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【短編小説】ヒルダの約束 with (Just Like) Starting Over - John Lennon

 第二次世界大戦末期のドイツ。
 青年将校のラインハルトは祝賀会で出会ったヒルダに一目惚れした。
 ヒルダには以前から好きな人がいた。オットーだ。幼なじみだから彼女の思いはオットーに届いていると思っていた。
 しかしオットーは彼女の気持ちに気づくことなく、ヒルダがラインハルトに奪われたと勘違いしていた。
 悪いのはラインハルト。復讐のために親衛隊に入ったオットーは組織の中でのし上がり、ラインハルトに近づこうとする。戦場で彼を亡き者にするために。
 三人の若者のそれぞれの約束の行方は…。

♢♢♢

Reinhard von Müller
ラインハルト・フォン・ミューラー

ドイツ陸軍少佐
25歳 貴族の御曹司

Otto Berger
オットー・ベルガー

武装親衛隊少尉
23歳 ヒルダの幼なじみ
ヒルダからはお兄ちゃんと呼ばれている。

Hildegard Krause
ヒルデガルド・クラウゼ(ヒルダ)

ベルリンの病院で看護師をしている
18歳

♦︎史実を元にした創作です。


ヒルダへ

 ベルリンの様子はどうだい。さぞかし様変わりしているのだろうね。敵による爆撃が頻度を増している。君は無事かな。無事であって欲しい。

 東部戦線への転属命令が出た。これから支度をして明日、ロシアへ向かう。戦況は当初予想していたほど捗々しくないと言っていいだろう。ロシア軍の抵抗は日に日に激しくなっている。

 こんな話を君にしても仕方がなかったね。優しい君は、いつも、どうして同じ人間なのに殺し合いをするのかと嘆いていた。我がドイツ軍が輝かしい勝利を収めたと言っても、またその可愛らしい顔を曇らせるだけだ。

 とりあえず、ぼくは無事だ。怪我もしていない。だから心配しなくていい。それどころか先日の戦いでは敵の戦車を七両も仕留め、また勲章を授けられる…ああ、済まない。戦争の話はしないと言ったのについうっかりしてしまった。

 休暇をもらったら、必ず君に会いに行く。君の誕生日には必ずだ。ああ、早く会いたい。

 ではまた。
 愛するヒルダへ。心を込めて。

7月20日 
Reinhard von Müllerラインハルト・フォン・ミューラー

望まぬ求愛


 皺だらけの手紙の日付は二週間前のものだった。ヒルダはベルリンの病院で看護師として働いている。ラインハルトからの手紙の宛先は、ヒルダの自宅ではなく、病院宛てになっていた。

 約一年前、ナチス党の支持者である父からの言いつけにより、ヒルダは軍の祝賀会の手伝いをした。そこでヒルダは貴族の家柄出身の青年将校に見染められたのだ。

 金色に輝く巻き毛と吸い込まれそうな碧い目の彼女に、その凛々しい青年は心を奪われたのである。それ以来、たびたび、恋文が届くようになった。手紙だけではない。ラインハルトからの熱烈な希望に押し切られるかたちで、逢瀬を重ねた。

 しかし…。

 ただの庶民のヒルダにとって、由緒ある家柄出身のラインハルトは、いわば雲の上の人だ。身分が違いすぎる。恋の対象として見ることなど不可能だった。

「ヒルダの十九歳の誕生日に正式に求婚するから、どこにいても、お祝いの薔薇の花束と結婚指輪を届けるために、必ず君の元へ行く。約束だよ」

 雄弁なラインハルトに甘い言葉で囁かれたけれど、貴族の御曹司の妻になるだなんて、ぜんぜん実感が湧かない。戸惑いが増すばかりだ。

 ヒルダの父は飛び上がって喜んだ。だが、彼の家は、はたして庶民の娘との婚姻を認めてくれるのか。それについてはラインハルトは何も言わない。言わないが、反対されているに違いない。ご両親を紹介してくれないのがその証だ。

 それに、彼女には好きな男性がいた。幼なじみのオットーである。まだ幼い頃からよく遊んでくれ、面倒を見てくれた、優しいお兄ちゃんのような人だ。四つ年上のオットーはヒルダの遠い親戚に当たる。

 子供の頃、オットーと二人で森のはずれにある小川で魚とりをしていたら、足を滑らせてヒルダは川へ落ちてしまった。

 大した深さではなかったから、落ち着いて行動すれば、ヒルダの身長でも川底に足が着いた。だが、溺れると勘違いをしてパニックになってしまった。すぐに川へ飛び込んだオットーは、暴れるヒルダを引っ張り上げ、抱きかかえて岸まで運んだ。そしてこう言ったのだ。

