として,キリスト教と一致しないような「ティモールの文化」の価値の切り下げが思考されていた。

何が西洋文明及びキリスト教と一致するか,矛盾するかという問題については,個人個人によって微妙な見解の差異がありえる。「ティモール文化」という語を使えば,そこに均質な全体性があるような印象を与えるかもしれないが,それは場所や時や個人的な文脈が違えば異なる現実を見せるものであった。そのような中で,宣教師たちがどのように「私たち」と「彼ら=ティモールの伝統」の線引きをしようとしたか,ということが最初の主題となる。この線引きが重要な理由は,宣教師たちにとって改宗とは,古い宇宙論からキリスト教の新しい宇宙論に向かって飛び移ることだからである。この意味で,「古い宇宙論」を代表させられたポマリ=ルリックに関する言説が研究対象の中心になる。

もう一点考えてみたいことは,このような宣教師たちの計画が,ティモール人という文字を書かない「他者」によって読み違えられ,変形される過程である。上記のように,宣教師たちは「私たち」と「彼ら」の線引きを明確にしようとはしたが,この作業を現地語(特にテトゥン語)で行う必要があった。しかし,テトゥン語はティモール人の宇宙論で育った言語であり,ただ単にポルトガル人のキリスト教的宇宙論をそこに移植することはできなかった。また,実際にテトゥン語を話すティモール人を,キリスト教化されたテトゥン語を話すように説得することができなければ,テトゥン語の改宗は完全な成功を収めたとは言えない。そこで本稿の続く部分では,キリスト教の言語としてミッションの基幹言語となったポルトガル語と異文化の言語であるテトゥン語の間における,宣教師たちとティモール人たちの間の「交渉」を再構築する。このためには,現地語で書かれた書物の現象学的読解や,口伝歴史と宣教師たちの著作の比較を行いつつ,これらの記述において神父,キリスト教的神,ポマリやルリックがどのように用いられているかを考察しなければならない。

II アパリシオ・ダ・シルバ神父の作品における「ルリック」に関する言語学的混乱

テトゥン語の研究におけるパイオニアはセバスチャン・アパリシオ・ダ・シルバ神父であった。彼はメデイロス・ミッションの最初の世代に属し,19 世紀末のティモール島南部宣教の長であった。20 世紀初頭,彼は後にティモールのキリスト教文化の中心と呼ばれることになるソイバダの教育施設とクリスチャン共同体を創設した。19 世紀末から 20 世紀初頭のテトゥン語へのキリスト教文学の翻訳は,まさにこのソイバダの集落で,ティモール人改宗者たちに囲まれたアパリシオ・ダ・シルバ神父及びマニュエル・フェレイラ神父などの少数の宣教師たちによって始動された。

彼の主要な著作は,1885 年に出版された『テトゥン語による教理問答集』と 1889 年に出版された『ポルトガル語・テトゥン語辞書』である。彼の教理問答集及び辞書は,テトゥン語における同ジャンルの書物として最も古いものである。

一般にバイリンガル辞書は,その時代の言語状況の客観的説明では無く,2 つの異なる言語世界の間で意味や価値観を交換しようとする試みである。例えばアパリシオ・ダ・シルバ神父の辞書には「悪魔= diabo」や「天使= anjo」の項目があるが,これらの言葉は,必ずしもティモール人が使っているがゆえ辞書に載せられたわけではなく,これらのポルトガル語の用語のティモール宣教における有用性を辞書編纂者が認識しているがため掲載されているのである。世俗の辞書編纂者で,メデイロス・ミッション以前からティモールに在住していた植民地職員ラファエル・ダス・ドーレスの辞書では,diabo や anjo の語は 1873 年以後,大まかにいえばメデイロスの訪問前後にテトゥン語に輸入された語のリストに含まれている[Dores 1907]。1966年頃に構造主義人類学者のディヴィッド・ヒックスが南東部のヴィケケでフィールドワークを行った際,彼は悪魔(demon)という言葉が既に土着のライ・ナインと呼ばれる悪霊を指す言葉として定着していたと報告している[Hicks 1976: 25]。

少し異なる例としては,改宗者(convertido)の項目がある。アパリシオ・ダ・シルバ神父の辞書では,fila ona(戻る・既に)やba di’ac(行く・良い)というテトゥン語のフレーズを「改宗すること」「改宗者」の訳語としてあげている。これらは,西洋人の宣教師たちが作り出したテトゥン語の造語である。しかし,これらの用法はテトゥン語話者たちの間では全く普及せず,現在では忘れられている。現在では tama(入る)や sarani(キリスト教徒)の語を動詞的に用いて「改宗すること」を指すようになっている。

アパリシオ・ダ・シルバ神父の辞書の構造についていえば,これはポルトガル・テトゥン語辞書であって,テトゥン・ポルトガル語辞書ではない。また,その基幹言語はポルトガル語であって,テトゥン語ではない。テトゥン・ポルトガル語の辞書に関しては,1907 年にドーレスによって書かれるまで,ティモール宣教ミッションによっては書かれなかった。

ポルトガル・テトゥン語辞書とテトゥン・ポルトガル語辞書の区別,基幹言語の区別は重要である。というのは,アパリシオ・ダ・シルバ神父の辞書はポルトガル語話者が表現したいことをテトゥン語に変換するのには便利であるが,テトゥン語の言葉の意味を探すのには全く役に立たない。ただ,ポルトガル人がティモール人に学んで欲しかったポルトガル語の意味を理解するためにテトゥン語話者が使用することも想定されていた。例えば Extrema-Uncção とい
う日常生活では使いそうもない語に長々とテトゥン語の解説がつけられていた。しかし,この辞書の基幹言語がポルトガル語であるため,序論や文法的な説明はポルトガル語を習得するまでは理解することが不可能である。つまり,大枠においては,ポルトガル語やキリスト教の用語の意味を,テトゥン語に変換・導入していくということが,この辞書の第一の目的だったと言えよう。

ここからは,辞書と民間伝承をカギにしながら,宣教師たちのテトゥン語文学を読み解いていく。アパリシオ・ダ・シルバ神父の西洋中心主義的な傾向は,例えば彼が辞書においてgentio(異教徒)の訳語として timor(文字通りティモール)及び ema-fuic(野蛮人)を当てていることからうかがうことができる[Silva 1889: 240]。ここでは二重の他者化が行われており,「異教」とは「ティモール」自体であり,平地のティモール人も彼らが山人たちを指して使うema-fuic(野蛮人)も一様に,西洋人キリスト教徒から見れば「異教徒」だというわけである。

しかし,ティモール人の文化全体を完全否定してしまったならば,キリスト教の世界をテトゥン語に翻訳する事を諦めなければならず,ティモール宣教が成功するはずはない。そこでアパリシオ・ダ・シルバ神父がどのようにキリスト教的なもの・非キリスト教的なものをテトゥン語の中で区別しようとしたかを追跡してみたい。彼の教理問答集の中に以下のようなやり取りがある[Silva 1885: 32–33]。

