見出し画像

あやかし旅館の若女将 ~清水優菜の妖な日常~第六話 「テレビ取材で大騒ぎ!」後編

不安定な気持ちを抱えたまま翌朝を迎える。

 毎朝の朝礼場所に大女将の姿は見えず、スマホの通知に目をやると、今日はまだ一日様子を見るとの連絡が入っていた。集まった仲居さんたちに大女将の状況を伝えるのと同時に、今日のテレビ取材の件も伝達する。大女将の突然の負傷に加えて初めてのテレビ取材、皆の間にざわめきが起こる。明らかに浮き足立っているのが分かった。

「テレビ取材は私が対応しますので、皆さんはいつも通りに業務の方をお願いします」

 テレビ好きの仲居さんなどは見るからにちらりとでもテレビに出たそうな様子だったけれど、こういうときだからこそいつも通りに対応することが必要になる。それにいきなりの取材対応を仲居さんに任せるわけにもいかない。いつもよりも朝礼が長引いてるうちに、ロビーの方からなにか騒がしい声と物を運ぶ音が聞こえてきた。私は慌てて朝礼を切り上げて、ロビーへと向かう。

 見ると、五人の男性の集団がそれぞれに抱えていた大きな荷物をどかどかと床に下ろしているところだった。

「ようこそお越しくださいました。当旅館の若女将の清水です。あの、失礼ですがみなさまGテレの方でしょうか?」

 男性の集団に声をかけながら近づいていく。集団の中であれこれ指示を出していた一番年嵩としかさの男性がこちらを振り向いて返事をする。あごひげをたくわえて厳めしい表情をしているし、普段からの癖なのだろうか、話し声がとても大きいので、それだけで私は少し気後れしてしまう。

「ああ、あんたが若女将の清水さん? どうも、Gテレのディレクターの小貝といいます。今日はこっちから色々指示ださせていただきますんで、頼みますよ」
「はい、よろしくお願いします」

 小貝と名乗ったその男性は言いながら懐から名刺を取り出し、こちらに差し出してくる。私も帯に手挟たばさんだ名刺入れから名刺を取り出して、お互いに頭を下げながら名刺交換をする。小貝さんはその場で他の四名の職種を順番に紹介していった。それぞれカメラマン、カメラアシスタント(CA)、ビデオエンジニア(VE)、音声さんとのこと。カメラマンと音声さんの役割は素人の私でもまだ分かるけど、他の二人はさっぱり分からない。なんとなくそういうものもあるのか、くらいの理解だった。当然のことながら撮影に関してまったくの専門外である私は、彼らから出される指示に従うくらいしかできないが、とはいっても基本的には撮影場所を案内するくらいだと思っていた。

 放送までに時間が無いからなのか、彼らの指示は次々と出されてくる。
 まずは旅館に入ってくるときの撮影からだった。彼らの後ろで撮影の様子を見ていると、小貝氏からこちらに指示が飛んできた。

「なにぼーっとしてんの若女将、あんたはそこに立ってないと」
「え?」

 玄関を入ったところに立っているように言われる。立ってないと、といきなり言われても、いったい何を求められているのか分からずおろおろしてしまう。そもそも自分はあくまで事務的な対応をするだけでテレビに映るつもりはなかったし、朝の朝礼でうらやましそうな視線をこちらに送ってきた仲居さん達にもそう言っていたのだ。しかしどうやら向こうはまったくそのつもりはなかったらしい。

「玄関入ったら若女将が頭を下げて挨拶する絵が欲しいんだよね。ってか普通は言われんでもそうするでしょ。他はすぐにそうするよ?」

 普通はそうする、と言われても他のところなんて知らないしなぁ。釈然しゃくぜんとしないものを感じながらも言われた場所に立ち、カメラが入ってくるのに合わせて笑顔でお辞儀をしようとする。そんな私の目に、玄関の両脇にぶら下がっている「竜泉閣」と大きく屋号の入った提灯に乗り移った提灯お化けがカメラマンの後ろで興味深そうに目玉をぎょろりと動かしている様子が飛び込んできた。思わずこちらも驚いて目を見開いてしまう。めざとくその様子を小貝氏が見つけ、こちらにダメ出しをしてくる。