「ヒルダ。僕がきみを守る。いつもそばにいるから。ずっとだ。約束する」

 うんとうなずいたヒルダはオットーへ、いつかお兄ちゃんのお嫁さんになりたいと言った。

 その時のヒルダはまだ六歳だったが、自分が何を言っているのかちゃんとわかった上での真剣な発言だった。にもかかわらず、オットーに笑い飛ばされてしまったのは、あれからずいぶん経った今でも不満に思っている。

 そんな風に、ヒルダにとって優しいお兄ちゃんだったオットーは、しかしラインハルトが現れてから、まるで別人のように変わってしまった。

 よく笑う明るい性格の少年は、昏い目をした寡黙な青年になった。やがて自ら希望して親衛隊へ入団した。そこで短期間のあいだに次々に殊勲を立てて、のし上がっていった。今の階級は少尉だと聞いている。ヒルダにもあまり会いに来てくれなくなった。忙しいせいかもしれないが、せっかく会っても喋るのは彼女ばかりで彼はほどんと喋らない。

 ヒルダにはオットーが何を考えているのかわからなかったが、彼女はその昏い目の奥に何かを感じた。秘めた感情のゆらめきのようなものだ。外へ出ないように抑えている。

 オットーは、ラインハルトのヒルダへの熱い思いを知っているはずだ。それなのになぜ何も言ってくれないのか、わたしがラインハルトに取られてもいいのかな、わたしのことなど何とも思っていないのかなと、ヒルダは寂しく感じていた。

死闘

「Panzer marsh!(戦車前進)」

 ラインハルトの命令で、ティーガー戦車隊が前進を始める。今まで彼が経験してきたヨーロッパ戦線と異なり、雪止けのためにあたり一面泥沼と化している。その泥沼を渡る道は限られており、しかも道幅が細く、周囲から丸見えだった。警戒しつつ、注意して行動しないと、だたの標的になってしまう。

 戦車長としてラインハルトが初めて戦いに臨んだのは二年前のアルデンヌの森だった。電撃戦として有名になった戦闘だ。そこで彼の指揮する四号戦車はフランスのルノーB1を五両撃破した。

 相手が鈍重な旧式戦車で、さらに運が良かった。ラインハルトはそう分析していたが、見目麗しい青年士官の初陣での華々しい戦果は瞬く間に上層部の知るところとなり、その武勲によりベルリンにて勲章を授与された。以後も彼の活躍は続き、その家柄も考慮されてのことだろうが、少佐に昇進した。二十五歳という若さを考えれば、異例と言っても過言ではない。

 ラインハルトの小隊を、少し離れた安全な場所から冷たい目で観察している若い男がいた。黒い制服に黒い帽子。武装親衛隊だ。少佐と同じくティーガーIに搭乗し、双眼鏡で彼を眺めている。オットーだった。

 オットーもまた、ラインハルトほどではないが手柄を立てて少尉にまで昇進した。軍歴の乏しい庶民出身の若者が一年余りでそこまで昇進したのは並大抵の努力では叶わなかった。他の者なら嫌がる仕事も進んでやった。その中には人前では公言できない汚れ仕事もある。彼をそこまで駆り立てたのはラインハルトへの憎悪だった。

 自分からヒルダを奪った憎い男を見返してやり、ヒルダを奪い返す。あわよくば戦場でのどさくさに紛れて殺してやろう。そう企んでいたのである。

 オットーはヒルダとの約束を忘れていなかった。大きくなったらお嫁さんになりたいと言ったヒルダ。ああ。ラインハルトさえいなければ。

「ん?」

 双眼鏡を持つオットーの手に力が入る。何か見えた気がした。どこかで何かがかすかに動いた。異変を認めたのはラインハルトの小隊が向かう先の小高い丘だ。そちら側は我が軍の制圧目標なのだから味方がいるはずはない。敵に決まっている。

 しかしオットーは動かない。額に双眼鏡を当てたままただ見ている。その唇には薄い笑いが浮かんでいる。黒い髪と黒い瞳、そして浅黒い肌のオットーは、金髪で碧眼のラインハルトとは全くタイプが違っていた。彫りの深い引き締まった顔のラインと、すらっと背が高いのは共通していたが、似ているのはそれだけだ。