Q. Ema hakru’uk iha saka ruma nia oin sala contra caridade?
「何か物に向かって頭を垂れる人は慈善に対する罪を犯しているか?」

A. Hee nai. Ema hakru’uk iha fatuk ruma nia oin, iha ai ruma nia oin, iha be matan ruma nia oin,iha dikul ruma nia oin iha diman, ka surik ruma nia oin sei sala contra Nai Maromak, sei sala
contra caridade.
「はい,先生(nai)。石の前,木の前,泉の前,角の前,槍の前,刀の前で頭を垂れる人は,神(Maromak)に対して,又慈善に対して罪を犯すことになります。」

Q. Ema halo buat nee hotu, naran sa iha Timor?
「ティモールではこのような人々を総称してどのように呼ぶか?」

A. Katak, haktuir lulik.
「ルリックに従うと言います。」

Q. Lulik katak sa?
「ルリックとはどのようなことか?」

A. Lulik katak, saka ruma ne’e be ema Timor rai iha fatin ruma, atu adora, atu fiar saka nee hotu bele fo isin diak, bele fo hare diak, bele halo batar toos, iha batar barak, ka hare barak. Ema
Timor beik atu sae ba hatuda, halo estilo Timor, fiar mos lulik bele fo diak atu la bele mate.
「ルリックとは,いくらかの土地に住むティモール人が持つモノで,これらのモノが健康を良くしたり,目を良くしたり,とうもろこしを固くしたり増やしたりすると信じています。愚かなティモール人は,ティモールの儀式(estilo Timor)をし,ルリック
があれば戦いに行っても死なないと信じています。」

Q. Ema halo buat ne’e hotu halo diak, ktuir Nai Maromak nia lia fuan?
「このようなことをする人々は,よいことを行い,神の言葉に従っているだろうか?」

A. Lae. Ema ktuir lulik, fiar lulik, hadomi diabo, fiar diabo liu Nai Maromak.
「いいえ,ルリックに従い,ルリックを信じる人々は,悪魔を愛し,神よりも悪魔を信じるのです。」(注4)

この教理問答では,非常に興味深い言語状態が観察できる。まず神の訳語としてテトゥン語人の世界観における最高神であるマロマック(Maromak)が比較的無批判に使われている一方,ルリック(lulik)はほぼ「偶像(崇拝)」の訳語として使われている。尚,辞書においてはポマリ(pomali)の訳語として「ルリック」,「禁じられた」の訳語として luli を載せている。興味深いことに「神聖な」の訳語にはポルトガル語の santo 及び dia’c(良い)が載せられており,ルリックは併記されていない。そのためアパリシオ・ダ・シルバ神父は,ルリックを名詞として認識しており,偶像崇拝,ポマリ,ルリックの 3 語は同義的に使われていたと推測できる。さらに,当時のティモール人には馴染みが薄かったであろう悪魔(diabo)への愛とルリックを関連付けている。ここから,ひとつの一貫した態度を読み取ることができる。つまり,アパリ
シオ・ダ・シルバ神父にとっては,キリスト教とは「マロマック」の宗教であり,それは「ルリック=ポマリ=偶像崇拝」に対立するものであるという態度である。

ここで 2 つの問題を提起したい。1 つ目は,マロマックとキリスト教の「父なる神」の同一視である。これはミッション側から見れば,キリスト教の神によるティモールの土着の神からの換骨奪胎を図ったものである。アパリシオ・ダ・シルバ神父の辞書において「マロマック」は,「ヤハウェ」「神性」「ゼウス」の訳語として使われ,キリスト・イエスは「人となったマロマック」「マロマックの子(Maromak Oan)」とされる。また Deus の箇所ではマロマックの性質として「与える」「天にいる」「嘘をつかない」「知者である」「悪魔よりも優れている」「唯一である」などのキリスト教の神の性質が与えられている。また,教理問答集ではマロマックに関する部分があり,「真なるマロマック(Maromak duni)」「偽なるマロマック(maromak la los)」「マロマックは唯一である(Maromak ida deit)」などの用法も現れる。当時のポルトガル
人宣教師たちがこの語の使用を問題視した形跡は無く,また第 2 次大戦後のティモールの教会はそれを「キリスト教のティモール化」の文脈でティモールにおける翻訳活動において最も良い点の一つと考えたふしがある[Duarte 1960: 176]。

ただ教理問答を読んでいるだけでは,ティモールの人々がどのように宣教師たちの言説に出会ったかは明らかにならない。土着の神話体系においては,マロマックは元々ティモール人の間で信仰された神であり,彼もまた「ルリックな」存在として認識される。土着神話においては様々な態を取る神であるが,名前からして光(naroman)と関連付けられることが多く,一般に男性形の太陽神だと考えられている[Therik 2004: 244]。派生したエピソードの中にはマロマックや類似の神が,ワニとなり,大蛇となり,水の中に住まわれたという場合もある[Nordholt 1971: 142–143]。マロマックの后とされることがあるのは,月と大地であり,これらは女神として扱われることがあるが,「離婚している」とされる場合もある[ibid.; Traube 1986:36–50]。また,超越的で隔絶した存在としてより大なるマロマックを考え,地上を支配する見えない力として小なるマロマックを想定する場合もある。このようにマロマックは,通常目に見えない最高神という点でキリスト教思想の翻訳において好都合であったが,同時に具体的で固有なイメージや物語性を持った神であり,当時のティモール人たちが「真なるマロマック」
「偽のマロマック」のような神の総称としての用法を聞いた場合,おそらくは不自然な文だと感じたであろう。ここではまだ深く踏み入らないが,マロマックという語は,キリスト教の「父なる神」とは必ずしも同一ではない性質をティモール人に想起させる語だということだけは確認しておく。(注5)

また,三位一体の理論が重要な位置を占めるカトリックの正統教理との関係では,イエス・キリストを指す神の子(Marommak Oan)というフレーズがテトゥン語で意味するところを認識する必要がある。本来,テトゥン語でマロマック・オアンと言えば,西ティモールの南海岸にある村,ウェハリの儀礼的な支配者のことを指した[Therik 2004: Ch. III]。当時,西洋語においては彼の位は「ベル人の皇帝(imperador 及び keizer)」として知られており,テトゥン語で彼がマロマック・オアンと呼ばれていたことは,Grijsen というオランダ領東インドの職員が 1904 年にオランダ語の著作で言及するまで全く知られていなかった[Grijsen 1904]。ウェハリの伝承において,マロマック・オアンの先祖は太陽神マロマックと地上最初の女との間に生まれた長子とされ,その地位は世襲的に受け継がれていった。かつてマロマック・オアンに
よって任命され,ティモール島の各地を支配することになった世俗的な権力=リウライとは異なり,マロマック・オアンは,ウェハリに位置する彼の寝台に横たわり続けることが,世の安定を保証しているとされる。

テトゥン語をもたらしたとされるベル人たちにとってウェハリという土地は,彼らの先祖が最初に住み着いたとされる土地であり,その支配者たち(Loro)は太陽や空と関連付けられ,植民地化以前に支配的な集団であったと伝えられる。現在「王」の訳語として用いられている「リウライ」とは,もともとはマロマック・オアンによって派遣された行政権力のことを指したのである。

