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馬も酔わせる恋心


いったいなんて読むんだ?というのが最初の印象だった。

「馬酔木」という名前のその店は、煉瓦造りのクラシックな見た目で大通りの交差点に居並ぶ建物の中でも一際目を引く外観をしている。
街路樹が黄色く染まるこの季節は、より一層雰囲気が増して、店の周囲だけはパリの大通りを思わせた。

その店名は構成している文字自体は難しくないくせに、続きで並ぶと全く読み方が分からない。

あまりにも一点を見つめて難しい顔をしていたからだろうか、僕の目線を追って金属製の蔓が絡まるデザインのシックな飾り看板を目にした彼女は僕にこっそりと耳打ちしてくれた。

「……あしび、って読むらしいよ」

男女半々、いつものメンバーで駅前のハンバーガ―ショップでテスト勉強をした帰り道。
僕が密かに心惹かれているのが耳打ちしてくれたその子だった。
だからせっかく耳打ちしてくれているのに彼女が少し背伸びをして顔を近づけてきただけで、僕は手汗が滲んでしまってそれをズボンで拭うのに必死だった。

わりと軽いノリの男子が揃っている僕らなので、つるんでくれている女子も基本的に活発な子たちなのだけど、彼女、佐々木文香だけは大きめの眼鏡をかけて図書館で静かに本を読んでいるのが似合う子だった。
なんで彼女が僕たちのようなグループにいてくれているのかが不思議なのだけど、親友が僕らと仲が良いからというのが理由らしい。

その親友であるところの遠藤早紀はグループの先頭に立って賑やかに歩いていた。看板に気を取られていた僕らはそれに少し遅れてついていく。

「さすが佐々木さん、良く知ってるね」

僕が感心していると彼女は慌てて首を振った。さらりとした長い髪が僕の腕にちょっと当たるくらいの勢いだった。
振り回された髪をなぞるようにして金木犀の香りがこちらに流れて来る。

「違うの、私も知らなかったんだけどね、お店の人が教えてくれたの」
「え、佐々木さんあの店行ったことあるの?」
「うん。見た目が素敵だから思い切って入ってみたんだけど、店内も落ち着いていて良かったよ。ゆっくり本も読めたし」

意外と行動的なところもあることに僕は驚いていた。僕は一人であの店に入る勇気はない。

「うわ、あそこで佐々木さんが本を読んでるって絵になりそう」
「そ、そうかな……」

照れてうつむく仕草も可愛くて、こちらもなんだか照れてしまう。それを隠すようなつもりで僕は続けた。

「あ、じゃあさ、今度案内してよ。たまにはハンバーガーショップじゃないとこ行ってみたいし」

すると彼女は少し目を丸くして、しばし沈黙した後に後にこくりと頷いた。

「うん、いいよ」
「じゃ、次の土曜にしよっか。時間はあとでメッセージ入れるからさ」

その時は照れ隠しの勢いでなにげなく言った言葉だったけど、後で友達に聞いた話によって土曜日の待ち合わせは重大なイベントになってしまった。

どうやら僕の印象通りあそこは高校生にとってはそれなりに敷居の高い店で、うちの高校ではどうやら「馬酔木」に二人で行く、イコール恋人同士という暗黙の了解になっていたらしい。

僕はそんなことまったく知らないで誘ったのだけど、佐々木さんはいったいどう思ったのだろか。了解してくれたんだからいいと言えばいいんだけど、彼女がどう受け取ったのかが気になってしょうがない。
一人で行ったというからその話を知らないのか、それとも知ってて受けてくれたのか。いまさらメッセージでそんなことを聞くわけにもいかず、僕は土曜日が来るのが待ち遠しいような恐いような、落ち着かない気持ちでその週を過ごしていた。

気持ちが浮いたり沈んだりを繰り返しているうちにあっという間に土曜日になっていた。その日は休みだというのに学校に行く時よりも随分早く目が覚めてしまった。行こうかどうしようかこの期に及んで怖気づいてしまいそうになるけど、誘ったのは僕からだったし、行かないわけにはいかない。