 いきなりラインハルト隊の先頭車両が轟音とともに跳ね上がった。爆発、炎上する。

「戦車長殿!敵の攻撃です!」
「ああ。言われなくもわかる」

 双眼鏡から目を離さず、吐き捨てるようにオットーは部下に言う。また砲撃音、今度は二両目の四号戦車が火を噴いた。同時にラインハルトのティーガーが反撃を開始した。56口径8.8㎝KwK36戦車砲が吠える。遅れて他の戦車も反撃を開始する。砲撃しつつ、正面を向いたまま、ゆっくりと後退しはじめる。

 そろそろか。いい加減で援護射撃を開始しないと変に思われるだろうな。敵の攻撃で奴が死んでくれたら万々歳だが、そう簡単にはいくまい。オットーの舌打ちは誰も聞いていなかった。それどころではなかったからだ。

「オットー小隊砲撃用意。照準、前方1時。茂みに敵の対戦車砲が隠れている」
「了解!」

 無線で部下へ指示を下す。その目にはもはや迷いはない。

「Feuer!(撃て)」

幕間

 ラインハルトの小隊は、甚大な損害を出しながらも、かろうじて退却に成功した。敵はそれ以上、攻め込んで来なかった。

 その夜、オットーの宿営にラインハルトがやって来た。援護が遅かったことの文句を言いに来たのかとオットーは警戒したが、そうではなかった。

「今日はきみのおかげで命拾いをした。礼を言いたくね」

 少佐が手を差し出した。握手の意味らしい。

「いえ。当然のことをしたまでですから」

 仕方なく差し出したオットーの手を、ラインハルトは力強く握った。

「ありがとう。部下の分も礼を言う」
「…いえ」
「ところで」

 少佐の声色が変わった。

「ところで、きみはヒルダの友人なのだね。オットー・ベルガー少尉。彼女から聞いたことがある」
「ああ。はい。友人というか…」

 内心の怒りを隠し、オットーは平静を装う。腹の中は煮えくりかえっていた。

「十日後のヒルダの誕生日に、私は彼女に結婚を申し込む。本部からは休暇をもらっていてね。ベルリンへ戻りヒルダに会うんだ。婚礼には是非ともきみも招待したい」

 何も気づいていない少佐は、火に油を注ぐような発言を繰り返す。

「親しいきみから祝ってもらったらさぞかしヒルダも喜ぶだろう」
「…」
「私たちの結婚に反対していた父を、ようやく説得できたのでね」
「くっ」
「ん。どうかしたのかね」

 オットーの異変に、やっと気づいたらしい。ラインハルトが訝し気に聞いた。

「なんでもありません」

 歯を食いしばり、腰のワルサー拳銃に伸ばし手を、彼はそうっと戻した。

壊滅

 翌日。戦闘は熾烈を極めた。正面突破は無理と判断し、迂回したラインハルト小隊は待ち伏せしていた敵の罠にはまった。

 通り過ぎたあとに、最後尾の車両を破壊され、退路を断たれたうえで、今度は先頭車両が攻撃を受けた。小隊は前後を敵に挟まれてしまい、動けなくなった。

 オットーはオットーで、別方面から現れた敵のT34戦車小隊と交戦、ラインハルトを構う余裕などなくなった。

 あちこちで火の手が上がる。味方は総崩れだ。このクルスクの戦いでの敗北によりドイツは劣勢に転じることになる。

 戦場に静寂が戻った。敵の損害も激しいようだ。しかし一時的に引いただけで、またすぐに攻撃してくるのは目に見えていた。破壊された味方車両からまだ炎と煙が立ち上っている。

 ラインハルトのティーガーは、味方の戦車の残骸に挟まれたままそこにあった。一見、無事に見える。ティーガーの装甲は厚い。正面からその装甲を破壊できる敵はいない。しかしエンジンがある後部の装甲はそうでもない。そしてまさにラインハルトのティーガーはその後部を射抜かれていた。エンジンが燃えている。オットーの小隊もほぼ全滅。隊長であるオットーのティーガーのみ無事という有様だ。

 生き残った部下を連れ、オットーはラインハルトの小隊へ向かった。ティーガーの搭乗員は戦車の外で死んでいた。機関銃で撃たれたらしい。期待していたラインハルトの死体はない。

「少尉殿。我々も早く退却しましょうや」
「うるさい。黙ってろ」
「本部から退却命令が出たんですぜ。作戦に失敗したのは陸軍の奴らで俺らSS(親衛隊)の責任じゃない。そうですよね」

 ぐだぐだと文句を言うだけの部下をにらむ。

「つめこべ言っていないで少佐を探せ」
「ラインハルト少佐ですかい?」
「そうだ。死体がない。探せ」

 森に少し入ったあたり、うずくまってる男を彼らは発見した。美しかった金髪は泥にまみれ、端正な顔も血と泥にまみれている。汚れた手で腹を押さえている。軍服のそのあたりが真っ赤に染まっていた。