「ちょっとちょっと、若女将、なに変な顔してんの! あんた普段そんな顔して客を迎え入れているのかよ」

 決してそういう訳ではないのだけど、事情を話すわけにもいかない。ぐぬぬ、と思いながら頼むからおとなしくしていて欲しいと提灯お化けに念力を送る。ちらりとこちらと目が合った提灯お化けは、こちらの念力が通じたのか、はたまたあまりにも念を送ろうとする私の表情が怖かったのか、ぶるぶると怯えたように蛇腹を震わせたかと思うと、目玉を閉じて静かになってくれた。よしよし。ようやく笑顔を作れるようになったと思ったところで玄関の撮影はすぐに終わってしまった。これから渾身の笑顔をお見せするつもりだったのだけど。

 玄関の撮影を終えると、彼らの次の要望は部屋の撮影と言うことだった。この撮影のために見晴らしの良い最上階の部屋を用意してある。まあ用意してあるというか、悲しいかな今日は予約が無くて空いていたんだけれども。客室フロアへと繋がる廊下を通って彼らを部屋に案内する道すがら、廊下の端にちらりと綺麗な赤い着物が見えた。お華ちゃんが様子を見に来たのだろうか。そう思っているとポツポツと廊下の先に小さな肉球のある足跡の形に絨毯がへこむのが見えた。おそらくはお華ちゃんが必ずそばにつれている黒猫だろう。あの猫はお華ちゃんとは別のあやかしなのだろうか?そんなことを思いながら私は撮影スタッフを目的の部屋へ案内する。

「こちらです」

 そう言いながら部屋のふすまを開けると、中では年配の仲居さんの一人が布団の交換をしている最中だった。

「あれ?」
 私と仲居さんはお互いに顔を見合わせてしまう。私は慌てて彼女に話しかける。

「あの、今日はこの部屋で撮影をするって朝のミーティングで言ってませんでしたっけ?」

 大女将の件もあったから、朝からばたついてはいたけれど、確かにみんなに伝達した覚えがあるのだけれど。仲居さんは怪訝そうにしながらこちらに言う。

「いや、今日はこちらの部屋の予約が無くて空いているから、今のうちに布団の交換をしておくように大女将に言われたんです」
「あー、そうなんですね……」

 結局大女将には今日の取材のことを伝え切れていなかった。だから状況を知らない大女将からそういう指示が出ることは仕方ないといえば仕方ないのだけど、仲居さんたちはは今日の取材のことを知っているのだから、そこは気を遣って欲しかったんだけどなぁ。

「お邪魔でしたらどきますけど」

 彼女は大女将派とされている筆頭の仲居さんで、私が苦手としている人でもあった。ついでに言えば今日のテレビ取材に一番出たそうにしていた人でもある。だからと言ってそういう返し方をしなくてもいいのにな。私は文句を言いたくなる口をぐっとこらえて、「すいません。今日は取材なのでお布団の片付けは後にしてもらえますか」と頭を下げる。

 あからさまにしぶしぶと言った様子で「大女将に、そちらからきちんと連絡しておいてくださいよ」と私にいいながら、彼女は引き上げていった。布団は敷いたままだったけど、これはこれで部屋の様子としてはまあいいだろう。

 私は外で待っていた撮影スタッフに「すいません、部屋が空きましたので、こちらで撮影をお願いします」と言って部屋の中を指し示した。私と仲居さんの先ほどのやりとりから何かを察したのか、私の横を通り過ぎざまに小貝氏はにやにやしながら「若女将も大変だねぇ」とこちらにつぶやいた。そういう揉め事が好きなのかこの人は。なんか嫌な感じだなぁ、と思ったけれど、そんな感情をどうにかを押し込めて、私はさきほど見せそびれたとびきりの笑顔を返事代わりに披露する。

