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原則と基盤第一巻 えばっち血涙記 ー極私的前進友の会の原則と基盤ー 【原則と基盤 行動と信頼 利用と注意】 【自信と未来 自立と補足】 

原則と基盤第一巻
えばっち血涙記
ー極私的前進友の会の原則と基盤ー
【原則と基盤 行動と信頼 利用と注意】
【自信と未来 自立と補足】
 
                                    
原則その一
 十全会のような病院を決して許さない。
 十全会のような病院とは、電気ショックで殺し、大量薬物投与で殺し、四肢拘束で殺し、保護室で殺し、閉鎖病棟で殺し、看護士の暴力で殺し、金儲けのために殺し、土地転がしのために殺す、そのような病院である。
 十全会のような病院とは、およそ、日本国中のすべての精神病院であり、例外は、いまのところ、皆無である。ジョウキョウは絶望的であり、壊滅的である。「よりマシな精神病院」「よりマシな施設」「よりマシなグループホーム」などというモノは、無い。「あり得る」と想い行動した結果は、すべて、失敗に終わった、今のところは。
 「同志」と想い行動した『改革派医療従事者』なるものには、裏切られて終わった。それが、厳然たる事実である。この苦い苦いゲンジツは、現在の我らキチガイのおかれている現状そのものである。
 よって、原点、「十全会のような病院」を我々は、けっして、許さないし、許せもできない。三十一年かけて、結局は、この事実は変わらなかったし変える必要もない。
「十全会病院」を許さないとは「北山病院」許さず、なかんずく「岩倉病院」を許さないと云うことである。もちろんのこと、肥前も、松籟荘も。許せるわきゃなかろうがや・・・・
 いや、さも、「良心的なる精神医療」があるかのような錯覚と幻想をふりまいた「見えにくいアクジのハンニン」たちをノサバラセてしまったが故に、事態は、より、深刻さを増した。この深刻さは、今後も続く。しかも、ヤツ等は、この深刻さに全く無自覚である。
 
原則その二
 なかまをけっして、見捨てない。なかまをけっして入院させない。あらゆるすべての精神病院、あらゆるすべての施設から、なかまを、必ず、生きて奪還、退院させる。
 我々は、友の会の一員を、けっして、見捨てない。けっして、入院させたままには、しておかない。絶対にしない。
 たとえ、それが、福知山であろうが、宇治であろうが、厚木であろうが、信州であろうが、名古屋であろうが、地獄の一丁目であろうが、我々は、みんなの部屋へ、なかまを奪還するためなら、ドコへでも、行き、ナンデもする。
 ナンデものなかには、当然違法行為、テロ行為、脱走の手引き、精神医をはじめとする精神医療業の従業員本人並びに家族への脅迫暗殺テロ、保護室鉄格子の爆破、閉鎖病棟での暴動、精神病院へのカチコミ焼き討ち、福祉事務所へのクソのバラ撒きダンジコミ、役所へのスワリコミ爆破等々、を含む。当たり前である。
 我々は、なかまに対する、精神医療業者、福祉業者からの、仕打ち、虐待、サベツ、コロシを絶対に、許さない。必ず、仕返しし、復讐し、落とし前をつけさせて貰う。覚えておけ、「業者」ども「病院」ども。脅えるがいい、キーサン患者会をなめるんじゃねえぞ。
 
原則その三
  だからこそ、われわれは、おのおのが意識して、自分自身の病状を崩さないよう心がけ、そして、なかまにできるだけシンパイをかけぬように想いやって、一人一人が、誇りを持って人生の最後までを生き抜く。それを病者として自立するという。だから、こそ、なかま同志が、支え合ってセーカツするのであって、それを『キーサン人生』という。『ナカマが自立する』『支え合って生きる』とは、同義語である。
 ナカマ同志が、気をつけ在って、「飯喰ったか」「寝れたか」「休めてるか」「クソはしてるか」「クスリはおうとるか」とお互いに、声を掛け合って生きるのである。そして自分自らがまず自身に声掛け、そして心掛け、気をつけるのである。そこに、医療従業員や福祉従業員の入る余地はない。我々は『自立』し『支え合って』生きているのである。
 