 今なら殺せる。オットーはそう思った。部下が邪魔だが、一緒に始末してしまえばいい。敵にやられたと釈明すればいいさ。

 構えたワルサーをラインハルトに向ける。気配を感じたのか、少佐の顔が上がった。

「オットーか」
「少佐殿」
「隊は、味方はどうなった」
「全滅です。全軍に退却命令が出ました」
「そうか」

 いったん構えたワルサー拳銃を、オットーは静かに下した。ラインハルトは死にかけている。あえて殺す必要はない。放っておけばいずれ死ぬ。

「オットー。頼みがある」
「なんでしょう。少佐殿」

 少佐の手が細く震えている。その手が冷ややかな目のオットーに伸びる。血だらけのその手は何かを握っている。

「これを、ヒルダに、渡してほしい」
「えっ」
「結婚指輪と、彼女への手紙だ」
「…少佐殿。私は」
「彼女の誕生日まで、きっと私は生きていないと思っていたよ。だからヒルダへの手紙を書いておいた。私が死んだら渡して欲しい」
「そ、それは」
「頼む。オットー。頼む。ヒルダを守ってやってくれ」

 くそ。くそう。おまえなんかに。

「おまえなんかに言われるまでもない。ヒルダを守るのは俺だ。おまえじゃない。ラインハルト。俺はおまえが憎かった。ずっとおまえを憎んでいたんだ」

 唸るように言いながら、オットーはラインハルトの胸倉をつかんで揺さぶる。何度も。何度も。

「やめてください。もう死んでます」

 部下に制止されて、やっと我に返った。ラインハルトはすでにこと切れていた。

 呆然としているオットーの横で、部下が物言わぬラインハルトの手から小さな箱をもぎ取った。蓋を開け、中を見て歓声を上げる。

「おお。すげえ。ダイヤか。ダイヤの指輪だ」

 やめろ。

「何カラットあるんだ。さすが貴族様だな。売ったらその金で一生遊んで暮らせそうだ」

 やめろ。やめるんだ。

「少尉殿。山分けにしませんか?それとも…」
「やめろ!」
「ここで死ねや!」

 部下が腰で小銃を構えた。と同時に二丁の銃が火を噴く。倒れたのは部下だ。額の真ん中を撃ち抜かれていた。死んだ部下の小銃が放った弾はオットーの肩をかすめただけだ。

 部下の手からダイヤの結婚指輪を取り上げる。軍服の裾で丁寧に汚れを拭いてから箱の中にそうっとしまう。それをポケットに入れ、立ち去ろうとした。急に振り返り、ラインハルトの死体へしゃがみこむ。表にヒルダ・クラウゼと宛名がある封筒は胸のポケットの中にあった。それを自分のポケットにしまい、オットーは立ち上がった。

帰還

 ベルリンへの帰路は危険に満ちていた。敵はもちろんだが、味方もできれば避けたい。黙って隊を離れたオットーは、捕まったら軍法会議にかけられる。

 奪った軍車両は、途中で二回パンクし、苦労して修理した。しかし今度はガソリンが切れそうだ。遺棄された装甲車や戦車から補給しつつ、なんとかベルリンまで持たせるしかない。

 彼はヒルダにラインハルトが死んだ事実を突き付けてやり、彼から離れてしまったヒルダの心を取り戻すつもりでいた。二人でどこか遠くへ逃げて、一緒に暮らそう、そう思っていたのだ。

 やがて、七日あまり掛かってやっとベルリンに到着した。かつての首都は度重なる爆撃により様変わりしていた。破壊された建物の瓦礫がそこいらじゅうに散らばっている。

 ヒルダがいるはずの病院は奇跡的に無傷だった。ちょうどガス欠になったキューベルワーゲンを病院の前に乗り捨てたオットーは、疲れ切った体に鞭打って病院の中へ、ヒルダの姿を探す。いきなり侵入してきた親衛隊の制服に、看護師や医師たちが露骨に顔をしかめる。

 怪しまれる前にヒルダを捕まえよう。オットーは焦っていた。病院は負傷者たちが寝ているベッドで溢れていた。薬もきっと満足に与えられていないのだろう。すでに死臭が立ち込めている。

 やっとヒルダを見つけた。さまざまな器具が乗ったワゴンを押しているところだった。オットーに気づいて立ちすくむ。

「なぜお兄ちゃんがここにいるの?」
「ヒルダ。こっちへ来なさい」

 有無を言わさずヒルダの腕をつかんで、外へ引っ張っていく。キューベルワーゲンにヒルダを乗せ、自分も乗り込む。黙って見つめてくるヒルダへ、ラインハルトから預かった指輪と手紙を見せる。