 部屋の撮影が終われば、次は料理の撮影だ。私は今度は大広間へと撮影スタッフを案内する。大広間の真ん中のテーブル上には、あらかじめ板長が準備してくれた一人分の料理が並んでいた。

 ……部屋の端のテーブルにお膳幽霊の田中さんがしれっと座っているけど、見なかったことにしよう。田中さんもテレビに映りたいのだろうか。いつもは団体客に紛れているからあんまり気にしていなかったけれど、一人でぽつんといるとさすがにちょっと怖くもある。撮影スタッフも怪訝そうにそちらにちらちらと視線を送っているが、当の田中さんは気にしていない様子だった。そういえば、そもそも田中さんはカメラに写るのだろうか? 変な風に写ってNG集とか「夏の心霊特集」とかに取り上げられても困るんだけどなぁ。そう思いながら私は田中さんの存在を誤魔化すようにことさら明るい声で料理の紹介を行う。

「こちらが当旅館のすぐそばの山で採れた山菜をふんだんに使った炊き込みご飯になります。こちらで煮えているのはシシ鍋ですね。この時期のイノシシは冬に備えて脂肪を蓄えているので、脂がとても乗っていて美味しいんですよ。それと……」

あらかじめ板長と相談し、練習していた料理の説明を遮るようにして、小貝氏が質問を挟んできた。

「なあ、鍋は別にいいからさ、メニューの中に刺身はないの? マグロとかさ」
「ええと、うちは山の旅館なので、お客様のご要望にもよりますが、通常、マグロのお刺身は出していないんですよ」
「ええ、そうなの? 刺身がないとさ、なんか料理の見栄えが悪いよね。どうなの、いまからつけらんないの」
「いや、急に追加するのはちょっと難しいですね」

 小貝氏からの急な要望にこちらも対応に困ってしまう。今の時代は保存冷凍技術がしっかりしているので、海のもののお刺身を出そうと思えばできなくはないのだけど、板長のこだわりとしてうちは地場の旬の物を基本の食材としたメニューにしている。お客様から事前に申し出があればもちろん対応させていただくのだけど、ホームページや予約時の注意事項にもそれは記載させてもらっているので、まさかこの場でいきなりそんなことを言われるとは思わなかった。

「まあしょうがねえか、なんか地味だけど」

 料理を様々な角度で撮影しておくようにカメラマンに指示しながらぼそりと言う小貝氏。そんなにお刺身を期待していたのだろうか。食べるわけでもないのに文句が多いなぁ。

「で、俺らの分は?」
「え?」

 俺らの分と言われても、今目の前に出している物で準備した料理は全部である。それも急遽のところを板長に無理を言って精一杯豪華に用意してもらった物なのだ。

「本日ご用意させていただいたお料理は今こちらにある物で全部になりますが」
「あっそ、そんならやっぱ刺身が欲しかったよね。まあ仕方がねえか。ああ、それから人数分の箸ある?」

 そう言いながら、彼らはこちらが準備した料理を無造作にむしゃむしゃと食べ始めた。良くは知らないけれど、料理の撮影はこういうものなのだろうか。団体向けの対応で今日は丸一日ずっと忙しいだろうに、わざわざタイミングを見計らって湯気の立つ料理を準備してくれた板長に対しても、なんとも申し訳なかった。彼らが乱雑に料理を平らげていくのに従って私の精神がごりごりと削られていくのが分かる。

 料理の撮影が終わって、ようやく最後にお風呂の撮影となった。ここまででずいぶんと神経をすり減らしていたから、今の私の正直な心境は、この取材が早く終わってくれないかなというものだった。