原則その四
我々は「群れ」た、その「群れ」を患者会という。「群れ」るのはキライダなどという、恰好つけは、キチガイの真の絶望も真の哀しみも真の苦悩も真の差別も精神医療の真の恐怖を知らない、お気楽なミナサンである。ニクマンあり、喧嘩あり、コロシあり、出て行け、出て行く、もう、近づきたくない、関わりたくない、ここへ来るな、シネ、余計グアイ悪うなった、自分の団地には来て欲しくない、距離をとりたい、顔も見たくない、それでも、我々は「群れ」るしかなかったのだ。その「群れ」をキーサン患者会と言うだけのハナシである。
 
基盤その一
 以上の原則を追求するためには、このみんなの部屋という『セーカツの場』を維持しなければならない。『この場』が無くなれば、退院できなくなる。そして、もちろんのこと、入院せざるを得ないなかまが、増えるのである。もしかすると、全員、入院入所せざるを得なくなるかもしれない。ココみんなの部屋は、セーカツの基盤である。
 我々は、イキツヅケ、セーカツしつづけ、そしてみんなの部屋を維持し続けなればならない。そのために、必要なことは、ナンデもする。このナンデもの中には、どのような悪法であれ、その法に適合するように、形態を変えることまでも含まれる。哀しいゲンジツである。ただし、ドクを喰らっても、サラまでは喰らわない。況んやドンブリなんか、喰らわない。
 
基盤その二
 以上は、キーサンの『セーカツと想い』から、生まれた。リクツが、先にあったのではない。地を這いずるような、ココのまさに、ココの、キーサンの『セーカツと想い』から、生まれた。セーカツのないところに、ウンドーはあり得ない。苦しさを、シンドさを、恐怖の想いを、悔しい想いを、絶望を、希望を、喜びを、笑いを、やすらぎを、信頼を共有しているセーカツこそが、想いこそが、始まりであり、出発であり、すべてであり、αでありΩである。すべての、およそすべての基盤である。
 
行動その一
 ゲンジツのセーカツと行動で、キーサンが生きていく上で、原則と基盤が、矛盾することもある。原則二を力みすぎて基盤その一が、おろそかになりそうになったり、原則一に力がはいりすぎたりして、基盤その二を見失いそうになるかもしれない。原則その三すらも。
 その時は、みんなの部屋のなかまたちの話し合いと世論とミーティングが、軌道修正を必ずかけてくれる。なかまを、なかまが作り上げるみんなの部屋の、文章化言語化できない世論を信頼すべきである。ミーティングと、みんなの部屋の世論と想いにに、想いを致せ。なにかあったら、ミーテイングであり、みんなの部屋の世論である。
 
行動その二
 こうして、「めしを一緒に喰おう」「ミーティングをしよう」「夏レクをやろう」「反社会復帰」「働かない権利」「支え合って生きる」「わしらは病者や」「ほなカチコミやな」というセーカツと理念と行動をクルシミぬいて生んだ。そして、それは、ほぼ確実に、『正解』であった。このまま、『前進』すべきである。
 
行動その三
 すると、自然に、ウンドー上の手段が、シンポジストになる、議員と話す、学会役員になる、情報屋になるといったことではなく、「カチコミ」になる。道具は、ネットや会議室ではなく、おひつや茶碗やポータブルトイレとなってくる。だから自動的に、「学会」「翼賛病者運動ボス」「作業所」「ディケア」「ACT」「全国組織ナンタラドウタラ」等々クソのようなシロモノと、「患者会」のチガイが、出てくるのである。自然にそうなる。チガイは、リクツからこない。自然に、こうやって、うみだされる。
 決定的なチガイは、そのまま、行動のチガイに、あらわれる。精神病者の『自立』と『誇り』を生み出していくのか、削いでいくのかが、チガイとなる。
 
