見出し画像

玻璃の心が砕ける前に【前】

朝の通学路では僕と同世代の男女がモノクロームな表情で学校へと続く坂道を歩いている。粛々と続いていく人の列はどこか陰鬱で、自分もその一部であることが無性に嫌になって逃げ出してしまいたいと思うこともある。おそらく誰にでもそんな瞬間はあるのだろう。けれど僕には一つだけ救いがあった。

白いブレザーと黒の学ランで出来た迷路のような人波をかき分けて、僕は息を切らしながら一人の女の子、幼なじみでクラスメイトの少女の姿を探し出す。

人混みの中に見つけた彼女の横顔は、白く儚く透き通ってしまうような肌の上にほのかに赤みを浮かべている。うつむき加減で歩く彼女は駆け足で横に並んだ僕の気配に気がつくと、こちらを見つめて微笑んだ。僕は弾んだ息のまま、彼女に朝の挨拶をする。

「おはよう、玻璃(はり)」

玻璃、とはガラスの事らしい。その名前にふさわしく、無造作に触れれば壊れてしまいそうな危うげな雰囲気を彼女は纏っている。彼女の唇からぽろりと小さく言葉が零れ出す。

「……おはよう。」

彼女が紡ぐ、そのたった一つの言葉だけで、とたんに僕の世界はカラフルな色で満たされる。春を目の前にしてまだしつこく粘っている冬のぼんやりとした朝の光でさえも、ビビッドな色が付いたようにキラキラと輝きを放ち出す。それはまるでプリズムに光を通して虹を作り出したかのようだった。

僕はその何気ないやりとりが当たり前のものと思い込んでいた。

彼女が『消えて』しまうまでは。


***


白く沈んだ朝の病室で、僕は部屋の中央に鎮座しているベッドの脇に無造作に置いてある、古ぼけたパイプ椅子に座っていた。この椅子が僕の指定席になってからもう半年くらいは経っているだろうか。すっかり椅子は僕の体の線に沿って歪んでしまって、座り心地だけは意外と悪くなかったりする。

まだ朝食の時間には早いから、リノリウム貼りの廊下を看護婦さんが歩く音だけがやけに甲高く響いている。

薄く開けられたカーテンから差し込む光が世界の始まりを告げている。個室だからと付けっぱなしのテレビからは朝の情報番組が流れている。

「……今日の水瓶座の運勢は……」

今日の運勢を告げるアナウンサーの言葉を聞きながら、僕はベッドの上にしわを作って広がっているシーツを手でそっと持ち上げる。

「ねえ、玻璃……そこに、いるよね?」

ベッドの上で横になってまだ寝ているはずの彼女の姿は、僕の視界の中で一瞬かすれたノイズのように見えた気がしたけど、次の瞬間にそこから『消えた』。ただ、彼女がそこにいる証拠として「うん……いるよ」とか細い声だけが空間に響いた。

ーーーー彼女がこうなってしまったのがおよそ半年前。

きっかけになったと思われる出来事はあった。昼休みでざわめく教室の中で突然バン!と机を叩いた音がしたかと思うと、教室の扉を勢いよく開けて玻璃が飛び出していったのだ。だけどそのときの僕は何が起こったのかも分からず、とっさに動けずにいた。彼女の机の周りでは、クラスメイトの何人かの女子が何が面白いのかくすくすと笑みを浮かべていた。そのとき玻璃とクラスメイトたちの間に何があったのかは分からない。ただ彼女が深く傷ついたのだろう事は確かだと思う。昼休みが終わるぎりぎりに教室に帰ってきた彼女は目の周りを腫らしていて、帰りのホームルームまでずっと俯いたままだった。
放課後の帰り道、運悪くその日の日直だった僕が急いで用事を済ませ、とぼとぼと歩く彼女の後ろに追いついたところで、彼女は力を失ったかのように突然と地面に倒れた。僕は慌てて通りがかりの人に頼んで救急車を呼んでもらった。救急車の到着を待つ間、彼女に呼びかけているときに、それは起こった。

彼女の姿が一瞬『消えた』のだ。
確かに僕の目の前に苦悶の表情を浮かべて横たわっていたはずなのに。

それは瞬きひとつくらいのとてもわずかな時間だったけど、その場にいた誰もが自分の目を疑っていた。

救急車が到着して彼女が慌ただしく担架に乗せられ、車の中に運び込まれる間も、僕は彼女から目が離せなかった。目を離してしまったらまた消えてしまうのではないか、そんな不安が僕に覆い被さっていた。

玻璃が最寄りの救急病院に運び込まれたのは夕方くらいだったけど、たくさんの検査を終えてようやく病室に入った頃には、窓の外はもうすっかり暗くなっていた。検査結果を待っている間に玻璃の母親から連絡があり、今は仕事の都合で遠方にいてどうしても今日中には来られないとの話で、担当となった医者の先生から彼女の病状についてまず僕が説明を受けることになった。