 今度は先ほどとは逆に下の階へと降りて、ゆらゆらと湯気の立つ露天風呂に撮影スタッフを案内する。露天風呂はつい最近にリニューアルしたばかりで向かいの山の紅葉も借景として楽しめるような配置になっている。特に今からの時期は、一年の中で最もお風呂からの景色を楽しめる期間なのだ。紅葉しているということは、必然的に落ち葉も多くなるということで、お客様のいないタイミングを見計らってこまめに掃除をしなければならず、中庭の日本庭園と同じく楽しんでもらえる環境を維持するのはけっこう大変なのだけど。

 入り口を入ってすぐ、真正面に見える見事な紅葉を見て、撮影スタッフもおお、と感嘆の声を思わず上げていた。あちこちの温泉の光景をを見慣れているであろう彼らが驚くのだから、やはりこの景色は素晴らしいのだろうとこちらの鼻も高くなる。
 しばらくは湯船ごしの紅葉だったり、風呂からあがる湯気を撮ったりしていた彼らだったが、大型の業務用カメラを覗き込んでいたカメラマンが、突然変なことを言いはじめた。

「小貝さーん、やっぱモデルがいないと映えませんね。風景だけだと絵がつまらないっすわ」

 彼の言葉を受けて、小貝氏がこちらを向いてあごをしゃくっておかしな事を言ってくる。

「それならさぁ、若女将が入ればいいんじゃない」

 ……は?  いったい何を言っているんだ、この人は。突然の小貝氏の言葉に私の思考が固まってしまう。自分が何を言っているのか、この人は分かって言っているのだろうか。

「まあ別に若女将じゃなくてもさ、なんか若くてキレイめな仲居さんとかがさ、いないの?」
「いや、そう言われましても、それはさすがに……」

 もはや笑顔を維持するのも難しく、というかむしろなんでこんな人たちに対して私はヘラヘラと笑顔の残滓を向けているのだろうかという疑問が浮かび上がってくる。折悪おりあしく、私と撮影スタッフがそんな問答をしているところへ莉子ちゃんがやってきた。

「あのー、若女将? 大女将がちょっと用事があるみたいなんですけど……」

 彼女は浴室の入口からひょっこりと顔を出して、こちらに向かって声をかけてくる。

「……あ、もしかして撮影のお邪魔でした?」

 私と撮影スタッフの間に流れる険悪な雰囲気を感じ取ったのか、不思議そうに莉子ちゃんが聞いてくる。そんな彼女に小貝(もはや氏を付けるのも馬鹿らしくなってきた)がいやらしさ全開の目線を隠そうともせずに聞いてきた。

「ああほら、この子とかちょうどいいじゃん。ねえきみ、ちょっと風呂に入ってくれよ。撮影してあげるからさ」
「はい?」

 いきなりそんな事を言われた莉子ちゃんは、訳も分からず目を白黒させている。それはそうだ。いくらテレビの撮影だからって、急に女性に自分たちの目の前で風呂に入れと言い出すなんて、失礼にもほどがあるだろう。いくらなんでも物事には限度というものがあるのだ。

「すいません、うちの従業員に向かって変なことを言わないでいただけますか」

 私は莉子ちゃんと撮影スタッフとの間に割り込むようにして言いながら精一杯の虚勢を張って小貝をにらみつける。ちらりと背中側の莉子ちゃんを見てから、彼女に小声で告げる。

「ここはいいから、とりあえず継春を呼んできて」
「わかった」

 莉子ちゃんはすぐに状況を察してくれたのか、撮影スタッフがそれ以上なにか言ってくる前にきびすを返してすぐにこの場を離れる。

 パタパタと急ぎ足で廊下を去っていく足音を聞きながら私は顔を上げて撮影スタッフと対峙する。おそらくさっきの私の態度が気に入らなかったのだろう。小貝が気色けしきばんだように言ってきた。