信頼その一
 「一緒に飯を喰い」「一緒にクソをし」「一緒にレクをし」「一緒にドロをかぶり」「一緒に矢弾の下をくぐり」「一緒に泣き笑った」ナカマだけを信じよ。十年前、一緒にやったなぁーーーでは、二十年前同志やったなぁぁーーでは、だめである、去年、今年、そして、来年一緒にやろうとするナカマだけを信じよ。精神医を精神病院を施設を医療従業員を、間違っても信頼したり、友人とカンチガイしたり、恩人などと想うな。
 そんなものは、幻想である。ヤツ等はただの『業者』である。しかも『悪徳』な。
 
信頼その二
 全国の、数少ない、「一緒に飯を喰い」「一緒にクソをし」「一緒にレクをし」「一緒にドロをかぶり」「一緒に矢弾の下をくぐり」「一緒に泣き笑った」セーカツをともにしている、キーサンなかま、キーサン患者会、キーサントモダチ、そして、患者会と一緒にやり続けたキーサン医者とゴキブリ従事者だけしか、信じられるものはない。
 これだけが『最後の砦』である。最後の信頼できる、最も大切な、かけがえのない『砦』である。『相互に砦』になる『この砦』だけを信頼せよ。
 
信頼その三
 もしも、信頼に足る病院、施設、グループホーム、福祉業者、精神医療業者、精神医、医療従事者等々が、欲しければ、自らが育て、自らが鍛え、自らがつくるしかない。創っていくしかないのだ。可能性を模索せよ。ただし、過大な期待はいだかないこと。裏切られる覚悟をもつこと。裏切りのシンパイをいつも、していること。裏切られても、泣かないこと。
 もし、ヤツ等から、土下座シテモ、患者会に学びたいと云ってきたら、受け入れても良いが、ソレニシテモ、期待は抱かないこと。
 『ムダな事をする』意味は、『開拓していく』意味は、アルかもしれない。大きいかもしれない。が、三十一年かけて、我々は、ついに、それに、失敗したというゲンジツから、出発すること。だから、やってはいけないことをハッキリさせて、取り組むこと。
 「ヤツ等に最低限のシゴトをさせること」「ヤツ等を思い上がらせないこと」「ヤツ等をいい気にさせないこと」「ヤツ等に世話になったとか、恩人だとか、よくやっているとかの、錯覚や幻想を、間違っても持たないこと、言わないこと」「ヤツ等を信頼しないこと」「ヤツ等を徹底的に鍛えること」「ヤツ等を徹底的に鍛え直すこと」「ヤツ等を甘やかすな」
 甘やかすと、却って、アイツ等ミョーな「自信」と「傲慢さ」を身につけやがる。
 
利用その一
 だから、イマのトコロ、それでも、『比較のモンダイ』だけで、精神病院はじめ、医療とか、福祉とか、生保とか、年金とか、介護事業とか、自立支援とか、エラそうに云うて、それで、正規雇用で年収200万もある給料貰って、家建てて、子供を大学にやってるヤツ等を、仕方なく利用しているだけであって、それ以上のモノではないことを、肝に銘じなければならない。
 ナサケナいはなしである。何時か、こんなヤツ等と、付き合わなくて済むようになるんだという希望を持つべきであって、「良心的精神医療業者」「良心的福祉業者」などというものがあるという希望は持つべきではない。所詮ヤツ等は「業者」である。だから、仕方なく、嫌々ながら、シブシブ利用するだけであって、ヤツ等を儲けさせてヤッテイルだけである。に、しても、我々はヤツ等の「飯の種」ではない。
 もし「飯の種」として儲けさせてヤッテイルからには、徹底的に、積極的にトコトン利用すべきである。特にこれからは介護は必要である。これは、これからのイキヌクための『闘い』となるであろう。介護保険一単位十円で、毎月、十万、二十万、三十万と儲けさせ、ディケア保険点数七百点で、ちょっと行っただけで、毎日七千円も儲けさせてやっているのである。診察室で、三分もハナシせず、「毒」をたんまり出して、三千点四千点、三万四万円と、転がり込んでくるのが、業者である。
 
