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【掌編小説】メガネの厄日

(なんだってこんなことになるのか)
彼女は殺気立った表現でこちらを睨み付ける。
テーブルの上に置いた右手。
人差し指でテーブルを忙しなくトントンと叩いている。
(怒るといつもこの仕草をするよな)
「悪かったよ。上司に誘われて断れなくてさ」
男はテーブルに備え付けの椅子の背もたれに両手を載せて体重を支えたまま、向かい側に座る彼女の正面に立っていた。
「いつもそう。私との約束はなんなわけ?」
彼女は吐き捨てるように言う。
「それは、本当に申し訳ない…」
男の声は尻すぼみに小さくなった。
(ほんの数時間前まではこんなことになるなんて思ってもいなかったなあ)

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「なあメガネくん、今日金曜日だしこの前行ったガールズバー行くぞ」
「え、今日はちょっと予定が…」
「何言ってんだよ。仕事の話もあるんだよ。1時間でいいから付き合えよ」
そう言って上司は男の方をバシバシと強めに叩いた。
不意の衝撃に体が揺らぐ。
(いてっ)
「わかりました。じゃあ1時間だけお付き合いします」
ズレた眼鏡を直しながら男は答えた。
「よし、定時になったらすぐに行くから仕事終わらせておけよ」
(これは意地でも1時間で帰らないとまずいぞ。彼女との約束があるからなぁ)
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案の定、上司が1時間で解放してくれることもなく終電まで付き合わされた。
途中、彼女に連絡は入れていたが、彼女からの電話は無視した。
出たところで何もできることはなかったからだ。

「本当に申し訳ない」
男は彼女に向けて改めて頭を下げる。
「今日、私の誕生日だよ?知ってるよね?」
「はい」
「それなのに上司の誘いを優先するわけ?」
「いや、仕事の話もあるって言われたから」
「ふーん、それでどこに行ってたの?」
「それは、その…」
(さすがに本当のことを言うのはまずいよなぁ)
バンッ!
彼女が強く机を叩く。
「はっきり言いなさいよ!あんたがしたことでしょ」
「…ガールズバー」
「はあ?最低!」
彼女はそう言うなり、立ち上がって男へ向かってくる。
右手で繰り出した平手打ちは見事に男の頬を捉えた。
男の眼鏡が床に転がる。
(痛ぇ、何も殴らなくもいいだろ)
彼女は一瞥をくれることなく寝室へ引きこもった。
男は眼鏡を拾い上げると大きなため息を吐いて椅子に座った。
テーブルの上に置かれた眼鏡ケースの中へ眼鏡をしまう。
「はあ、今日はとんだ厄日だな」
(おいおい、そりゃこっちのセリフだぜ。フレームが歪んじまったよ)

テーブルの上で眼鏡ケースがカタリと小さな音を立てた。

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