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【一緒に勉強】文章力を高めよう・第二講④

こんばんは、如月伊澄です。

論理展開のお話。長いので二回に分けますね。

参考文献はこちら


【論理展開について】

リズムよく読みやすい文章とは「論理展開が一貫している文章」であると、第一講では論じてきたが、ここからは文意に沿った論理展開のあり方を見ていくこととなる。

【論理展開の作り方】

さて、まず「論理」とはどんなものだろうか?

論は主張、理は理由と考えた時、論理的とはすなわち「自分の主張が明確な理由によって、裏打ちされているとき」と言い換えることができる。

主張だけがご立派でも意味がなく、理由だけ述べても何を伝えたいのか相手にはわからない。論も理も整えてこそ、説得力のある文章を書くことができる。

この構造のことを、著者は「マトリョーシカ」に例えている。
ちなみにマトリョーシカとは、大きな人形を開くと中くらいの人形が、またその人形を開くと小さな人形が――と入れ子構造になったロシアの民芸品のことである。

以下にその意を引用する。

論理的な文章のマトリョーシカは、次の3層になっている。
①大マトリョーシカ 主張……その文章を通じて訴えたい主張
②中マトリョーシカ 理由……主張を訴える理由
③小マトリョーシカ 事実……理由を補強する客観的事実

一番大きな「主張」の人形を開けると、中にはちゃんと「理由」が入っている。そして「理由」の人形を開けると、そこには小さな「事実」が入っている。
つまり、中身のスカスカな主張ではなく、フタを開けるとしっかりとした理由があり、理由を支える事実がある。この3層構造が守られているのが、論理的文章なのだ。

古賀史健(著)20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社 e-SHINSHO)2012 p.96

【主張について】

前提として「文章を書く」ということは「何か伝えたいことがあるから書く」はずである。
意味もなく文章を書く人はおらず、意味のない文章は無価値である。

しかし、読んでも何の主張も見当たらない文章が散見されることがある。
これは、書き手が「自分が何を書こうとしているのか」を曖昧なまま書いているため、読者が「結局、書き手は何が言いたかったの?」と思う文章が出来上がるからだ。

要するに、書き手が「言いたいこと」がない文章=読者は「何を軸にこの文章を読めばいいか」定まらない文章となり、それは毒にも薬にもならないつまらない文章、ということになる。

それでは、具体例を参考文献から引用させていただこう。

かつて中国といえば、人民服を来た人々に道を埋めつくさんばかりの自転車、というイメージが定番だった。しかし現在、北京や上海には高層ビルが立ち並び、人民服姿を探す方が難しい。オリンピックと万博を次々と成功させ、GDPでも日本を追い越した中国は、名実ともに世界の超大国なのだ。良好な日中関係の構築は、これまで以上に重要な課題となっている。

古賀史健(著)20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社 e-SHINSHO)2012 p.97

「……だからどうした?」「結局何が言いたいんだ?」「なるほど?」いろいろな感想があるとは思うが「なるほど、そういうことね」と合点がいった人は少ないはずだ。
この文章には主張がなく、事実を羅列しただけのものだからである。

導入がこの文章だったとして「気になるから続きを読もう」と考える人は少ないのではないだろうか。

文章を書くときのポイントとして、読者の「結局何が言いたいんだ?」という問いに“ひと言”で答えられる、を意識するというものがある。
主張するとは、そういうことだ。

先の文章に主張を加えると、このような形になる。

かつて中国といえば、人民服を来た人々に道を埋めつくさんばかりの自転車、というイメージが定番だった。しかし現在、北京や上海には高層ビルが立ち並び、人民服姿を探す方が難しい。オリンピックと万博を次々と成功させ、GDPでも日本を追い越した中国は、名実ともに世界の超大国なのだ。良好な日中関係の構築は、これまで以上に重要な課題となっている。

安い労働力を求めて中国進出する時代は終わった。これからは「世界一の消費力」を求めて中国市場への進出を考えなければならない。

古賀史健(著)20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社 e-SHINSHO)2012 p.98

たった一文主張を付け加えただけでも、前段の話をした理由も明らかになり、この後の論理展開の道筋もわかりやすくなる。

主張が明らかになることで、読み手はどんなスタンスで文章を読めばいいか理解することができ、文章全体が読みやすくなるのだ。

【すべての文章に”主張”は必要か?】

「主張の大切さはわかった。でもあまりに主張が強すぎると、読者が引いてしまうのでは?」

そう考える人もいるかもしれない。

「読者が欲しいのは客観的事実であって、私の意見なんて邪魔なのでは?」

そう思う人もいるかもしれない。

他にも様々な理由をつけて「自分の主張」を文章に入れたがらない人がいるかもしれないが、それは全て間違いである。全ての文章には「主張」が必要だ。

なぜか?
文章の目的を「伝えること」として、情報が読者に伝わるのであれば、主張なしでも第一の目的は達成するだろう。

まあ、その文章を書くのがあなたである必要もないわけだが。

考えてみて欲しい。
なぜ、あなたは文章を書くのか?

動画や画像、その他もっと便利なツールも、やり方もあるのに、なぜ多大な時間と労力を使って文章を書いているのか?

理由はひとつ、読者を動かすためだ。

自分の知りうる有益な情報や考えを、他者に共有し役立ててもらいたい。
面白い、楽しいと思った、辛く悲しいと思った、怒りを覚えた。
自身の気持ちに共感してもらい、ともに喜んだり、嘆いたり、怒ったりしてほしい。

その文章を読むことで、読者に動いて欲しいからこそ文章を書くのだ。

文章を書くことは、他者を動かさんとする”力の行使”なのである。

古賀史健(著)20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社 e-SHINSHO)2012 p.99

力を行使するのに、物陰に隠れてこそこそしていても、誰にも届かない。
自身の「伝えたいこと」をハッキリさせ、”主張”して初めて、その文章は力の行使となり、人を動かすための武器となる。

もちろん、大いなる力には大いなる責任が伴う。
その行為は、反発を伴うものかもしれない。
だが、反発を恐れるくらいであれば、初めから文章など書かないことだ。


長さから見て、ここで終わってもいいのですが、論理展開のお話続くので、もう少し続けたいと思います。
ただ、今日はここまで。続きはまた後日。


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