利用その二
 やすらぎの里の「健常者アルバイトスタッフ」は「健常者アルバイトスタッフドレイ制」のもとに『ドレイ』とされるべきものであって、けっして「良心的先生」にしてはならない。「健常者常勤スタッフ」は「健常者常勤スタッフホウコウ人制」のもとに『ホウコウ人』とされるべきものであって、けっして「良心的先生」にしてはならない。クロウの末ナカマが奪い取ってきたカネでヤッテいるのである。奪い取るときのクロウを忘れるな。
 ただし、なんと、この二者は、患者会の「なかま」として遇され、また、ほんとうに「なかま」になることも出来る存在である。期待していいが、裏切られることも覚悟すべきである。裏切られても泣くな。
 実のところ、患者会は、キチガイだけでは、成立し得ない。ゲンジツである。患者会にキチガイと狂気と「健常者」は、絶対的に必要なものである。「健常者」が、ドレイのカタチで、入らないカギリ、患者会は成立し得ないものなのである。この矛盾と絶望。
 ちなみに、「ヴォランティア」なるものはあり得ない。ただし、「遊びに来る」なら、誰であれ、歓迎である。
 
注意その一
 『マジメ』と『チャランポラン』な精神医療業者の従業員、どちらも、壊滅的被害を被ることになる。『チャランポラン』より『マジメ』がもたらす、被害に注意を要する。逆のような気がするのは、錯覚である。もちろん『見えやすいアクジのハンニン』『見えにくいアクジのハンニン』にも、同じ注意が必要である。どちらも、同じく壊滅的であるが、どちらかといえば、『見えにくいアクジのハンニン』の方が壊滅的で悪質である。逆のような気がするのは、錯覚である。
 たとえば、不毛ではあるが、加藤医師と辻医師との比較、もしくは、田原医師と上野医師と岡江医師と山上晧医師と赤木理事長をくらべてみよ。どういうのが、より『悪疾』か、判断に悩むヒツヨウはない。
 或いは加藤医師と今井CPの共通項を考えてみよ。コイツ等「バケモノ」である。マジメでよくやり、評判も良く、己れの専門性に誇りを持って、職務の遂行と『患者さんや家族の役にたつ』として励むのである。特に、医師に対抗して己のが専門性を重要視するマジメなコ・メディカルほど、一見利用しやすいように想えるが、実は、壊滅的被害をもたらすのである。注意せよ。
 心離職、作業療法士、ソーシャルワーカー、コイツ等にシゴトをさせなければならないが、シゴトをミョーにする精神医療業の従業員に注意せよ。コイツ等のさもわかったかのような、さもキーサンの味方かのような甘言に注意せよ。「国家資格」と「先生」が増えて増えて、しかも、ナニカやれば、一点十円の健康保険、一単位十円の介護保険で、ボロモウケしよる。「先生、先生」と崇められ、「助かりました」と、喜ばれ、ちょっと意見すれば、激怒してケツをまくるとは、コイツ等、キモチのワルい悪疾極まりないヤツ等である。注意せよ、注意せよ注意せよ、注意して、利用せよ。
 
