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よい写真ってなんだろう

最近、写真家さんの書籍が人気というので、2冊購入して読んでみた。テクニックではなくもっと根っこのほうの、撮るという行為にていねいに触れた素晴らしい内容だった。また、2冊とも、写真と言葉は不可分なのだということが書いてあった。文章を書くことを仕事にしている私には、その部分がとても理解できた。

写真のディレクションも私の仕事のひとつだけれど、自分でカメラを持つとあまりにもつまらない写真ばかりを撮っている気がしてならない。こちらの頭の中にあるイメージを素晴らしい画にしていく職業フォトグラファーのなんと偉大なことかと思うばかりだ。でも私にはそれはできない。

とあるカメラを買った時、Instagramで同じカメラで撮った写真を投稿している世界中の人たちをフォローして毎日眺めてみた。すると、遠くに人がポツンと歩いている都会の風景を撮らねばならないような気がしてきた。似たような写真を撮ろうと街にさまよい出て撮影を試みては、自分はいったい何をしているんだろうと思った。


私の父親はある日、自分の部屋でひっそりとひとりで死んでいた(noteの過去のエントリに書いて、その後、日経xwomanで連載し書籍にもなった)。そろそろ寝ようとベッドに入る寸前に倒れて息絶えたらしく、1週間後に見つかった。それから3年経ってようやく実家に残されたものを心をざわつかせずに見ることができるようになり、父の部屋にある大量のアルバムや写真を眺めている。

そういえば、肌身離さずカメラを持ち歩く人だった。特に人を撮るのが好きだった。家族3人で大げんかした後も「はい、記念写真」と言ってカメラを持ち出して写真を撮り、それで母も私もさらに怒ったこともあったな、と思い出した。

几帳面だったから、社会人になって家を出た若い頃から晩年までの写真はきれいに何十冊ものアルバムに収められ、その多くには手書きのキャプションがついていた。短い言葉があると、たとえ60年前の写真であっても、情景がありありと想像できるのだった。


もう誰も帰ってくることのない寒い部屋でアルバムを見るのに疲れ、箱に無造作に入れられていたプリント写真の束を手に取ったら、あっと声が出た。そこには実家の普通の日々が写っていた。

2024年現在からすると31年前。庭で母と猫たち

父親から見たら、笑顔の記念写真でもなく、失敗作だと思ったから箱に取り分けておいただけなのかもしれない。

けれど、そこにはある日の時間が写っていた。もうとっくに死んでしまった猫たちもいる。今は認知症となり施設で暮らしている母は、写真の中では元気で、普段着もいいところだ。

猫たちはここで母におやつをもらうのが日課だった
実家にはつねにたくさんの犬と猫がいた

この写真のこちら側にいる父親の視線と私の視線が今、時間を超えて重なり合っている。その日その時、その人にしか撮れない写真というのはこういう写真のことをいうのだろう。よい写真とはこういう写真のことをいうのだろう。

父は、自分が死んだ数年後に娘が見て懐かしがるだろうと思ったわけではないだろう。よい写真だねと人に言われようと思ったわけでもないだろう。この時、心が動き、手にはカメラがあり、撮ろうと思った。その事実があるだけだ。

きっと、それでよいのだろう。いや、それがよいのだろう。

あちら側とこちら側が混じり合う、その真ん中に自分がいる
SIGMA 45mm F2.8 DG DN | Contemporary, SIGMA fp


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