10/16 自分のこと褒めてなかった
朝の仕事を終えて、家に変えると、だるくて寒くて眠かった。
対照的なあっこは元気で、ルンルンしていた。
珍しく別行動。
あっこは買い物に。
俺は、寝た。
起きると、頭が痛かった。
すっきりする予定だったので、予想外だった。
ホリスティックな観点からは、頭が痛いのは自分のことを卑下したり、自分のことを責めるような思考で頭がいっぱいな状態なのだという。
自分で思いを巡らせてみるがピンとこない。
あっこが帰ってきている音がしたので、体を起こして、階下へ。
頭が痛いのは、なんか心あたりがあるのかと問われたけど、よくわからない。
突然、
「ねえ、もっと、甘えたかった?」
言われた途端に後頭部の辺りで何かが溶けていくのを感じる。
しかし、十分甘えているし、この期に及んでまだ甘えるとかありえない!という思考が瞬時に湧いてくる。
これだ。自分を卑下しているものの正体。
たくさんしてもらっていると感じているが、それと同等、それ以上に相手に返していると思っていない。何か平等なほど力になっていると思っていないのだ。
たくさんしてもらっている、助けてもらっている。
そう感じていたことに気づいた。
事実は何か?
あっこは、いつも、たくさん助けられていると俺にいっている。
俺がいるから続けられていること、楽しめること、幸せを感じることがたくさんあるのだという。
そんなの当たり前じゃないかと、どこかでいつも跳ね除けていた。
だって自分は自然に過ごしていただけだから。
なにも特別な努力をしていないし、大変さを感じることをしていない。
そんなの誰でもできることだと受け取らずにいたのだ。
ただ自分でいることで、幸せを感じ合えていたのに。
そんなに簡単で、都合の良いことなんてあるのだろうか。
そんなことを幸せと読んで良いのだろうか。
いろんな思考が湧いてくるけど、何度思い返しても”そう”なのだ。
もう、これは幸せの不労所得と名付けよう。
また頭が痛くなったときに思い出そう。
そして、ちゃんとその所得を受け取り、循環させよう。
では、これまで本当になんの努力もしてこなかったかといったらそんなことはないのだ。
自覚のない自分の感情と向き合い
伝わらない言語能力にほとほと呆れながら諦めずに伝え続けてきた。
何度喧嘩しようと、逃げ出すことはなかった。
殺意が湧くほどむかついたり、いらだったりすることもあったけれど、その度に相手のせいにしながらも、自分と向き合ってきた。
その希望に向けた忍耐の末にあったのが今日なのだ。
今日の自分にとっては自然にできているだけで、少し前の自分が喉から手が出るほど欲しかったものが手に入っていて、普通になっているのだ。
もっと自分を褒めていい。
もっと自分の価値を認めていい。
ピカソの30秒という話がある。
市場で30秒で書いた絵に100万ドルをつけたというもの。
「30秒で書いた絵に100万ドルは高すぎる」と依頼したご婦人から返事がきたそうな。
それに対して、「いいえ、30秒ではありません。私は、これまでに30年もの研鑽を積んできました。だから、この絵を描くのにかかった時間は、30年と30秒なのです」と答えたという。(実際にはピカソではないらしい)
今日の気づきは、まさに、そんなことなのだと思う。
今の自分は、過去の自分の集大成だ。
いつまでも卑下し続けることもできるし、自分のことを認めることだってできる。
過大も過小もせず、自分の価値を見出すことは、より健康で、幸せで、誰かの役に立つ自分の礎となるだろう。
面白いくらい頭がすっきりして、食欲も出てきた。
今日もいい1日だった。
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