注意その二
 「訪問看護」「往診」「ヘルパー」を利用しても、信頼するな。特に、注意が必要である。ヤツ等は、キーサンを助けるフリして、もちろん、そのために利用するのであるが、その一方で、「ヘルパー」「訪問看護」は、我々の「病状」なるものの「チクリ屋」であることに、注意を要す。
 「往診」という名で、むりやり、精神病院に拉致監禁されるのである。「往診」を利用するには、ヤツ等の「往診」の本質を注意して考えよ。「往診」の本質とは、自宅に、やおら土足で駆け上がり、白い袋を頭から被せ、四、五人がかりで、タックルして押し倒して、注射し、「収容所」に連れて行く“ナチ”同様の、拉致監禁実行部隊だ、ということである。
 コイツ等、“ナチ”か“ケンペー隊”と、同じや。「病状」なるものの「密告者」である。クスリを増やされるシンパイをしたほうがよい。「訪問看護」「往診」「ヘルパー」などで、セーカツを助けて貰っているなどとは、口が裂けても言ってはならないし、想う必要もない。「往診」の本質は病者に対する拉致監禁暴行実行部隊の別名であり、「ヘルパー」「訪問看護」とは「病状」なるものの「チクリ屋」「密告屋」の別名に他ならない。もちろん、ACTも、同じく、である。どころか、その本質を究極まで高めた保安監視網及び拉致監禁実働部隊の別名である。『あめ玉』などという、「アマイ」ものなのではない。注意に注意、注意して利用せよ。
 ヤツ等は、“ナチ”か“ケンペー隊”である。そういった本質を本人達も『忘れた』かのように振る舞うこと自体、『悪疾』の極みであり、キーサンは、おさおさ、注意を怠ってはならないのである。
 考えてもみよ、己れが“ナチ”の手先であることを『忘れて』『マジメ』に任務を果たそうとする精神医療業の従業員が、ナニをモタラスカを。
 
自信その一
 病者に「精神病」を自覚するように促すことが出来るのは精神医療業者や精神医などではない、それは「なかま」だけが出来ることである。病者にクスリを飲むように、説得することが出来るのは、精神医などという精神医療業者や福祉業者の従業員ではない、それは、「なかま」だけが出来ることである。病者が、ナニかで、アレて、アバレているのを説得し、或いは、万やむを得なく押さえこむことが出来るのは、、精神医療業者や福祉業者の従業員ではない、それは、「なかま」だけが出来ることである。況んや警備業の従業員やケーサツや「包括的暴力防止プログラム」なんていうものではない。そもそも、してはならない。もし、オマイ等がしたら、必ず億倍返しの「仕返し」してやる。
 病者に退院をしようよと、説得することが出来るのは、精神医療業者や福祉業者の従業員ではない、それは、「なかま」だけが出来ることである。況んや「カウンセラー」などというバカ者に出来るわけがない。病者が、「自分をコロス」か「誰かをコロス」かを決意したとき、それを止めることが出来るのは唯一「なかま」だけである。家族にも、それは、止められない。況んやディケアスタッフなどという精神医療業者や福祉業者の従業員や「ACTスタッフ」などというアホンダラどもに出来るわけがない。
 万が一、ほんとに万が一、『万やむを得なく一時しのぎでも、泣く泣く』病者を入院するよう説得できるのは、唯一「なかま」だけである。家族にも、それは、出来ない。してはいけない。況んや精神医療業者やワーカーなどという福祉業者の従業員や「カウンセラー」などというアホンダラどもに出来るわけがない。保健所やケーサツなどが、絡んでくるのは、論外である。
 こういうことが、出来うるのは、セーカツと想いを共にしている「なかま」だけであって、ワシ等は自信と誇りとをもって、精神医療業者、福祉業者、行政司法立法業者、警察検察警備業者を絶対的に排除すべきである。
 
自信その二
 「精神医療業従業員(特に精神医)」「精神福祉業従業員」を育て、鍛え上げられるのは「患者会」のみである。
 
自信その三
 「原則」、「基盤」、「行動」、「信頼」、「利用」、「注意」、「自信」は、相互に、矛盾をはらんでいる。スッキリとしたものではない、それは、スバラシイことである。「矛盾」し「スッキリしてない」ことは、スバラシイことである。スッキリした方向性こそ、ワシ等の生きる道を閉ざそうと、するモノであることを知るべきである。
 スッキリした「方針」や「答え」は「リヨウ」されるだけである。
 「矛盾」して、グチャグチャ、ドロドロの中にこそ、ヨレヨレ、ボロボロの中にこそ、キーサン患者会の本質と、希望がある。キーサンの「狂気」そのものが、「矛盾」しグチャグチャ、ドロドロ、ヨレヨレ、ボロボロだからである。「スッキリ」「アンゼン」な「市民社会」からのはみ出しモノであることに、自信と誇りをもつべきである。
 