「あのさぁ、こっちはさ、なにも全裸になれって言ってるんじゃないんだよ。きちんと水着だって用意してるんだ。それなのにそっちにそういう態度取られると困るんだよねぇ」

 なにそれ。わざわざ水着持ってきてるって、最初からうちの従業員の誰かに水着を着せようとしていたってこと? 気持ち悪い。

「こちらはそんな話は事前に一切聞いてません」
「じゃあ事前に言ってたらやってくれたのかよ?」
「いいえ。うちの従業員はあくまで宿の業務に対応してもらうために雇っているのであって、そんな事をさせるわけにはいきません」
「おいおい、そんな事ってのはモデルに失礼だと思わないのか?」
「いまはそんな話はしていないと思いますが」
「いいや、聞き捨てならないね。こっちだってこの仕事にプライドを持ってやってるんだぜ。モデルだってただ脱いでいるわけじゃなくてプロ意識を持ってこちらのディレクションをこなしてくれてるんだぞ」

 それならそれこそ素人にやらせたらダメなんじゃないだろうか。ああ言えばこう返してくる。ほとんど言いがかりみたいな物言いだと思うのだけど、向こうは男性五人ということもあってなんとなく気圧されてしまう。向こうもそれが分かっているのだろう。優位に立っているのはこちらなんだぞと言いたげに一様ににやにや笑いを顔に貼り付けてこちらを見てくる。特に最初に変なことを言い出したカメラマンの視線はこちらの腰のあたりに当てられていて、寒気とともにおぞましさを覚える。

 必死に歯を食いしばり、せめて視線では負けないようにと反らしそうになる気持ちを押し込めて相手と向かい合う。睨み合いみたいな状況は実際には数分もなかったのだろうけど、私の体感では随分と長く続いたように感じられた。

 いつまでそうしていただろう。

「ちょっと、なにやってるんですか!?」

 焦ったようにそう言いながら浴室の入口から継春が現れた。その後ろには彼を呼んでくれたのであろう莉子ちゃんがついてきていた。私は涙目になりそうになるのをこらえて継春に助けを求める。

「ごめん、この人たちの要求がちょっと無茶過ぎて」

 私の言葉が終わらないうちに小貝が言葉をかぶせてくる。

「いいの? おたくの宣伝になるって言うから来てやってるのにさ、ここまでの移動費やスタッフの人件費、機材費だってかかってるんだよ。こっちもタダじゃないんだ。断るってんなら、この無駄になったテープに対してそれなりのカネ払ってもらうけど?」

 そう言いながら小貝はカメラマンに指示して彼の持つ大型の業務用カメラからデータディスクを取り出して、ひらひらとこちらに見せつけてくる。彼らは最初からふっかけるつもりだったのだと理解し、それに気づかずにほいほいと彼らを案内してしまった自分が情けなくなってくる。私は奥歯を噛みしめて、言葉を詰まらせてしまう。

 継春はさっきの私と莉子ちゃんのように、私をかばう形で両手を広げながら小貝たちとの間に入り込こんでくれた。

「それは、できません」

 こちらを小馬鹿にするような小貝の物言いに対して継春が毅然として答える。

「なんだと?」

 継春の対応は想定していなかったのか、小貝は初めて戸惑った様子を見せた。

「それはデータディスクが適切に使われているという前提ですよね? 仮にそちらの過失でディスクにデータが残っていなければ、この話はなしってことでいいですよね」

 はっ、なにとぼけたこと言ってんだと小貝がこちらを嘲笑あざわらう。きっとこれが彼らのいつもの手なのだろう。自分たちの策略の成功を微塵みじんも疑っていない様子だった。

「まあいいさ、それで構わないぜ」
「言いましたね?」

 妙に念押しするように継春が言う。小貝が尊大にうなずいたのを確認して、継春は私にしか聞こえないくらいの小さな声でつぶやく。

「……幸子おばさん、出てきて」

 継春がそう言った瞬間、小貝が一歩も足を動かしていないというのに、いきなりその場ですてーんと勢いよく転んだ。彼が手に持っていたデータディスクは転んだ勢いでスポンと彼の手から飛び出し、狙い澄ましたように湯船にダイブした。

