【一緒に勉強】文章力を高めよう・第三講①
こんばんは、如月伊澄です。
お待たせしました、第3講になります。
参考文献はこちら
5月の半ばくらいから始まった「文章力」の勉強。
皆さんはいかがですか?多少は役に立っていますか?
そろそろ復習の機会が欲しいところですよね。
そっちも何か考えたいなと思ってはいます。
それでは、今回もスタートしていきましょう。
7月初旬くらいまでには、第3講も終わりにしたいな。
【誰に向けて書いているのか】
【読者は誰か?】
今回のテーマは「読者の椅子に座る」ということだが、本題に入る前に、導入として少しだけ話をさせて頂こう。
私は「人に教える」仕事をしているのだが、実際に講義を受けている人がどんな視点で、どんな考えをもって、講義を聞いているかはわからない。
例えば「休憩を取る時間は適切か」「どんなツールや話の流れだとわかりやすいのか」「この形式で集中が続くのか」などだ。
先日、講義テーマは違うが、自分が講義を受ける側としてセミナーに参加する機会があった。
実際に受ける側として講義参加することで、様々な気づきがあったのだが、これは「伝える側」でいくら考え、試行を凝らしたとしても得ることのできなかった知見であろう。
これは「文章について」も同じことが言える。
あらゆる文章の先には読者がいて、それを意識するかしないかにより、文章は大きく変わる。
良い文章を書くために必要なのは、読者と同じ椅子に座り、同じ景色を見ることである。
ということで、改めて第3講では「読者」をテーマに「どう読まれるか?」「どう読ませるか?」を見ていこう。
【“読者”の椅子には座れない】
まずは見出しを見て欲しい。
読者の椅子に座る、をテーマにしたはずが、いきなり座れないとはどういうことだ、と思われた方もいるはずだ。
そもそも、読者の心を動かす文章とはどのようなものか。
書き手の文章に共感し、納得させ、行動させるようなものと定義すれば、そこには「リアリティ」が必須となる。
では「猫好きの読者に向けて、猫と暮らすエッセイを書いてください」と依頼されたとき、書き手が猫と暮らしていなかった場合、読者の共感を誘うような文章を書くことができるだろうか?
資料を集め、インタビューなどを重ねることで、それらしいものは作れるかもしれないが、共感を得るのは難しいかも知れない。
また毎日が充実していて、仕事も順調な人が「自己肯定感の低い人のために、自信をつけられるような自己啓発本」を書くことができるだろうか?
番外で見てきたように、読者の心を動かすためには「リアリティ」が必須である。
表面だけ取り繕った文章では、読者の心を動かすことはできない。
とすれば、自分自身が「すべての読者」を想定して、その椅子に座ることは不可能であろう。置かれている環境も見えている景色も違うのだ、当たり前のことだ。
それができると豪語するのであれば、それはただの傲慢でしかない。
ならば、どうすればよいのか?
実は、書き手が座ることができる「読者の椅子」はしっかりと用意されている。しかし、それはこの二つだけなのだ。
騙し討ちのようで申し訳ないが、”全ての読者の椅子”には書き手は座れない、が正しい見出しになるだろう。
【拝啓 10年前の自分】
まずは書き手が座ることのできる”読者の椅子”の一つ、10年前の自分について見ていこう。
10年前はあくまでわかりやすさを求めた表現で、別に10年でなくてもよい。半年前でも20年前でも、好きな時を選べば良い。
とにかく「あのとき」の自分。
高い壁にぶつかり、思い悩んでいた頃の自分を思い出してみて欲しい。
さて、「今の自分」はその答えを持っていないだろうか?
あの頃あれだけ悩んだ課題の答えを、あるいはそれを解決するための有益な情報を、経験を手にしてはいないだろうか?
もし、それを10年前に知っていたらどうなっていたか。
あんなに悩む必要はなかったかもしれない。
苦い思い出にならずに済んだかもしれない。
読者はあの頃の思い悩んでいる自分としよう。
彼に、彼女に何を伝えられる?
彼らはどんな言葉を聞き、どう伝えたら納得してくれる?