2 つ目の問題は,ルリックを「偶像崇拝」や「ポマリ=悪を据える」の訳語として使った場合の社会的な影響である。アパリシオ・ダ・シルバ神父の辞書においては,ポマリの箇所において,ルリックの他にティモール社会において正統的と考えられている行為や役職が併記されていた。その中には先祖や神体に食べ物を供えること(hanaran eto ho naan iha lulic)や祭式や聖具の管理者(makai lulic),シャーマンや伝統的医療を執り行う者(mata-dook)がポマリの関連用語として併記されている。

しかし,キリスト教以前のティモールの文化には「偶像崇拝」という語も存在しなければ,それが悪いという認識も無く,自らの習慣を「迷信」だとも考えなかったはずである。古い民話や口伝歴史,日々の会話などでルリックという語が使われる場合,最も頻繁な用法は名詞的用法ではなく,形容詞的用法である。(注6)例えば,uma-lulik(聖所)やsasan-lulik(禁じられたもの)のような場合である。次によく使われるのは補語としてである。例えば Asu mak lulik ihaOecussi. Labele han.「オイクシでは犬はルリックであるので,食べられない」のように,名詞を修飾する形で使われる。このためアパリシオ・ダ・シルバの教理問答に出てくる「ルリック
に従う(ktuir lulik)」というフレーズは,ティモール人から見れば「偶像崇拝をする」というよりも,「禁じられたものを禁じられたままにする」や「神聖なものを犯さない」といった意味をもち,それ自体は社会的に正統と考えられる古い慣習を正当とし続けるということである。この観点から見れば,教理問答はティモールの社会秩序に対して極めて攻撃的なやり方で「偶像崇拝」,及び「悪」の意味をルリック,即ちティモール人たちが神聖視しているさまざまなものに付加しようとしたと言える。(注7)

III ティモール人から見た宣教師たち

ここまではアパリシオ・ダ・シルバ神父の辞書や教理問答から教会側の言説を読み解いてきた。続いて,文字を書かぬティモール人たちがどのように宣教師たちの翻訳活動を難しくさせたかということを考えるために,さらにアパリシオ・ダ・シルバ神父の教理問答の異なる部分を読み込んでみたい。

Q. Bispo katak sa?
「司教とは誰か?」

A. Bispo katak, Nai Lulik boot liu Nai Lulik seluco. Hodi Apostolo sira nia fatin, ukun sarani hotu iha sira nia rai, naran diocese, ka bispado. [Silva 1885: 14–15]
「司教とは,他のナイ・ルリックよりも偉大なナイ・ルリックです。使徒たちの立場を担い,教区又は主教区と呼ばれる彼らの地域でクリスチャンたちを治めます。」

文脈から明らかなように,ここでナイ・ルリック(nai-lulik)と呼ばれているのは,キリスト教の神父や宣教師たちのことである。ナイ(nai)とは「主」のことであり,直訳すれば「ルリックの主」もしくは「ルリックな主」となる。アパリシオ・ダ・シルバの辞書においてもナイ・ルリックを神父・宣教師とする用法が頻繁に使われている。現在の東ティモールにおいてもカトリックの神父たちは一般的にナイ・ルリックと呼ばれている。

この言葉が,メデイロス・ミッション以前に使われていたか,又どのように使われていたかについては,史料が存在せず確認することができない。ただ,順序を逆にした lulik-nain という言葉,又は makai-lulik がキリスト教以前のティモールの宗教における聖職者たちを指して使われていたことが確認されており,ナイ・ルリックもまたキリスト教以前のティモールの宗教との関連を強く感じさせる語である[Belo 2012: 389–390]。

しかし,宣教師たちが,自主的に自分たちを「ナイ・ルリック」と呼び始めたとは考えにくい。なぜならば,一旦「ルリック」を「偶像崇拝」の訳語として使用すると決めた以上,ルリックと自分たちを関連付けられてしまえば,「異教」とキリスト教の差異があいまいになってしまうからである。ポマリ=ルリックに対して攻撃的な態度を取っていたアパリシオ・ダ・シルバ神父が,教理問答集において自らをナイ・ルリックと呼ばざるを得なくなったことは,テ
トゥン語人たちが,先に西洋人の神父たちをナイ・ルリックと呼ぶようになったことが原因とは考えられないであろうか。

あるテトゥン語の口伝伝承では,なぜティモール人たちが宣教師たちをナイ・ルリックと呼ぶことになったかの理由付けがなされていた。バジリオ・デ・サ神父が 1950 年代後半に収集した口伝伝承には,「最初の宣教師」がリファウ(現在のオイクシ)及びメナに到着した際の出来事を語ったものがある。ポルトガル側の史料が「ティモールの女王とその臣下の改宗」に重点を置いているのに対し,テトゥン語の伝承では,宣教師が乗っていた船がティモール島を
引っ張ったことによって大規模な地震が起きたという一見魔術・奇跡的な出来事が語りの中心となっている[ibid.: 132–133; Sá 1961: 90–113]。この口伝伝承の終盤には,ティモール人の女王が服従の証として宣教師の手の甲に口づけをしようとする場面で以下のような文が挿入されている。

Houri hakbesik ha’u, tan ba ha’u ema lulik! Nune’e sira tomak hateten: Ita bot, na’i lulik liu ami liurai lulik sira.” [Sá 1961: 112–113]
「触れるでない。なぜなら私はルリックな者だからである(と宣教師は言った)。そのため全ての者たちが言った。あなた様は,私たちのルリックな王(liurai lulik)たちよりもルリックな方(na’i lulik)でございます。」

そしてこの口伝伝承は,「ナイ・ルリックの名称はこのような歴史(histori)に由来しているのである」と締めくくられる。つまり,口伝伝承においてはナイ・ルリックというフレーズは,「ルリックの主」と,ルリックを名詞的に解するものではなく,ルリックな王(liurai lulik)との比較級の文脈で現れている。言い換えれば,ルリックはティモール特有の文化や宗教を表す語としてではなく,カトリック教を代表する宣教師を修飾することも可能な形容詞であった。

これらの状況から,2 つ以上の言語政治的な立場がアパリシオ・ダ・シルバの辞書と教理問答集の中に現れているといえよう。一方は,キリスト教をマロマック=神への信仰と位置づけつつ,名詞として理解されたルリック=ポマリを邪として退けるメデイロス以降の西洋キリスト教宣教師たちの立場がある。もう一方で,口伝伝承やナイ・ルリック=神父というフレーズに表れているような,ルリックを形容詞として用いる立場があり,この世界観においては西洋
人のカトリック宣教師たちもまた「ルリックな」存在だとみなされた。この 2 つの世界観の相違が,辞書や教理問答におけるルリックに関する言語学的な混乱につながっていると考えられる。

IV 初期のテトゥン語の聖書物語

最も古いポルトガル語・テトゥン語の対訳の聖書物語が出版されたのは 1908 年のことであり,その著者はマヌエル・フェルナンデス・フェレイラ神父であった。この書物の副題には「ティモールの子どもたちのための」とあり,ティモールにキリストの福音を伝えるために必要な教材として出版された[Ferreira 1908]。