「それは?」
「ラインハルトは死んだ」

 ヒルダが、はっと息を飲んだ。

「ラインハルトはくだばったよ。死んだらきみに渡してくれと手紙を預かってきた」
「死んだ?」
「ああ。敵の銃撃を腹に受けて死んだ。ヒルダ。俺と逃げよう。もうすぐベルリンへ敵が攻め込んでくる。だから、遠くへ、戦争なんかない遠くへ二人で逃げよう」
「…」
「ヒルダの気持ちは知っている。俺なんかより、あの貴族野郎の方が好きだってこともな。だから」

 オットーがそこまで言った時、それまで黙って聞いていたヒルダが悲痛な声で「違う」とつぶやいた。

「違う。違うよ。お兄ちゃん」
「なにが違うんだ」
「わたしが好きなのは、お兄ちゃんなんだよ。ずうっと。小さい頃から、ずうっと」
「な、なんだと」

 呆気にとられているオットーに、ヒルダは静かな声で続ける。

「ラインハルトさんは素敵な方だけど、わたしとはあまりにも身分が違う。今日、求婚されるはずだったのは知ってる。でも、どうしても実感がわかなかった。それにわたしが好きなのは、オットーお兄ちゃんだから」
「ば、馬鹿な」
「今日はわたしの誕生日なんだよ。忘れちゃったんだね」

 そうだ。そうだったね。今日はヒルダの、僕の小さなヒルダのバースデーだった。それなのに俺は。

「小さい頃、お兄ちゃんのお嫁さんになるんだって言ったらお兄ちゃんは返事をしてくれなかった。それも忘れちゃった?」
「覚えているよ。それにちゃんと返事をした」
「嘘だ」
「ほんとだよ。じゃあ約束だねって言った。忘れたのはヒルダの方だよ」

 ヒルダが笑う。オットーは真面目な顔に戻る。

「ねえヒルダ。二人で逃げよう。金の目当てはある。荷物を取っておいで。僕はガソリンを調達してくるから」
「うん。わかった」

 病院へ戻って行くヒルダを見送り、オットーはガソリンを求めて歩き出した。

 街はずれまで来た時、向こうから二人の憲兵がやって来るのが見えた。素知らぬ顔でやり過ごすつもりが、おそらく様子がおかしかったのだろう、銃を構えて足早にこちらへやって来る。

 どうする。逃げるか。しかしヒルダが。ここで始末してやるか。次の行動に迷っていると、空から爆音が聞こえてきた。すぐに空襲警報が鳴り始める。

 オットーが気を取られている隙に、後ろから憲兵に羽交い絞めされてしまった。そして爆撃が始まった。イギリス空軍によるベルリン爆撃である。急いで護送車へ引きずって行こうとする憲兵を振り切り、オットーはヒルダのいる病院を目指して走り出した。爆発音と爆風、建物が崩れる音、その間をかいくぐり、走る。

 遠くに病院が見えてきた。玄関の前に白衣のヒルダが見える。手を振っている。

 …逃げろ。駄目だ。外にいたら駄目だ。

「ヒルダあああ。逃げろおおお!」

 オットーの叫びが届いたのか、ヒルダが何か言っている。しかし爆撃音にかき消されて聞こえない。

 次の瞬間、間近で爆発が起きて彼は跳ね飛ばされ、瓦礫に叩きつけられた。痛みをこらえ懸命に立ち上がった彼は見た。病院があったはずの場所は何も無くなっていた。

エピローグ

 瓦礫のあいだでうずくまっている彼を憲兵が捕えた。彼は抵抗しなかった。オットーは軍法会議にかけられた。罪状は脱走と味方の殺害。部下を撃ち殺したのを知られたらしい。

 目の前にずらっと並んだ銃殺隊の前で、最期の瞬間に、彼はあの日のことを思い出していた。

 川に落ちた小さなヒルダ。ずぶぬれの彼女へ、僕が守ると約束した。ヒルダは、いつかお兄ちゃんのお嫁さんになるって言ってくれた。

 僕は、すぐ近くに君がいたのに、君の気持ちは変わってなどいなかったのに、ずいぶん遠回りして、取り返しのつかない馬鹿なことをした。

 ヒルダ。ごめんね。

 お兄ちゃんはきみを守ってやれなかったよ。

(Just Like) Starting Over - John Lennon


𝑭𝒊𝒏

♦︎【大人Love†文庫】星野藍月


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