「あ……?」

 風呂場の床に手をついたまま、一体なにが起こったのか理解できずに小貝が目を見開いて呆然としている。取り巻きの撮影スタッフも理解できずに唖然あぜんとした顔をしていた。もちろん私も何が起こったか理解できていない。ただ一人、継春だけが冷静に状況を理解している。わざとらしい様子で小貝に声をかける。

「いまさらですが、風呂場では足下に気をつけてください。ああ、そちらのミスでディスクがダメになってしまいましたね」
「てめえ、この……なにしやがった!?」
「いったい僕が何かしましたか? そちらが不注意で転んだだけですよね」

 確かに先ほどから継春は小貝と向かい合っているだけで、彼に指一本触れてはいない。それはこの場にいる誰もが認識している。

「なんなら動画も撮っていますので」

 継春がすっと体を引いて後ろを指し示す。そういえば継春と一緒にここに来たきりずっと黙っていた莉子ちゃんだったが、彼女は私達の後ろでスマホを構え、この状況をずっと撮影していたらしい。彼女にとっても小貝の突然の転倒は予想外だったらしく、驚きが顔に張り付いたままになっていたけれど。

「ぐっ……」

 ここまでしっかりとお膳立てされてしまってはさすがに小貝も反論できないのだろう。悔しそうにうめくだけだった。継春は悠々と彼の前を横切って湯船に手を入れ、ぷかぷかと浮かんでいるディスクを手に取ると、小貝の後ろに立ち尽くしていたカメラマンにそれを手渡す。

「どうぞ、お引き取りください」

 その場を締めくくるように継春が告げる。ゆっくりと立ち上がった小貝は、腰を痛めたのか「おい、手を貸せ」と横柄おうへいに撮影スタッフを呼びつけると彼らに両肩を抱えられながらこの場を後にする。継春はお手本のように丁寧なお辞儀で彼らを見送っていた。

 後から聞いたところによると、あの小貝というディレクターはどうやら他にも色々とやらかしていたらしい。今回のように取材先に勝手に金銭を要求するのをはじめ、取材費の使い込み、出張費の不正請求など、叩けば叩くほどぼろぼろと出てきたとのこと。他の四人は別の映像会社のスタッフらしいのだけど、彼らも裏でお金を受け取っていて、グルになって口裏を合わせていたらしい。
 うかつにも彼らを紹介してしまったことになるイラストレーター時代の友人はどこからか事態を聞きつけたのか電話先でこちらに平謝りだったが、結果的に大きな被害にならなかったこともあるし、気にしないでいいよと返した。

 さて。

 私は継春に感謝を述べつつ、あの時何が起こったのかについて説明をお願いしていた。その日の夜はお互いに疲れているだろうしということでなあなあになってしまったものの、翌日の仕事の合間、私が物問いたげな目で見つめていることに気がついたのか、継春は観念したかのようにつぶやいた。

「わかったわかった、そんな目で見なくても教えるから。でもそれは母さん……大女将に許可を取ってからで良い?」

 継春の言葉に私は頷くと、その日の午後に様子の確認もかねて二人で大女将の部屋を訪ねることにした。私たちを迎え入れてくれた大女将は腰を痛めた直後に比べるとだいぶ元気そうな様子だった。むしろ向こうが気を遣う様子でこちらに声をかけてくる。どうやらあらかじめ昨日の出来事をどこからか聞いていたようだった。

「どうやら昨日は色々と大変だったみたいだね、大丈夫かい? なんならあたしにひとこと相談してくれたらよかったのに。まあ、あたしもこの状態だから、何ができたってわけでもないけどね」
「すいません……」