フェレイラ神父は,ブラーガのセミナリオで教育を受けてイエズス会士となった[Belo 2010]。つまり彼は,セルナシェ・ド・ボンジャルディン出身のメデイロス神父のグループとは教育的背景が異なっていた。彼は,マカオの神学校で道徳神学と教会法について講義した経歴があり,同じくイエズス会士であったアパリシオ・ダ・シルバ神父がティモール宣教の長に任命された際,1899 年 9 月にティモールに着任した。そして,1910 年に修道会がティモールから追放されるまで,ソイバダにて奉仕したとされる。

フェレイラ神父が残した著作は多く,その中にはテトゥン語の聖書物語の他にアパリシオ・ダ・シルバ師とは異なる教理問答,テトゥン語辞書,祈祷集などがあったとされるが,現在は散逸しており,現存しているのか定かではない。彼のテトゥン語での著作の形成過程についてパウリーノ神父は 2 つの傾向を指摘している。ひとつは,様々な方言が存在するテトゥン語の中で,もっとも「完全な」ものに従って書こうと努力をしたということであり,もう一方は,
様々な地域の良きテトゥン語話者(fallantes)たちを呼び,自身の翻訳が人々の教育のために供するよう正確に表現されているかどうかの確認を綿密に行ったという点である[Belo 2012:592–593]。

フェレイラ師の聖書物語の文体から考えるならば,彼が「最も完全」と考えたテトゥン語の方言とは,ソイバダが位置しているティモール島内陸部,及び南東部の所謂テトゥン・テリックである。現在東ティモールの公用語となっているテトゥン・ディリと比較した場合,南東部のテトゥン語には語彙の違いの他にも大きな差異がある。まず,南東部方言には,文法的な複雑さがあり,主語人称に依存する動詞の活用や,もっと重要なことに厳格な敬語表現の体系が
存在している。これは推測であるが,フェレイラ師は,神やキリストと人間との上限関係を厳しく規定するために南東部のテトゥン語の方が都合がよいと考えたのだろう。

次に,教会史が指摘してこなかった点であるが,フェレイラ神父の聖書物語には,聖書中の出来事をティモール的な出来事として語るという特徴があった。パウリーノ師が「話者」と呼んだ人々がティモール人たちであることは疑いの余地が無いが,これがテトゥン語におけるリアナイン(lia-nain,直訳すると「言葉の主」,アパリシオ・ダ・シルバ神父及びドーレスの辞書では「演説者 orador」と訳されている)を指したのかどうかは定かではない。リアナイン
たちは,各村々の起源神話を記憶したり,儀式の際に演説したり,訴訟の際に証人となる云わば生き字引のような人々である。フェレイラ神父の聖書物語では,ヤコブの息子ヨセフが,ファラオに助言する「リアナイン」として登場するが,最も完全なテトゥン語の正確な翻訳を目指したフェレイラ師がリアナインたちに助言を求めたというのはさもありそうなことである。

いずれにせよ,この聖書物語は,西洋人宣教者であるフェレイラ神父がポルトガル語の原文とテトゥン語の草案を書き,テトゥン語話者たちに聞かせ,コメントを受け,書き直すプロセスを繰り返した作品である。つまり,平等ではないが,宣教師(著者)とティモール人たち(言語上の協力者,聴衆)の相互の交渉に基づき,キリスト教のティモール化を目指して生まれたものである。以下の部分では,宣教師たちによって「完全な翻訳」とされたこの聖書物語が,
キリスト教の優位を伝えることを意図しつつも,どのようにティモール人たちの参加によって別の意味を帯びてしまうかを考えていきたい。

V テトゥン語で表現された一神教

メデイロス・ミッション以降のティモール宣教においては,一神教の論理を確立するということが宣教師たちの念頭に在り,アパリシオ・ダ・シルバ神父の作品に見られた「偶像崇拝」や「異教の神」に対する態度は,フェレイラ神父の聖書物語の随所にも発見される。最初に「偶像崇拝」の悪が指摘されるのは,ノアの洪水の後の世界についてである。

“Rai naué liu tiha, ema sa’e tan sa’e tan: sira hetoc raluha buat ne’e bé, sira bein ro sira na’in ranourin, radômi reci rai nia saçán, la ralo tuir Na’i Mar(omak) nia ucun-fuan, adora buat let, no mos buat ne’e bé sira duni ralo ha’e ralulic. Ha’a-foin sira ralo at ba malu, ralo funu, rodi radáu malu; sira ranoin de’i atu ralo buat at oioin.” [Ferreira 1908: 18]

「洪水が終わり,人々は次々に増えた。すぐに彼らは先祖たちの教えを忘れ,それよりも大地のもの(rai nia saçán)を愛し,マロマックの律法に従わず,虚しい物(buat let)や彼ら自らルリックとしたもの(buat ne’e bé sira duni ralo ha’e ralulic)を崇拝した。そして,彼らは互いに悪を行い,戦争をし,略奪した。彼らは互いに悪を行うことしか考えなかったのである。」

また,旧約聖書のまとめにあたる部分には以下のようにある。

“Cleur tiha ema ralia Israelita sira, ra’ac Judeu. Sira n’e de’i adora Marômac los: povos sira seluc tuir lulic, adora marômac la los; sira moris at liu, sira retan de’i rahu-at.” [ibid.: 48]

「後にイスラエル人たちはユダヤ人と呼ばれるに至った。彼らのみが真なるマロマックを信仰した。他の人々は,ルリックに従い,偽なるマロマックを信仰した。彼らは淫らで惨めな生活を送ったのである。」

これらの箇所では,テトゥン語におけるイスラエル人の宗教とは,ルリックを介さずにマロマックを信仰する宗教として紹介されており,ルリックへの敵対的な態度は維持されている。さらに最初の引用では,「大地のもの」(rai nia saçán)が天の神であるマロマックに対立する概念として現れる。

この部分は,ある意味でキリスト教的な超越的な神,天の神という概念をうまく表現しているといえるかもしれない。ティモールの神話におけるマロマックは,超越的な神ではあるが,ある場合には大地の女神(Rai Inan,直訳すると「母なる大地」)と結婚していると表現されたり,「離婚」していると表現されたりし,彼自身もルリックな(犯してはならない)存在だとされた。地方的ヴァリエーションとしては,ヒックスがフィールドワークを行った南東部の
ヴィケケの村々では,人類は天の神マロマックよりも,ライ・イナン(母なる大地)から直接的に生まれ,死ぬときには大地に還るとされ,儀式的にはライ・イナンの重要度が高かった[Hicks 1976: 21]。フェレイラ神父は,神話学的にも儀式的にも聖なる=ルリックなものとの関連の強い母なる大地の価値を引き下げ,それらがまるで天の神マロマックの無機質な被造物でしかないような新しい神話を語ることにより,マロマックを神話上の新しい位置に据えたのだ。それが,「ルリックに従っているならば,信仰している対象は偽のマロマックである」という神学的主張を正当化している。

また,上の 2 つの引用において,「ルリックに従うこと」と「偽のマロマックに従うこと」の結果は,暴力,戦争,略奪,淫らさ,惨めさだと結論されている。これらは当時のポルトガル人がティモール人に対して持っていた既成概念に由来している。ここでは,これらのティモール人の「野蛮さ」は,彼らの伝統的信仰形態に由来していると主張しているのである。