自信その四
 矛盾していることを畏れることはない。そして、ナカマ同志のニクマンも、バクハツも、妬み嫉み恨みも、暴力ザタが暴言が絶えざるコトも、畏れることはナニもないのだ。それが、「ニクシミノオシクラマンジュウ」と云う我等キーサンのセーカツそのモノではないか。これほど濃厚な、暴力も、妬みも、矛盾も、喜も怒も哀も楽も、友情も、満杯であることに、自信をもつべきである。「矛盾」と「分裂」そして「暴力」こそは、我らが人生、我らが友である。「連帯」や「統一」や「近代」や「合理」そして「安心」「安全」とは、敵対するのである。我々キーサンのアタマとココロとカラダとが、まさにイキザマこそが、分裂と矛盾に充ち満ちているのであって、そこから、カチコミや、叛乱や、謀反が、造反が、矛盾が、分裂が、暴力がキチガイ有象無象ゾウリムシのように、わき上がってくるのである。ありがたいことである。
 
未来その一
 以上、「原則」、「基盤」、「行動」、「信頼」、「注意」、「自信」を基礎にして、今後また、三十年間患者会を続けられる、『展開』を模索せよ。それは、第三世代に担われることになる。
 ただし、あわてるな。新しい法律に、あわてて合わせるな。合わせても、それは、シブシブであり、如何なる新法にも、適合するのは出来るだけ引き延ばせ。如何なる国家資格も、あえて、取得するな。取得しても、最低限度で、しかも引き延ばせ。
 当然、厚生省、学会の提起するモノには、すべて反対せよ。そのうえで、あらたな『展開』をめざさなければならない。「基盤」を保持し「原則」を守ってイキヌクためである。
 第三世代の未来は、ツラく、クルシいものになるであろう。
 
未来その二
 うまくは、いかなくなり、ついに【その時】がきたら、実際【その時】はいずれくるかもしれない、最後に守るべきは、ナカマのイノチである。もし、【その時】がきたら、「原則」、「行動」、「基盤」、「自信」、「注意」、「信頼」、を、その順に、一旦、棚上げし、封じ、「利用」を使い倒して豚になっても【その時】生存中のナカマのイノチを守れ。
 
未来その三
 歴史に遺せ。歴史を改竄させるな。記録を、あかしを遺すこと、改竄させないよう遺すこと。未来に、つながる可能性を遺せ。ありとあらゆる機会を通じ、記録を遺せ。改竄させるな。その記録は、単なる記録ではない、我々がイキヌいたあかしであり、未来に遺す『時限装置付爆裂弾』である。
 
未来その四
 我々が、失うモノは、余り多くはない。実際『正気』すら失っているのである。ありがたいことである。しかし、『キーサン人生』を生き抜けば、それに反して、得るモノは大きい。得られるモノ、それは、「なかま」である。誇りをもって、『キーサン人生』を生き抜けば、全国に「なかま」を得られるであろう。我々の未来は明るく、希望に満ち、そして絶望的である。
 
 
自立その一
       『自立』、ちゅうのはなぁ、キーサン人生をイキヌクことや。
                   キチガイであろうがなかろうが、
                   カタワであろうがなかろうが、
                   チエオクレであろうがなかろうが、
               ボケロウジンであろうがなかろうが、
                   私は、人間として、人として、
                   尊ばれ、だから、他人も尊び
                   尊敬され、だから、他人も尊敬し
                   尊重され、だから、他人も尊重し
             意見を聞いて貰え、だから、他人の意見も聞き
         頼られることもあり、だから、他人を頼ることもあり
         支えることもあり、だから、支えられることもあり、
                   ともかく、頭を垂れることなく、
   シッカリと、頭を上げ、胸をはって、尊厳を持ち、希望を持って、
             人生の最後の時まで、生きていけることを
             自立する、と云い、自立した人間というんや。
     こうした生き方を、自立した生き方を妨げることを、『サベツ』というや
                          もっと、いやぁ、
       自分はタイシタコトの無いどうでもいい人間やと想い、
 他人もタイシタコトの無いどうでもいい人間やと想ったときに、自立を失うんや。
         意識的にも、無意識的にも、こう、想わせるように、
               し向けることを『サベツ』と云うんや。
                         わかったか。
     鈍感な、デリカシーのない、腐った精神医、医療業者や福祉業者には、
         こうでも、わかりやすう云わんと、嘘でも云わんと
       自立した人間とはなにか、尊厳アル人生とはナニカを、
                   ワカランのやろ、オマイ等には。
                   ワカランとは、ナサケナイ。
 