先生は僕の前に座ると、腕を組んで言葉を選ぶように話し始める。

「まず確認しておきたいんだけど、君が救急車を呼んでくれた子であってるかな?」
「ええ」
「それじゃあ、彼女が『消えた』ところも見ているね?」
「……はい」

先生の言葉からするとやっぱりあの時に彼女が消えたのは見間違えじゃなかったということだ。僕が頷いたのを確認して先生は話し始める。

「彼女が君の目の前から消えたのは確かだ。ただし物質的にではなくて、君の認識がそのように歪められているからなんだ。これは非常に珍しい病気によって引き起こされている現象でね。とても簡単に言うとね、『消えてしまいたいと願っていたら、本当に消えてしまった』という病気なんだ」

『後天性外部認識阻害症候群(Acquired External Cognitive Impairment Syndrome)』。

それが彼女の病名。この病気にかかった人はネガティブな感情が引き金となって脳からの指令が乱れ、全身のホルモンバランスが崩れることで汗などと一緒に特殊な物質を周囲に分泌するようになる。周囲の人はそれを気がつかないうちに口や鼻、皮膚から吸収することによって脳の器官、とりわけ後頭葉の視覚認知を阻害させられて、目の前にいる人を認識できなくなる、とのことだった。

僕は先生の説明が途切れたタイミングで一番気になっていたことを聞いてみた。

「……それは、本当に玻璃が望んでしていることなんですか?」

それは僕にとってとても重要な違いだった。
病気のせいで消えてしまいたいと思うようになったのか、消えてしまいたいと思ったから病気になったのか。

先生は目を閉じて首を左右に振る。それは肯定でも否定でもなく、降参の仕草だった。

「それは分からない。さっきは説明の分かりやすさのために『消えてしまいたくて』とは言ったけれど、これはまだほとんど解明できていない奇病だからね。医者なんて全てが分かっているみたいに偉そうにしているが実はのところはね、人間のことなんてほとんどわかっちゃいないんだよ」

意外だったけれど、実際の所それはそうなのかもしれない。人は人のことをほとんど理解できていない。人生の大半をとても近くで過ごしてきた僕と玻璃だってそうなのだから。

僕と玻璃は家が隣同士の、いわゆる幼なじみというやつだった。

玻璃には父親がおらず、僕には母親がいない。
二人とも僕らがまだ幼いときにあった大雨による土砂崩れに家ごと巻き込まれて亡くなっている。
それ以来、僕たち家族は両家で寄り添って何かをすることが多くなった。あまりに一緒になって生活をしていたから、僕は小学生になってからやっと、玻璃が血の繋がった家族じゃないということに気がついたくらいだ。

家族じゃない、という事実には悲しさもあったのだけど、その頃になって恋愛感情というものを手に入れ始めていた僕は、どこかほっとしている自分にも気がついていた。

玻璃が僕のことをどう思っているのかは、正直よく分からない。

ずっと一緒にいたって、わからないことなんていくらでもあるんだ。

俯いて自分の思考に沈んでいた僕を落ち込んでいると思ったのか、先生は僕を慰めるかのようなトーンで話かけてくる。

「……だがこの病気が脳に起因することは確かだ。医学誌にも載っていて医学的には効果を認められている方法がないわけじゃないんだよ。精神論じみてくるから個人的にはあまり勧めたくはないんだが」

躊躇する様子を見せる先生を半ば睨みつけるようにして僕は話の続きを促した。何でもいいから対処方法があるなら教えて欲しかった。先生は「分かった分かった。そう怖い顔をしないでくれよ」と言いながら話を続ける。

「脳が引き起こした現象を解決するのは脳しかない。つまり外部の僕らにできることは彼女に『消えたくない』と思わせることだ」
「それは……」
「一番効果的なのはいま君が僕に対してしているみたいに真剣に相手の目を見て話すことなんだけどね」

言うのは簡単だけど容易でないことはすぐに分かった。一度ネガティブな感情に支配されてしまった彼女を僕がどこまでつなぎ止められるのだろうか。表情や仕草があってすら思いを上手く伝えられないのに、その手段すら今はない。見えない相手の目を見て話す事なんて、出来るわけがないじゃないか。

僕は長い回想を終え、朝の光が徐々に被さってきたベッドの上に視線をさまよわせながら溜息をついていた。膨らんだシーツだけが上下に揺れている。今日も彼女は見えない。テレビが告げる今日の水瓶座の運勢は最下位だった。ラッキーポイントは黒猫、もしくは猫グッズ。僕はそれを聞き流しながら学校へ向かうために病室を出た。




更なる活動のためにサポートをお願いします。 より楽しんでいただける物が書けるようになるため、頂いたサポートは書籍費に充てさせていただきます。