ただし,ルリックの「禁じられた」もしくは「聖なる」の意味が随所で浮上してきてしまうことは,やはり避けられなかった。モーセが神から律法を授かることになるシナイ山において,神はこの土地を「ルリックである」と宣言しており,初期のキリスト教の宣教者たちをナイ・ルリックと呼んでいる場面がある。この点は,アパリシオ・ダ・シルバ神父の著作が持っていた言語学上の混乱を解決しないまま引き継いだ形になる。

VI マロマック・オアン・イエス,宣教師カイファ,植民地総督ピラト

フェレイラ神父の聖書物語の登場人物たちは,「イスラエル人」「ローマ人」といった説明はされているが,実にポルトガル領ティモール的なキャラクターとして描かれている。例えば,創世記の部分に登場するファラオはエジプトのリウライ(liurai),彼が夢について相談した呪法師はエマドック(ema-dook 霊媒師,呪術師などと訳される),ヤコブの息子ヨセフはリアナイン(lia-nain,テトゥン語社会的に正統と認められる言葉の主,祭祀の責任者,演説者)だと説明される[Ferreira 1908: 24–27]。それゆえ,エジプトに奴隷として売られ,知恵ある言葉によってファラオの宰相となったヨセフの物語は,エジプトでの出来事と考えることができると同時に,ティモールのある村で起こった出来事とも感じられるような描かれ方をしている。

しかし,ヨセフの物語以上に強烈な印象を与えるのはイエスの受難物語である。ゲツセマネで裏切り者ユダと彼が連れてきた群衆がイエスを逮捕しようとする場面は以下のように描かれている。

Jesus naré Sacerdote ulun sira, catuas ro ema bot ruma, ro soldado sira ba, nalo lia tun ba sira na’ac: <Imi hodi suric no ai-dôna, atu mai cair Ha’u cba iha Templo, ctur iha imi let, canorin povos sira imi la cair Ha’u?>” [ibid.: 100]

イエスは,祭司長たち(sacerdote ulun sira),長老や権威あるものたち(catuas ro ema bot ruma),兵士たち(soldado sira)を見て言った。『あなたがたは悪人を捕まえるときのように,剣や棒を持って私を捕まえに来たのか。私は毎日,宮で座って教えていたのにあなたは私を捕らえなかったのです。』

この場面で,イエスが対峙している祭司長(sacerdote ulun)と呼ばれる人々は,ポルトガル語の聖職者= sacerdote にテトゥン語の「頭= ulun」をつけて表現され,古い口伝伝承のテトゥン語では使われた例が現存しない。catuas はティモール人の長老を指し,エマボートは人種にかかわらず「偉大な人」を指す。ソルダード(soldado)はポルトガル語の「兵士」であり,テトゥン語で「勇者」を指す as-wain は使われていない。このようなポルトガル的,またポルトガルに同化したティモール人的な描写に加え,その場面で挿入されている宗教画においては,この祭司長,長老,兵士の集団からなる悪者たちは,明らかに西洋文明に属する人々として描かれている。

それに対して,キリスト・イエスは,実にティモール人的な人物として描かれている。連行されたイエスは,大祭司カイファの前で尋問を受ける。その際,カイファ及び祭司長たちはイエスに対して以下のような質問をする。「あなたは,マロマック・オアン(Maromak Oan)であるか?」そして,イエスは応える。「あなた方の言うとおりです」[ibid.: 101–102]。そしてイエスのこの発言を根拠として,彼は涜神の罪で処刑されることとなる。

個人としてのフェレイラ神父が,「神の子(Maromak Oan)」という言葉のティモール的な意味を知っていたかどうかは定かではない。しかし,先にも触れた通り,この言葉は本来西ティモール南部のウェハリに横たわり続けるベル人たちの儀式的支配者を指した。イエスが,自らをマロマック・オアンだと称したとき,彼はまたティモールの神話体系における地位をも主張したことになるのである。

大祭司カイファによって告訴されたイエスは,総督ポンテオ・ピラトに引き渡されるが,フェレイラ神父の物語では,ピラトは大文字でユダヤ人のエマボート(Ema-Bot)という地位を与えられている[ibid.: 75–76]。直訳すればエマボートは「偉大な人」であるが,当時のポルトガル領ティモールにおいては,通常ポルトガル人総督を指す語であった。つまり,ティモールの土着宗教的支配者と同格であることを主張したイエスは,ポルトガル人総督と同格の
ピラトによって尋問を受ける。ここではまた新たな展開がある。

Pilatos neçuc: Ne’e-duni o liurai? Jesus nalo lia tun na’ac: Tebes duni; hau, liurai nu’udar o meçuc. Ha’u cmai iha rai atu canorin lia los; ema ne’e be rona Ha’u lian, sei fiar Ha’u.” [ibid.: 105]

ピラトは尋ねた。『お前(o)がリウライだというのは本当であるか?』イエスは言葉を賜れた(nalo lia tun na’ac)。『そのとおりである。お前(o)の言うとおりである。私は真理(lia los)を語るために地に来たのだ。私の言葉を聞く者達は,私を信じる。』

外国人総督=エマボートであるピラトは,イエスがリウライ(土着の王)かどうかを尋ね,イエスはそれを肯定している。また,「真理」の訳語として使わている lia los は,テトゥン語では歪曲された神話に対する真正で正統な神話を暗示する。(注8)ここでイエスは,土着の権威であるリウライ又はマロマック・オアンとして,外国人支配者ピラトに対して,自らが正統な権威であることを主張している。

またピラトとイエスはお互いをオ(o)と呼び合っている。これは,テトゥン語において,目下の人間に語りかける場合に用いられる二人称である。つまり,イエスとピラトの会話においては,どちらが上の位に属するかをめぐる,言語政治的な状況が発生している。この競争状況に対して,フェレイラ神父は「イエスがピラトに対して言葉を下した(nalo lia tun na’ac)」という言い回しをすることによってイエスの上位を示している。だが,結果からすれば,イエスは,外国人総督ピラトの承諾のもと,ローマ兵たちに連行され,十字架刑に処されて亡くなるのである。

このような物語は,キリスト教の優越を説きたかった宣教師たちの意図とは裏腹に,ティモール人たちにとっては現実の延長としての印象を与え,又ある意味で革命的な現実認識を可能にした。奇跡を行い,ティモール風の権威(リウライやマロマック・オアン)であることを主張した無実の人,イエスは,明らかに西洋人風の祭司長たちや総督ピラトの策略によって処刑されてしまうのである。