自立その二
 ワし等は、患者会としてイキツヅケル、そのために必要なカネ、モノ、人手を奪い取ってくるんじゃ。その奪い取るカネやモノや人手を、オマイ等が、医療とか、福祉とか、生保とか、年金とか、介護事業とか、自立支援とか、法律とか、制度とか、言うとるだけじゃ。オマエ等そう云うて、それで口すぎ、世すぎしてるんるんなら、ワシ等に必要なモノを、ちゃっちゃっと、寄越せや。それがオマイ等のシゴトじゃ。エラそうなこと抜かすな。いい給料貰いやがって。
 それで「みなさんの手助けシマス」「ナニカできるようになっていただくのが自立です」「私たちは、コレだけ精神医として医療従事者として頑張ってきましたよ」とか抜かして『サベツ』してんじゃねえぞ。ジャマすんじゃねえぞ。ゴチャゴチャ抜かさんとシゴトせぇや、ばかたれが。「イイ事してる」ツモリになってやがるから、余計にシマツが、ワルイのんじゃ、アホンダラが。
 
補足その一
 これでも、初歩の初歩の初歩や、わしの考えてる本質的な自立した人間とはなにか、尊厳アル人生とはナニカなんて、オマイ等には、レベルが高すぎて、いや、ヒクすぎて、ワカリモせんわ。ばからしい。こんなことは、オマイ等相手にするときだけの方便じゃ。嘘も、方便とは、よう言うたモンじゃ。
 じっさい、ヒクいんやほんと。コレを行き着くところまで行って、ついには、「全否定」せざるを得なくなったときに、ワカル、いや、カンジラレルだろさ。
 実はな、そんなモノはない、ないんや。そんなモノは過去も、イマも、未来もナイ、いや、あってもらっても、困るんや。アルとして幻想を蒔き散らしやがったのは、近代と、人権と、議会と、適正手続きや。アルとしておかな、近代社会なりたたへん。そんなモンをアルとして嘘つくから「テロリスト」がうまれ、一方で、アリもしないものをニコニコして、銃剣とともに押しつけてくるから、これまた「テロリスト」がうまれるんや。「テロリスト」は、なぜうまれるのか、どうしてでてくるのか。ワカランのか、オマイ等には。
 クルマに乗って、新幹線乗って、たらふく喰って、パソコンつこうて、蛇口ひねったら、水でてくるセーカツしてるえばっちが、言うことじゃないんや、こんなことは。
 
補足その二
 わしは、「テロリスト」やない、「テロリスト」に狙われる側や。ヤツ等、オマイ等のような心根が、ココロの奥底に、例え、0.1パーセントでもあったら、感染するペストつくってバラまいたる。いったい、誰が無事に過ごせるか、楽しみなこっちゃ。オマエ等みんな感染して、のたうち回って、死にやガレ。おおかたの精神医療業者福祉業者製薬業者ゼンメツするやろ。ゼンメツしてもらわな困る、だから、念のためや、例えたとえ0.01パーセントでも、心根が、そうやったら、感染するようなペストにするんや。
 そしたら、わしも、感染して、死ぬやろ、オマイ等と、一緒にな。。。。。。。。
                                                                           以上

     2007年11月3日起稿し加筆訂正を繰り返し、
2009年5月30日になっても、脱稿できないでいる。
おそらくは、永遠に、完成できないであろう。
前進友の会やすらぎの里作業所 キーサン革命の鬼えばっち 江端一起
  

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