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【掌編小説】料理の神髄

 「Closed」と書かれた札がぶら下がったドアが控えめにノックされる。午後三時過ぎ、ランチが終わってディナータイムまでの間の空白の時間帯。シェフの石橋がドアを開けると、そこにはどこか不安そうな顔をした壮年の男性が立っていた。
「あの、今日ここで開催される料理教室の参加者なのですが」
「こんにちは、本日ご参加の坂井様ですね。お待ちしておりました。中へどうぞ」
 石橋は営業時間の隙間を利用して、マンツーマンの個別指導の調理教室を開催している。主な客層は近所の主婦であり、坂井のような男性は珍しかった。石橋は坂井を伴って客席フロアを通り抜け、厨房に入る。料理教室の材料や道具は既に準備してあった。坂井は初めて足を踏み入れたのであろうプロの厨房の様子を物珍しそうに見回しているが、やはりどことなく落ち着きのない様子だった。坂井の様子が気になった石橋はそっと尋ねてみる。「さて、レッスンはすぐにでも始められるのですが、その前に何かご質問はありますか?」
 石橋の言葉を受けて坂井はおずおずと話し出した。
「あの、実は私はですね、味覚障害なんです。例の感染症に罹ってしまってから味を感じなくなってしまいまして……」
 世界にパンデミックを引き起こした感染症。その後遺症の一つが味覚障害である。ウイルスが嗅覚細胞へダメージを与えることが要因と考えられているが、坂井が不安そうにしていたのはこのことだったのだろう。
「そうだったのですか、それは大変でしたね」
 石橋の知人のシェフにも同様に味覚障害を発症した者がいた。電話越しでの会話でも、「味がまったく感じられないんだ」と告げてきた彼の悲嘆は石橋にも痛いほど伝わってきた。
「しかしそれでしたらなぜ料理教室に?」
 石橋は坂井に尋ねる。味覚障害と分かっていてあえて今料理を学ぼうとするのはどういう訳なのか。純粋に疑問が浮かぶ。石橋の問いに坂井は少し頬を緩めて照れくさそうに答える。
「料理を食べさせたい人がいるんです。長年連れ添った妻なんですが、最近大病を患ってしまって台所に立てなくなりまして、それで」
「なるほど、それで坂井様が代わりに料理をしようと」
 石橋は納得して頷いた。坂井は顔を曇らせながら石橋に問う。
「はい。ですがこれまでほとんど台所に立ったことがなく、しかも今では味を感じられなくなってしまった私にまともな料理が出来るでしょうか」
「そうですね、味見ができないとなるとやっかいではありますが……」
「やはり、そうですよね」
 石橋の言葉に落ち込んだ様子を見せる坂井。そんな坂井に、石橋は「ちょっとお待ちください」と告げてから、厨房の奥へと引っ込んでいった。坂井が不思議に思いながら待っていると、しばらくして石橋が電極らしき部品の付いた金属製のヘラのような装置を持って戻ってくる。
「こちらを使ってはいかがでしょうか」
 そう言いながら石橋は持っていた装置を坂井へと差し出す。坂井は装置を受け取って眺めてみるものの、いったい何をするための道具なのかさっぱり検討がつかない。
「あの、一体なんですか、これは?」
「これはですね、ハンディタイプの味覚センサーになります」
「味覚センサー?」
「はい。この装置の先端の電極を料理に突っ込んでからスイッチを押すと、装置が料理の味を分析してくれるんです。簡易的な物ですがこれを使えば極端な失敗にはならないと思います」
 石橋の言葉に驚いた表情を見せる坂井。
「いいんですか? 料理人にとってこういう道具は邪道ではないんですか」
 坂井の純粋な言葉に石橋は苦笑しながら答える。
「確かに料理人にとってはあまり使いたくない装置かもしれません。ですが坂井様は別に料理人ではないのですから、使える物はどんどん積極的に使ったら良いんです。肝心なのはそれで何をしたいかですよ。坂井様の目的は奥様に美味しいものを食べさせたいということですよね?」
 石橋の質問に坂井が頷く。「それなら遠慮無く使ったら良いと思います」と石橋はにこやかに告げる。坂井はそれでも「こんな私でも上手く料理ができるでしょうか」と不安そうだったが、石橋は坂井に向けてきっぱりと告げる。
「誰かに美味しい物を食べさせてあげたいと思う、それが料理上手への第一歩です。さあ、時間は限られていますよ。さっそくレッスンを始めましょう」
 気合いを入れるように両手を景気よく打ち合わせてから、石橋は嬉しそうに笑ったのだった。

<了>


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