そしてこの聖書物語の要約が書かれ,出版された時代にはイエスの処刑に類似する出来事がティモール島の各地で起こっていたのである。マロマック・オアンの土地であるウェハリは,17 世紀中頃にはティモールのポルトガル人に侵略され,リアルポリティックスにおいては没落していたが,19 世紀末期の時点でまだ儀式的な権威としての地位を保っていた[Francillon 1980: 248–265]。20 世紀初頭にウェハリは再度オランダによって屈服させられている。また,オイクシにおいては,ポルトガル人たちによって captain-mor と認められたメスティーソ(西洋人・アジア人の混血)のホルネイ,ダコスタ両家が世俗の支配者として振る舞っていたが,オイクシの婚姻関係の伝統からみた例外性により,土着のティモール人達の間には彼らのリウライとしての正当性を疑う見方が残った。(注9)また,フェレイラ神父の聖書物語が出版される前の時代,1870 年代には,数少ない文明化されたリウライとして名の通っていたラレイアのドン・マヌエル・サルバドール・ダ・コスタ・レメディオスがカトリック教会に敵対した罪で告発され前述のジュワン・フェレイラ・ゴメス神父に率いられた宣教師たちによって迫害されたという事件があった。(注10)

このようにフェレイラ神父の聖書物語における「イエスの受難」に類似する事件は数限り無いが,この編纂に関わったティモール人や後にこれを読み聞かせられることになった人々は,自らの経験に応じて様々なティモール的な理解をするように方向づけられたであろう。

このようにして,このティモール人の「話者」たちの協力とフェレイラ神父の聖書翻訳への情熱によって成立したテトゥン語の聖書物語は,一方でテトゥン語の中で西洋キリスト教的な一神教とその「秩序」を表現しようと意図されていた。特に,旧約聖書に対応する部分においては,この傾向が強く現れている。しかし,ティモール人が理解できるポルトガル領ティモールの文脈にそって書かれたことにより,キリスト教の秩序を表現しようとするプロジェクト
は,ティモール人的な人物,イエス・キリストの受難を通して,いつのまにか宣教師たちが封印しようとした植民地化以前のティモールの権威を再度称揚してしまうのであった。

VII アビリオ・ジョゼ・フェルナンデス神父―支配の文法

最後に,アビリオ・ジョゼ・フェルナンデス神父の文法書を考察していきたい。彼は,アパリシオ・ダ・シルバ神父(1877–1910 年)やマヌエル・フェレイラ神父(1899–1910 年)の時代よりも後の時代にティモール宣教に関わった人物である。1910 年には,リスボンにおいて反教会的な共和国が成立し,この影響を受けてメデイロス・ミッションの世代の宣教師たちはティモールから追放された。この宣教師たちの追放期間中に,ポルトガル植民地政府はマヌファヒのリウライ,ドン・ボアベントゥーラに率いられた大軍に対して最後の植民地化戦争を行っており,その後ポルトガル領ティモールはほぼ完全に平定されたと言える。数年後には規制が緩和され,宣教師たちは少しずつティモールに入り始めたが,公的に再開されたのは,以後約半世紀続くことになるサラザール(後にはカエターノ)独裁体制が成立した 1926 年からである。フェルナンデス神父は,ティモール平定後の 1914 年には既に来島しており,1925 年には島南部への宣教の長に任ぜられている。30 年代に入ると,彼はディリに戻って名実共にティモール宣教全体の指導者となっており 38 年までティモールに残っていた[Belo 2012: 570–573]。

もう一点,フェルナンデス神父が,アパリシオ・ダ・シルバ神父やフェレイラ神父と異なるのは,後者は専ら南部(コントラコスタ)宣教に従事した人々であるのに対して,フェルナンデス神父は南部宣教の経験に加えて,植民地政府の直接統治の歴史が長い北部宣教の長でもあった。つまり,前述の二人はポルトガルの直接統治を免れたティモール人世界に囲まれて生活したのに対して,フェルナンデス神父は,内陸部に加えて,よりポルトガル化が進んでいたディ
リ近辺のラハネに活動拠点を置いた。彼の宣教での功績は非常に大きなものであったとされる。第 2 次大戦以降の歴史との関係では,後に日本軍への抵抗で国民的英雄となったアイナロのドン・アレイショ・コルテレアル及び彼の領民たちの改宗に貢献したとされる[Belo 2012]。彼は 2 冊の重要な書物と,教会の会報に多くの短い論考を残しているが,彼が既に考察した二人と異なる点は,彼がほぼ例外なくポルトガル語人の聴衆だけを想定して知識生産を行ったという点である。先に出版された書物は 1931 年に出版され,『ティモール宣教の歴史的概観と実情,及びある旧総督によって悪しくも主張されたいくらかの虚偽に対する反論』という非常に長いタイトルがつけられている。これは,史上初めて書かれたティモール宣教の歴史書だという点で重要である。

このタイトルに出てくる「ある旧総督」というのはフェルナンデス神父と同時代人であったテオフィーロ・デュアルテ総督であった。フェルナンデス神父が問題にしていたこととは,デュアルテ総督が自書の中で「ティモール人から見れば,宣教師たちは別種の魔術師にすぎない」と言及していたことであった[Duarte 1930: 367; Fernandes 1931: Ch. 7, 13, 14]。ティモール人たちが宣教師たちをナイ・ルリックと呼んでいたことは既に指摘したが,自らを文明化の尖兵と目し,植民地政府の現地慣習に対する不干渉政策を批判してきた 20 世紀初頭の宣教師たちにとっては,デュアルテの言葉は受け入れがたいものであった。

そこで,フェルナンデス神父が自らと宣教チームの立場を擁護するために依拠したのは,西洋帝国主義的な考え方であった。彼の歴史認識によれば,ティモールを少しでも文明化してきたのは植民地政府ではなく宣教師たちであったのに,反教会的な権力の介入・宣教師たちの度重なる追放によってその努力が妨げられてきた。また,彼が考える「文明化」とは,西洋化とキリスト教化の 2 つの主軸を持っており,精神面・哲学面でティモール人から学ぶという観点
は,フェルナンデス神父においては皆無であった。フェルナンデス神父の 2 つ目の著作は,1937 年に出版されたテトゥン語の文法書,『テトゥン語習得のための実践的な方法』であった。タイトルからも推測できる通り,この本は厳密な文法書であるよりも,実際に使用できるテトゥン語表現を習得させることが意図されていた。序論にはこの本を書いた目的が示されており,それは第一に新規の宣教師たちだけではなく,植民地職員たちが(西洋人支配者として)現地人に「淫らに」誤解されることなく,適切に現地語を話せるようにすることであった[Fernandes 1937:2–3]。フェルナンデス神父は,この文法書の功績により植民地政府からの賞賛をうけており,官報によれば,彼が「土民の言語を植民者たちにとってより簡単に習得できるものにした」ことが賞賛されたのである[Belo 2012: 571–572]。

フェルナンデス神父が宣教に関わった時代には,暴力によるティモール人の平定の段階は既に終わっていたため,ポルトガル人植民地職員も宣教師たちも以前とは若干異なった問題意識を持っていた。フェルナンデス神父が考えていた言語問題とは,ポルトガル人・宣教師たちが文脈に沿わないテトゥン語を話すことによって,ティモール人の前で神や西洋人の尊厳が損なわれることであった。

そこでフェルナンデス神父が考えついたことは,簡素化されたディリのテトゥン語と同時に,内陸のテトゥン語における敬語表現のエッセンスを習得することで,神と人間,白人とティモール人,主人と奴隷,「私たち」と「あなたたち」といった宗教的・社会的なヒエラルキーを「適切に」表現できるようにすることであった[Fernandes 1937: 26–29]。ヒエラルキーに関する部分では,平等の者同士,上下関係のある場合の表現が以下のように併記されている。