 そう言われてしまうと私からはなにも言えない。こちらの勝手な思い込みで暴走してしまったことをまずお詫びする。私の言葉に対して大女将は静かに首を振る。

「その気持ちは私も分かるのよ。私だってここに嫁入りして入ってきたんだから」

 そう、言われて気がついた。そうなのだ。大女将だって最初は私と同じくよそからこの竜泉閣に入ってきたのだ。私はいつの間にかそのことを忘れてしまっていた。
 たしかに最近の私は少し調子にのっていたのかもしれない。せっかく目の前にこんなにも頼れる先輩がいるのだから、もっと相談したり悩みを打ち明けたりしても良かったのだ。

「はい、すいません。今後はもっと頼らせてください」
「ええ、もちろん。でももう竜泉閣はあなたたちの旅館だからね。やろうとしたことは決して間違っているとは思わないけど、今回は運が悪かったわね。……それと、継春は、なにか言いたいことがあるみたいね」

 大女将の視線を受けて継春が決心したように切り出した。

「幸子おばさんの話なんだけど、優菜にも説明しておこうと思って。いいよね?」

 幸子おばさん。確か小貝が突然転んだあの時も、継春はその名前をつぶやいていた。大女将はその名前を聞いてわずかに目を伏せる。少し考えるそぶりをみせたあと、継春に向かって許可するように小さくうなずいた。
 自分たちの部屋に戻って一息ついてから、改めて継春は私の方に向き直って話しはじめた。

「この前の件、あのディレクターの人が風呂場で転んだ件だけどね。あれをやったのはね、僕のおばさん……父さんの妹の幸子さんなんだよ」

 継春が続けて説明してくれたのは、大女将が嫁入りしてきて、継春が生まれた頃の話だった。その当時に幸子さんも竜泉閣で働いていて、ずいぶんと継春をかわいがってくれた人らしいのだけど、ある日あの風呂場で転んでしまい、打ち所が悪かったのかそのまま亡くなってしまったらしい。
 それからのこと、風呂場での転倒事故が異常なまでに増えたらしい。それも先日のようにお客が何もないところでいきなり転ぶのだ。特に原因がありそうもないので本来ならば本人の不注意で済ませられるのだけど、転倒事故が多いのは事実だし、原因が分からないままにずいぶんと評判が悪くなってしまったらしい。
 そんなある日、継春が風呂場でつぶやいたらしいのだ。「さちこおばちゃんがいるよ」と。半信半疑だった大女将だけどお華ちゃんの件もある。物は試しに「継春、おばちゃんに『転ばすのはやめて』ってお願いしてくれる?」と頼み、継春がその通りにするとそれ以降転倒事故がぴたりとおさまったらしい。どうやらいなくなったわけではなく、継春のお願いを聞き続けてくれているみたいで、この前のように継春が出てきてとお願いをすると、近くにいる誰かが転んでしまうらしい。

「竜泉閣にある不思議の中で、幸子おばさんの件だけは実際に人に危害が出る可能性がある話なんだ」
「じゃあ、もしかしてあやかしアピールをためらっていたのって」

 私の問いに、継春は頷きながら答えた。

「うん。幸子おばさんの件があったから。ただ、これはただの推測なんだけど、幸子おばさんにきっと悪気はないと思うんだよ。たぶん自分の事故を無意識に再現してしまっているだけなんだと思う」
「そっか……ごめんね、私が安易に変な提案をしちゃって」
「いや、いいよ。こちらもその件だけは秘密にしていたから」
「もう、他にはないよね?」

 不安そうに聞く私に対して継春が苦笑しながら言う。

「僕の把握しているものはもうないよ」

 その言い方にちょっと気になるところはあったものの、私は彼を信じることにした。それにそれ以上問い詰めるような余裕が私達にはなくなってしまったというのもある。

 そう、一件落着したと思っていた私達に次にふりかかってきたのは大女将の入院、という更なる一大事だった。

<続く>


更なる活動のためにサポートをお願いします。 より楽しんでいただける物が書けるようになるため、頂いたサポートは書籍費に充てさせていただきます。