生活する沖縄 #6|低空の凧、 ロードサイド。
視界がブラックアウトする寸前まで自分を追い込んだ。
いつもの公園。いつもの鬼ごっこ。
冬休み中の子どもたちはなんの引き換えもなしに、そのエネルギーを20倍くらいにして襲いかかってくる。ルールもよくわからないまま知らない遊びに招待されては、最速で負けた。
近くでは二つの凧が丘の斜面を低空飛行していて、
お年玉で買ったであろう新品の自転車と、新品のキックスケーターが行き交う。それを追いかけるのは、数年後にそのお下がりをもらうことになる弟たちだろうか。
小さな島の小さな街で、ありふれた小さなお正月を過ごした。
沖縄に限った話ではないけれど、
沖縄では、観光地としての街、住むための機能を備えた街の2種類に、
よりはっきりと分類されている。
今僕が拠点としているのは、住むための街だから、
沖縄と聞いて思い浮かぶような景色ではないはず。
車を20分も走らせれば、開発前の里山や勾配のある道、古くから残る店々があって、完全に一緒ということではないけれど、
都心から離れた国道沿いは、たとえ海によって隔てられていたとしても、その景色は複製のようにそっくりだ。
ダイソー、GUの路面店、ホームセンター、スターバックス、すき家、元々ハローマックだった建物を再利用した何か、山岡家、パチンコ、快活クラブ、唐揚げかなんかの専門店、洋服の青山、マクドナルド、二階建てのファミレスなど
上に挙げただけで大体網羅できてるんじゃないかと錯覚してしまうくらいに、とにかくバリエーションが少ない。
沖縄も、若干のローカルスーパーはあれど、前述の通り。
ここは春日部だ、ここは館林だと言われても、なんか、そういやそうかも。
複製された街は、付近の人が最低限に生活するための、ある種正解の形なんだろうと思う。
ただそこに住む少なくない人たちに話を聞くと、
点々と置かれる必要なお店たちの周回に飽きてきてしまって、何かが起きないかなって少しの期待を抱えて生きているものだから、きっと生活の最低限を下回っている街並みなのかもしれない。
新しい店ができてもちょっとばかりそのテイストに違いがあるだけでそこに可能性はなくて、果たして人生とか生活とかってやつは、どの店を選択しどの商品を購入するのかってことで完結してしまうのか、という得体の知れない檻に入れられたような不安も同時に抱え込んでいるみたいで。
だからこそ、
何屋さんかわからないお店とか、
いろんな人たちが集まって有機的な繋がりを持って帰っていく場所とか、
そういう代名詞の存在しないその土地固有の空間が多くある場所が魅力的に見えて、人が集まっていく。
そこに人が集まると、どうして人が集まったのかを知らないままで、たくさん人がいるからといって、また複製の街を作ろうと躍起になって……
こんなサイクルを嫌というほど目にするから、多分今、世界は少しずつ間違っているし、そんな世界の中で、自分の場所を隙間を縫って見つけていきたい。
年明け、
いつものリサイクルショップに行くと値段のない品物がたくさんあって、
店のおじちゃんにその場で値段を思いついてもらった。
思わず全部買ってしまった。
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