Hau hacara hateten ba ó. ̶ Háu ata hacara hasáe lia ba Ita-Boot.
私はお前に言いたい。私(下僕)はあなた様に申し上げます。

O aman dehan catac o sei ba . . . ̶ Amo hatun lia catac o sei ba . . .
お前の父はお前に―するようにと言う。主はお前が―するようにおっしゃる……

O nia liman. ̶ Ita-Boot futar liman . . . [ibid.]
お前の腕。貴方様の御腕……

いずれも,右側に現れる謙譲・敬語表現は,内陸部のテトゥン語にしか見られない表現で,ディリでは現在でも教会の外では定着していない。そして,三番目の例文には,futar をつけることで高貴な人間の身体・言葉を高貴なものとする用法が使われている。この用法に関しては,世俗の辞書編纂者であったドーレスは,「(アパリシオ・ダ・シルバ神父の)辞書に登場するが,私は(ティモール人から)このような表現を聞いたことがない」と書いており,メデイ
ロス・ミッションの宣教師たちによって発明された表現である可能性が高い[Dores 1907:]

また後半部には,例文集や会話集が収録されているが,これも同格の「(西洋人とティモール人の)2 人の友人同士の会話」「女主人とコック」「女主人と洗濯召使」「女主人と使用人」「パトロンと庭師」「パトロンと馬の世話人」といった植民地的な社会関係を設定している。このうち,「パトロンと庭師」は,ひたすらパトロンが庭師に命令し続けるモノローグであり,「会話」ではない[Fernandes 1937: 214–216]。また「女主人とコック」では,言い訳が多く「怠け者」のティモール人コックを働かせるために,女主人は「解雇」や「舌を切る」という暴力を背景に料理人を脅迫する[ibid.: 196–203]。「(西洋人とティモール人の)2 人の友人同士の会話」の会話においてさえも,明らかに西洋人であるベルナルドがティモール文化に否定的な意見を述べるのに対して,ティモール人アントニオがそれを非難し,反論する機会は与えられていな
い[ibid.: 191–192]。

このように,フェルナンデス神父は,客観的な言語状況を説明するよりも,時には植民地の周辺部に存在していた表現を用いたり,場合によってはポルトガル人が作り出したテトゥン語を使ったりすることによって,理想的な植民地的ヒエラルキーを実現しようとした。特にフェルナンデス神父がポルトガル人の読者たちに習得を求めたのは,現地人への命令形の体系であった。

探検家 H. O. フォーブスは,1880 年代に「ティモール人は(西洋人に対して)横柄である」と伝えていた[Forbes 1884: 403–404]。またこの論文の中で見てきたように,20 世紀初頭には,
宣教師たちのテトゥン語にも上下関係の表現に関する混乱が散見される。しかし,ポルトガルによる支配の終わりに近づいた 1970 年代にはティモール人たちはポルトガル人たちを「神々のように」扱ったとされている[Pinto 1997: 32]。フェルナンデス神父の文法書は,テトゥン語において理想的な植民地関係を表現するためのガイドブックとして,西洋人とティモール人の関係性の変化に関して一役買ったと言えるだろう。

VIII 結  論

本稿では,時系列的にティモール宣教の翻訳の歴史を再構築しつつ,彼らの西洋・キリスト教中心主義的な言説をティモール文化に押し付けようとする試みについて語ってきた。宣教師たちによるルリックの名詞的用法の発明は,まずカトリックに対する他者としての「偶像崇拝」「ティモールの伝統宗教」の訳語を必要とする宣教活動の中で起こり,それは彼らが作り出したテトゥン語文献の中に反映された。しかしこのルリックの名詞的用法は,メデイロス・ミッションによるテトゥン語の宇宙論の読み間違えに由来しており,言語的混乱を生み出さずにはいられなかった。

そのため,彼らはルリックの名詞的用法のみを使い続けることはできなかった。ティモール人たちは,ルリックの名詞的用法を完全には受け入れず,それを形容詞として使い続け,宣教師たちをナイ・ルリック(ルリックな方)と呼び続けたからである。宣教師たちは,ネガティブな他者を表象するためにルリックの用語を利用したが,ティモール人達の観点では西洋人宣教師たちは自分たちの指導者以上にルリックだったのだ。この見方によれば,西洋・キリスト
教の優越は認められていたとしても,それは宣教師たちが望んでいたような「優越」ではなく,彼らの存在はティモール人たちの世界観に編入されたのである。

本論考では別のタイプの抵抗を,テトゥン語への聖書物語の土着化の試みの中に見出した。フェレイラ神父の翻訳活動に協力したティモール人たちは,物語の重点を宣教師たちが望んでいたものからは逸らしてしまった。救世主,ナザレのイエスは,ティモール人のような土着の儀礼的・実質的指導者として描かれ,彼の反対者たちに与えられた役職や位はポルトガル人植民者たちを連想させるものであった。宣教師たちは,聖書を「正確に」翻訳することさえでき
れば西洋的キリスト教の優越は自然に受け入れられるものと想像していたはずだが,テトゥン語に翻訳された聖書はこのような算段を裏切り,ウェハリの植民地主義以前の権威を正当化するものに成り得た。西洋的支配者たちの優勢は,世俗の権力と軍事力のみにおいて認められ,土着民族を代表するキリスト・イエスはティモール人の霊的優越を示していた。

ティモール人の翻訳活動への参加及び宣教師たちのテトゥン語の理解度の低さから生じたメデイロス・ミッションの言説の転覆は,ティモール人を読者層から排除することによって予防することができたが,テトゥン語においてはそうはいかなかった。本稿は,アビリオ・フェルナンデス神父の文法書を言語の支配を志向する書物として解釈した。彼は,テトゥン語における西洋人の優越は,西洋人がテトゥン語の謙譲語・敬語・命令文の体系を完全に習得すること
によって達成され得ると考えた。彼の文法書は,簡素化されたディリの方言に加えて,西洋人たちにティモール人の内陸部の伝統的支配階級のようにテトゥン語を語ることを勧めるもので
あり,言い換えればティモール社会の権力関係を植民地関係に複製することであった。つまり,西洋とキリスト教の優越を認識させるため,ティモール人の権力認識の中でより高貴に,そし
てよりルリックになるという皮肉な言語状況を生み出した。

最後にこれらのテトゥン語キリスト教文献や植民地時代の教会イデオロギーのその後の時代への影響について言及したい。ミッションスクールで教育を受けることになる 20 世紀のティモール人エリートたちはポルトガル語の世俗教育を受けたが,宗教の科目だけはテトゥン語で受けることとなった。そのため,ティモール人として唯一ポルトガルの文学界で成功したフェルナンド・シルヴァン,インドネシア統合派アポデティの指導者だったギレルメ・ゴンサルベ
ス,そして独立派のフレテリン指導者たちの書物や思想にテトゥン語宗教テキストの影響及び類似の植民地主義言説の読み替えを見出すのは容易い。