良く晴れた透明な秋空の下、駅前の待ち合わせ場所に立っている佐々木さんは寒いのか落ち着かないのか、しきりに手を擦り合わせていた。

二人で並んで店に向かう途中も、いつものグループじゃなく二人で歩いている緊張感から、僕も彼女も無言だった。気まずいけど何を話しかけていいのかも分からず、悶々としているうちに店についてしまった。

(店内で座ったほうがまだ落ち着いて話せるかな……)

事前に彼女と店に行ったことのある友達に聞いたところでは、通りを見下ろせる2階の飾り窓に面した席がおすすめだと聞いていた。
同じことが考える人が多いのか、外れた時間で席が空いていてもそこだけいつも埋まっているとのことだったけど、幸運にもその日僕らが行ったタイミングでたまたま席が空いていた。

話に聞いていた通り、店内はとても落ち着いた大人の空間だった。
浮いていやしないかと不安になりながら、佐々木さんおすすめのコーヒーとケーキのセットを注文する。

「えっと、佐々木さんもコーヒー飲むんだ。意外」
「ブラックは苦手だけど、ミルクをたっぷり入れたやつは割と好きだよ」

ほどなく運ばれてきたケーキを食べて、コーヒーを飲みながら通りを見下ろす。行き交う人の出で立ちはすっかり秋めいていて、彩度低めの街並みを紅葉のように彩っていた。

会話の中身は学校の話や、グループのメンバーの話。僕らはお互い意図的に何気ない話の陰に脈打つ気持ちを押し隠していた。
ふとした瞬間、僕らの間を沈黙が通り抜ける。それはおよそ5分の沈黙。
彼女はミルクで茶色くなったコーヒーを見つめてから一口飲み、真っすぐ僕に聞いてきた。

「その……ここに誘ってくれたのって、そういうことなの?」

やっぱり彼女もこの店の特別な意味を知っていたらしい。
そんな暗黙の了解があるとは誘った時は知らなかったとは言えなかったけど、僕が彼女を好きなことに嘘偽りはない。
僕は精一杯の勇気を込めて、ただ一言返事を返した。

「――――うん」

彼女はもう一口コーヒーをこくりと飲み込むと、吐息と共に呟きを紡ぐ。

「そっか。……嬉しい」
「えっと……それはつまり……」

彼女は耳まで真っ赤にしながら無言で頷いた。僕も自分では見えないけれど、同じように耳まで赤くなっていたと思う。

「その、よろしくお願いします」
「あ、うん、こちらこそよろしく」

カラカラになった喉を少しでも潤そうとコーヒーに口をつけたけど、もはや苦みすら感じられなかった。そして再びの沈黙。でもそれはつい数分前の沈黙とはまったく意味が異なっていた。
僕は顔を上げて案内される間にちらりと見えた店の奥に目をやる。
夜はアルコールも提供するこの店は、奥にバーカウンターが設えられていて、カウンターの向こう側の壁一面に色とりどり、形も様々な瓶がその内側に魅力的な液体を湛えて並んでいた。

「お酒も飲めるんだね、この店」
「そうなの。夜も素敵だって聞くし、二十歳になったら飲みに来たいね」

そう言って彼女は少しほぐれた笑みを僕に向けてくれる。

「……うん。そうだね。来ようよ」

それはつまり2年後も一緒にいようという意思表示であるわけで。
来年の今頃ですら僕らがどこにいるかはまだわからないけれど、バーカウンターに二人並んでカクテルを傾ける様子を想像して、彼女との未来を僕が明確に思い描いたことは確かだった。

窓の外を吹き抜ける風はいよいよ冷たさを増してきたようで、ちらりと大通りを見下ろせば襟を寄せる様にして歩く人たちが見えるけれど、僕らの気持ちは目の前のコーヒー以上に熱を帯びてきているように思えるのだった。


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