このようにして書かれた文章は、言葉の強度が違う。
誰も意識せずに書いた文章と、あの頃の自分に向けた文章が、同じ熱量で書かれたわけないからだ。
そして、その「伝えたい」という想いは文章を通じて読者に届く。
人間の悩みはいつも普遍的なものであり、10年前にあなたが立っていた場所に、今まさに立ち尽くしている人がいる。
「あのころ」の自分に向けて文章を書くことは、今を生きている「見知らぬ誰か」に届けるための、一番確実な方法なのだ。
【6/29ここから追記分】
【確認になりますが、あなたのいう”読者”という人物はどちらにいらっしゃるのですか】
続いて②「特定の“あの人”」について。
一度立ち止まって考えて欲しいのだが、あなたの想定する「読者」とはどのような人物だろうか?
年齢は、どんな趣味嗜好があって、性別は?
働いているか、そうでないのか。働いているとすればどんな場所で、雇われなのか自営業なのか、アルバイト、平社員、重役——範囲を広げようとすれば、どこまでも広げることができる。
これはすべてその人物の個人情報であり、その人自身のことを表しているわけではない。
同じ環境にいて、同じ性別で、同じような仕事をしていたとしても、読書の仕方は十人十色である。すなわちあなたが想定する「読者」という人物はどこにもいないのである。
すると書き手はどう考えるか。
間口を広げるために、多数派に向けて書こうとする。
確かに、それなら“手に取ってくれる人”は増えるかもしれない。
しかし、これが「多数派の罠」なのである。
【多数派の罠】
もし自分が雑誌のライターだったら、と考えてみて欲しい。
「様々な層に向けて車の雑誌を作ってください」という場合と「ヨーロッパのスーパーカーだけを扱う専門雑誌を作ってください」という場合、どちらの方が書きやすそうだろうか。
一見前者の方がテーマを広く設定できるので、書きやすそうと思うかもしれない。
では「どんな層」の「どんな世代」で「どのくらいの収入層」に向けて書こうか?
エコに関心がある人も電気自動車に関心がある人もいるかもしれない。どこにスポットを当てれば、多くの人に関心を持ってもらえる雑誌になるか。
難しいのである。対象が多数派となることで、誰に向けて書けばいいのか書き手はイメージできなくなる。結果生まれるのは、テーマも存在もぼんやりした、誰向けかもわからない内容になるだろう。
逆に後者はどうだろうか。
一般的に読者の大半は男性、1970年代のスーパーカーブームを体験した世代も多いだろう。運転が好き、あるいは車が好きで、購入を希望するのであればかなりの富裕層、となるとカスタムにも関心があるかもしれない。
あえて少数派に向き合うことで、途端に読者の顔が見えやすくなる。
すると、専門性のあるエッジの聞いた特集を組むことも容易であり、読者にストレートに届く記事を書くことができそうである。
簡単に見えそうで、もっとも顔が見にくいのが「多数派」なのである。
また多数派に好かれるために「表現の自主規制」「曖昧な表現」「主張をぼやかす」を重ねていけば、出来上がるのは無味乾燥の誰でも書くことのできる文章、である。
前項で見てきたように「主張したいことがあるから文章を書く」のであれば、もはやあなたが文章を書く意味すら失われてしまう。そもそも、誰でも書ける文章である以上あなたが書く必要もないわけだが。
【みんな × あの人 〇】
それでは、多数派の罠にかからないためにはどうすればいいか。
そのために必要なのが「たったひとりの“あの人”」を思い浮かべて書く意識である。
多数派の椅子ではなく、特定の誰か、それは家族でも友人でも上司でも誰でもいい、思い浮かばなければ架空のキャラクターでもいい、とにかく特定のひとりを想定して、その人に向かって書く。結果、言葉のベクトルがはっきりすることで「その他の人々」にも届きやすくなるのである。
実際にこういう本がある。
ビジネス本のベストセラーとしてよく取り上げられる一冊だが、この本は父親が子供に向けて書いた文章を本にしたものである。
まさにこの理論を証明した一冊といえるだろう。
多数派にターゲットすることをやめて、読者を絞り込むことで、逆に多くの人の関心を得られる文章となるはずだ。
【思ったこと】
「あの頃の自分」はもう遅くても、「今を生きる誰か」はまだ救える。
「今度こそ間に合った!」をするチャンスです。
勇気がでますね。
なんか、いいですねそういうの。
今の自分のあたりまえは、あの頃の自分にとってはあたりまえじゃないし、せっかくの経験や情報を「こんな当たり前の事」と捨ててしまうのはもったいないのかもしれませんね。
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