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特別じゃない自分だからできること

 すごく良い、斬新だと感じることを発見する。
 思いついたその瞬間は興奮しているのだけど、案外それは真新しいことではない。

 本を読んだり、noteをやったりしていると、本当に痛感する。同じようなことを書いている人はたくさんいるのだ。自分の記事にスキしてくれる人は特に似たようなことを感じているからこそ、気に入って読んでくれているはずだ。

 ああ、僕は本当に凡庸な人間なんだ、とその度に確認する。そして、「ちぇっ」と誰にともなく舌打ちしている。これは僕だけのものだと思っていたのにな。

 心のどこかで、特別でありたい、と囁く声がある。
「特別とはなにか?」また「そもそも1人1人別個の人間だからなにもしなくても特別だ」という議論はあるだろうけれど、定義や存在論の話をしたいわけではなくて、まだ誰も出会ったことのない風景に出会うということにわくわくするから特別に触れてみたい。

 もし斬新なことをしたいなら、凡庸な自分が考える真逆なことをすればいいじゃないかと思う人もいるけれど、実はそれはあまり意味のないことだ。
 表がダメなら裏。その発想は一見有効に思えるけれど、裏返してみたところでコインであることには変わりはないのだ。そもそもの思考の枠組みが一緒である以上、生み出されるものはそう大して変わりはない。
 異質であるということは枠の外にあるものだと僕は思っている。

特別じゃないから口を噤むのか

 自分の平凡さを感じた時にいつも頭をよぎるのは、「だったら書かなくてもいい」ということだ。他の人が表してくれるのならば、わざわざ僕でなくてもいい。
 誰かの紡ぐ文章に頷いて、共感していればいい。

 けれど、一拍遅れて否定の声が響く。

 本当にそれでいいだろうか?
 他ならぬ僕が、そしてあなたが伝えたいことではないだろうか?
 だったら、たとえ一字一句違わぬことだろうと、自分が言葉にしなければならない。そうしなければ、誰かの言葉に一時しぼむことはあってもその欲求が無くなることはないだろう。

 自分の言葉で語り、自分自身を満たしていく。それを繰り返していった先にもしかしたら誰も辿り着いたことのない特別に出会えるかもしれない。
 だから、立ち止まって口ごもらずに、今日も自分の思うことを書き続ける。


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