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盆燈籠の灯るころに


蝉の鳴き声が一日中鳴り響き、盆燈籠が墓地を埋め尽くす。
それは夏の風物詩として、幼いころから私の記憶に刻み込まれている。

この時期になるとス―パーやコンビニエンスストアにもカラフルな盆燈籠が並べられ、蓮や菊の花を模した砂糖菓子と共に燈籠を購入する客の姿が見られるようになる。広島県西部のお盆の風景だ。

日差しも弱まる午後になると、お寺の墓地にはあちこちでお花と盆燈籠を携えた家族連れの姿が見える。境内は赤、青、黄色、緑に紫と、お祭りかと見まごうようなカラフルな彩りに包まれる。

盆燈籠は竹を六角形の朝顔の形に組んで、各面に赤や青の色紙が貼ってある。朝顔灯籠とも呼ばれる由縁だ。一面だけは上辺だけ貼っておいて下部を空けてあり、これは風や雨水を通すためだと言われている。六角形の頂点から金紙などの飾りが付けられていて、風によって一斉に揺らめくさまは、何とも言えない風情を感じさせた。

ときおり見える白一色の盆燈籠は、初盆の年だけに飾られる。戦時中は沢山のお墓に白い灯籠が並んでいたそうだ。

この時だけは、この地が浄土となるのかもしれない。
一切の煩悩や穢れのない土地。


夫と共に、母親の眠る墓を訪れたのは、母と二人で暮らす家を飛び出てから十年の月日が経ってからのことだった。

初めて見る色彩に満ちた墓地の光景に夫は感嘆の声を漏らしていた。
私にとっては幼いころから当たり前のように感じていても、彼にとっては初めて見る景色なのだ。

これまで見てきた景色が違うという事が喜ばしいと思えるようになったのは、夫と出会ってからだった。他人との違いですら楽しむことのできる彼は、私の心にこれまで感じたことのない安寧をもたらしてくれた。

父と母も、こんな風になれていたら、少しは違う結末を迎えられていたのだろうか。そう思えるようになるまで十年。

赦せるかもしれない、と思った時には、母は向こう側へ行ってしまった。
こんな風に、いつも手遅れになってから気がつくことを繰り返してきた。


白い菊の花と白い盆灯籠を携えて、夫と並んで母の墓前の前に立つ。
あれだけ父側の墓に入りたくないと私に漏らしていた母なのに、今は当たり前のようにここに眠っている。

私のいない間の十年。
それは母が父を赦すのに必要な時間だったのだろうか。

お墓を水で清めると、盆灯籠と花を供える。盆灯籠に気を取られて、お線香を忘れてしまった。心の中で母に詫びながらただ静かに夫と二人、手を合わせる。

お墓にはそれぞれの親族が持ち込んだ盆灯篭が立っている。
だから一つのお墓に何本も灯籠が立っており、このお墓にも盆灯籠が複数供えられていた。何ともなしにお墓の隅に供えられた灯籠に目をやる。灯籠には参拝者の名前が書かれており、誰が供えたものかが分かる。

そこに書かれていたのは、意外な名前だった。私はその場で息を呑む。耳に響き続けていた蝉の声が、突然世界から消えたような気がした。

どうして。

どうして今頃になって。このタイミングで。

夫が私の異変に気づき、気づかわしげに覗き込んできた。私はつかの間、それに応じる余裕すらも失っていた。よく見れば私たちの前に誰かが供えたお線香からはまだ煙が立ち上っている。

まさかと思い振り向くと、墓地の入り口に一人の男性が立っていた。
老人と呼べる年齢に足を踏み入れ始めたにしても、その姿は私の記憶の中の姿と比べてあまりにも衰えを感じさせる佇まいだった。
衰えたのは、体なのか、心なのか。

私は無意識に手が白くなるほど握りしめていた。夫が私の拳に彼の大きな手を添える。それでやっと力を抜くことが出来た。

墓地を一陣の風が通り抜ける。
ざわざわと盆灯籠が揺らめいていた。
風に乗って遠くから聞こえてくるヒグラシの鳴き声。


どれだけの時間、そうしていただろうか。一瞬だった気もするし、十年よりも長い時間にも感じていた。
促すように、夫が私の腰にそっと手を添える。


私はそれに押されるようにして、足を踏み出した。

一歩ずつ、一歩ずつ、ゆっくりと、灯籠の花が咲き乱れる中を墓地の入り口に向かって歩んでいく。

顔は見なかった。どんな表情をしているか、見てみたい気持ちと、見たくもない気持ちが、私の中でこだまする。

父は、その場に悄然と立ちすくみ、微動だにしなかった。

私は、その横を、歩む速度を落とさずに通り過ぎる。

通り過ぎざま、ぽろりと、赤子がふと玩具を落とす様にして言葉が漏れ落ちた。

「子どもが出来たの」

びくりと、雷に打たれたかのように、父の身体が震えるのが気配で分かった。

私は振り向かず、速度を落とさずに墓地を出ていく。
夫は小さく父に会釈をすると、私の背中を優しくさすりながら寄り添うように歩んでいる。

日が落ち始めた境内には風に乗って、ヒグラシの物悲しい響きと共に嗚咽の声がいつまでも聞こえていた。

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