1940 年代の第 2 次大戦の後,ポルトガルは旧植民地に関する政治的言説を大きく変更しており,その中でティモールを含む「海外県」は名目上本国と同等ということにされた。これに伴って教会権力の言説も変更されることとなったようであり,戦後任命されたジャイメ・ガルシア・ゴウラールト司教は,偶像破壊的であるよりは,ティモールの土着信仰,特に超越的な神の概念とキリスト教の類似点を強調していた[Cardoso 1999]。また,1950 年代中旬には,前述のエゼキル・パスコアル神父との交代で,教会誌『セアラ』の編集者として混血児でティモール出身のジョルジ・バーロス・デュアルテ神父が任命された。彼の下で『セアラ』の内容も少なからず修正されることとなり,以前の西洋中心主義は批判されることとなった。

既に導入部でも指摘したが,植民地時代の教会側のルリックに関する言説は,英語圏の文化人類学者マーガレット・キングを通して学会に流布しており,現在では教会に近いティモール人たちの間でもこの語を名詞的に使用する人々がいる。元々の植民地主義的・宣教上の起源が忘れられた現在,ルリックの名詞的用法は形容詞的用法と共に広く定着したと言えよう。

東ティモール独立後は,国民国家の性質とも言えるアイデンティティー・ポリティクスにおいて,東ティモール民族をカトリック教によって規定するべきか,それ以前から存在した土着文化によって特徴づけるべきかという緊張関係が生まれている。その文脈では,紛争後の東ティモールを統合するための概念としてルリックが再度注目を集めており,ティモール人の知識人・研究者のジョッシュ・トリンダーデや彼の賛同者たちは,「外国人やカトリック教会によるルリックの価値の切り下げ」を批判しつつ,国民国家統合のための聖堂(uma-lulik nacional)の建設,ティモール文化の中核(core)としてのルリックの再評価を提唱している[Trindade and Castro 2007; Trindade 2012]。本稿の文脈において考えるならば,このような東ティモール独立後に生じたポジティブな概念としてのルリック(名詞)の再評価は,宣教師たちによる「他者」としての対象化というルリックの名詞的用法の起源については無批判ではあるが,それをティモール人の集団的自己肯定に利用しようとする新しい思想運動と位置付けることができる。このようなカトリック教を「他者」として規定しようとする「強い土着主義運動」は,本文で扱った名もなきティモール人たちによるルリック(形容詞)を用いた言説のずらし,外部をテトゥン語の宇宙論に取り込もうとする「弱い土着主義」とは性質を異にしている。

本稿は,研究者や知識人たちが様々な意味でネガティブにもポジティブにも用い,現在でも東ティモール人のアイデンティティーをめぐる議論の中で重要な位置を占めているルリックという言葉が持つ歴史的な背景を,宣教師たちの翻訳活動と彼らの誤訳に着目して明らかにした。

巻末注

1.本稿における筆者の解釈は歴史資料に基づくとともに筆者のティモールにおける生活経験に拠っている部分がある。筆者が東ティモールの首都ディリに長期滞在したのは 2009–10 年と 2015 年であり,テトゥン語でのコミュニケーションは 2009 年以降ディリにおいて,またインターネットなどを通じてティモールの知人たちと行ってきたが,内陸部に長期滞在したことはない。ディリに住む人々や内陸部から移住してきた人々との会話において「ルリック」という語は多くの場合,形容詞的に使われていた。それに対して「ルリック」が名詞的に使われるのは主に教会内や教会との関連が強い人物たちの間である。

2.以下 2 段落における歴史的要約に関しては, Disney[2009], Belo [2012]及び Hägerdal [2012]の関連す
る章を参照のこと。

3. このリストは,Belo [2012: 385–393] にて引用されている Silva, Manuel Maria Alves. (1889). Diocese de Macau, Missáo de Timor, Relatório [Diocese of Macao, Mission in Timor, Report] in Annaes das Missões Portuguesas Ultramarinas, n ° 2, Lisboa, pp. 110–112. に基づく。

4.別の教理問答としては,Mendes, Manuel Patrício. 1936. Sarani Sira nia Surat: Catexismo ho Oração Ruma. Escola Tipograíca do Orfanato. があるが,筆者は初版を入手することができなかった。現在東ティモールの教会で最も広く使用されている教理問答集は,メンデス神父の作品をティモール人司教だったマルティーノ・ダ・コスタ・ロペス神父が改訂したものである。この版には,アパリシオ・ダ・シルバ神父の教理問答集のようなルリックに対する敵対的な態度は見受けられない。

5.この段落を書いた背景には,2009年5月,ディリでの会話の1コマがある。それは『神はどこにいるか』というテーマの問答であったが,オイクシ出身でカトリック教徒の友人は,神(マロマック)は,西ティモールに存在すると主張していた。その場にいた 7 名のティモールの人々もそれに同意していた。キリスト教の神は特定の場所にいるわけではないと理解していた筆者は,2009 年時点においてもティモールのカトリック教徒にはキリスト教の神と土着神話のマロマックを同一視もしくは混同している人々があるのではないか,という印象を持った。

6. この主張は神話や民話における使用頻度と筆者自身の主にディリにおける民族誌的な経験,ティモール人の知人たちによる確認に基づく。

7. ルリックに関する問題で,ティモール人たちと宣教師たちの間で全く意見の一致をみなかった実例の一つは,低地の(特にキリスト教に改宗した)ティモール人が,ワニをルリックとすることであった。ヴィケケやバウカウの住民に「なぜ」と問えば,多くの場合は「黄色と黒のワニは復讐を行う動物だから」という解答が返ってくる。それに対して,ルリックが偶像崇拝的な迷信から来ていると考えた西洋人たちは,ワニをルリックとすることを尊重しなかった[Sá 1961: 209–231]。現在,特定の種類のワニは長期の記憶能力を持ち,他の種の動物の個体を認識し,彼らの行動パターンを記憶し,狩りや生存のための選択にそれを利用するということが知られている。ティモール人たちが,(他のワニではなく)イリエワニをルリックとし,定期的に村ぐるみで和解の儀式を行い,そのために食事を用意したりすることは,たとえそれが信仰形態の一部を構成していたとしても,安全保障上の問題ともなり得るワニと共に生存していくための実用的な習慣でもあったと考えられる。

8. 例えば,Therik[2004: 257–259]には Lia-Tebes =真実の言葉というタイトルのウェハリの神話が収録されている。

9. 2015 年 8 月にオイクシ出身者に行ったインタビューに拠る。島外から移住して支配者となったホルネイ,ダコスタ両家は,土着の有力者の娘達を娶ったのであるが,フェトサン・ウマネと呼ばれる当時のティモールで最も一般的な婚姻関係においては,新婦の家族は新郎の家族よりも儀礼的に上位に位置すると考えられた。そのため,たとえリウライの娘を娶ったとしても,それだけで正統な支配者として認められるわけではなかった。

10.この件については,教会側,植民地職員,歴史家たちの間で事実関係について見解の相違がある。[Belo 2012; Roque 2010: Ch. 9; Dores 1903: Section “Laleia”]等を参照のこと。

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(2017 年 7 月 21 日 掲載決定)

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