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メトロノーム
カチ、 カチ、 カチ、 カチ。
僕の目の前で、一定のテンポを取って振り子が揺れている。
カチ、 カチ、 カチ、 カチ。
そのテンポにつられるように僕の視点も左右に揺れる。テンポは1秒に1回のペースで正確に時を刻んでいる。
それは古ぼけたメトロノームだった。
ふらりと訪れたフリーマーケットで売られていたそれは、使い込まれた道具特有の不思議な魅力を放っている。
黒い筐体に、フレームは銀色。針は金色にコーティングされており、そのいずれもが長年人の手に触れてきた証としてところどころに下地の金属の鈍い色をのぞかせている。
別に音楽をやっているわけではないのに妙にそのメトロノームに心惹かれてしまった僕は、気がつけば尻ポケットに突っ込んであった財布を手に握りしめハンチング帽を目深にかぶった売り主のおじいさんに「これ、いくらですか?」と問いかけていた。
こういうフリーマーケットの楽しみのひとつが値段交渉も含めた出店者側とのやり取りだと思うのだけど、その時の僕は全く交渉するそぶりも見せないままに値段を聞いていた。
おじいさんはちらりとメトロノームに目をやると、「500円」と投げやりに言う。古ぼけていると言ってもぱっと見で壊れているようにも見えなかったので、1000円もしない値段を言われたのがひどく意外だった。
おじいさんの気が変わらない内にと思い、僕は「分かりました」と言って迷わず500円を渡した。無言で顎をしゃくって、「持っていけ」とメトロノームを指し示す。フリーマーケットに出店している割には愛想の一つもない人だ。
周囲を改めて見回すと、店主と客がにこやかに談笑しているような雰囲気だにも関わらず、このおじいさんの周りだけはぽっかりと穴が開いたように人がいない。古本屋の奥にむっつりと新聞を広げて座っているのが似合いそうな風貌だった。
ただ、僕がメトロノームを手に取りその場を去ろうとするとき、おじいさんの瞳にちらりと浮かんだ憐みの入ったような色がひどく印象に残っている。
そして今、メトロノームは僕の目の前でリズムを刻んでいる。
よく見ればリズムの目安となる目盛りがないため、針についている重りをどの位置にすればどのくらいのリズムになるのかが全く分からない。
とりあえず買ってきたままの状態で針を揺らしてみて、腕時計でリズムを測ってみたところ、ちょうど1秒で1回のリズムになっていた。
少し重りを下にずらしてみる。
カチ、 カチ、 カチ、 カチ。
テンポが早くなる。さっきと同じように時計で測ってみる。
「あれ?」
おかしなことに気がついた。明らかにテンポはさっきより早くなっている。
なのに時計で測ってみると、秒針の刻む速度と同じなのだ。さっきと同じ、1秒に1回。
試しにさらに重りを下にずらず。
カチ、カチ、カチ、カチ。
やっぱりテンポはさらに早くなっているはずだ。
時計を見る。1秒に1回のテンポ。
時計が壊れたのか?それにしては見事なまでにメトロノームの刻むテンポに合いすぎている。
思い切って一番下まで重りをずらしてから、針を動かそうとする。
針を押すその手前で、伸ばした手を止める。
じわりと手のひらに汗が滲んでいるのが分かる。
いやいや、僕は何を気にしているんだ。気のせいでしょ。気のせい。
小学生くらいの時、音楽室のメトロノームで、一気に重りを一番下に降ろして動かしたりしたでしょ。
そういえばあの時は音楽の先生にひどく怒られたっけ。
小学校の音楽の先生って、女の人が多いイメージなんだけど、僕の通っていた学校の先生は、珍しく男の先生だった。だから余計に怖かったのを覚えている。
脳裏におじいさんのあの時の視線が思い浮かぶ。
かすかに滲んだ憐みを含んだ視線。
ふと思い返すと、小学校の音楽の先生とフリーマーケットのおじいさんは、なぜだかとても良く似ていた気がする。まるで、そのまま年をとったかのような。
いや、でも年齢を考えればあんなおじいさんな筈はない。
もしかして親戚だろうか。
やけに気になった僕は、小学校の卒業アルバムを引っ張り出してみることにした。たしか本棚の上に置いてあるはず。
小学校、中学校、高校の卒業アルバムが重ねて置いてあるので、一番下の小学校の分だけ無理やり引っ張って取り出そうとしたのだけど、それが良くなかった。バランスを崩して一番上にあった高校のアルバムが滑って落ち、メトロノームに直撃してしまった。
そのはずみで針は動き出し。
カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカ。
ありえないスピードでメトロノームの針は振動し、急に足から力が抜けて僕は床に倒れる。起き上がろうとしても手に力が入らない。なんでだ、と思って手を見ると、それはまるで老人の様にしわくちゃな手になっていて。
まるで。これは。時間が。
メトロノームを、止め、な、くて、は。
急激に霞んでいく視界の中でかすかに見えたのは、音も聞こえないくらいの速度で高速振動しつづけるメトロノームの針。それを最後に、僕の意識は闇へと落ちた。
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