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連続性と習慣からの離脱

「らくだメソッド」という、算数プリントをやっています。1日1枚のプリントをやるという簡単なようで難しいものに取り組み、その中で感じたこと、考えたことを3ヶ月ごとに振り返る試みをしています。
 これはその2年6ヶ月の振り返りです。

150日の連続記録

 2年半が過ぎた。年明けから宣言した150日連続記録はありがたいことに続いている。
 相変わらず、無理をしている感覚はない。淡々とやり続けている。

 ふと気になって調べてみたら、高校のプリントに取り組み始めたのが2017年4月27日からなので、既に1年以上高校1年生の単元に取り組んでいる計算になる。その事実を知って、驚いた。知らぬ間に時間は経つものだ。

 先日、あまりにもわからなさ過ぎて、「答えを全部写しながらやる」という体験を初めてした。
 その時の罪悪感たるやなかった。久々に強烈な自己否定の言葉が浮かんできた。

 僕はこれだけやっていても、まだまだ善悪の概念が抜け落ちていないのだ。
 その事実に一通りがっかりした後で、奇妙な嬉しさがこみ上げてきた。
 終わりはない。そして、自分の限界はもっと先にあることがわかるから。

 以前ならば、歯痒さや苛立ち止まりだった。
 けれど、今はその先へ一歩踏み込むことができるようになった。そこにどんな違いが生まれたからだろう?
 不思議だけれど、別に無理してわかろうとしなくてもいいのかもしれない。時がくれば自ずと自分の中で腑に落ちるだろう。

 ここ3ヶ月でのキーワードは「連続性」と「習慣からの離脱」である。

連続性と納得感

 僕は納得することにこだわってきたように思う。
 納得できなければ飲み込めない。次へのアクションが起こせない。だから、エラーが起こるとパニックになって思考停止してしまう。そうやって生きてきた。

 けれど、その思考プロセスは生物的というよりも機械的だ。ちょっと心臓の調子がおかしくなったから止待ってしまうようでは生物は生きていけない。不具合も抱え込みながら、その過程で治したり、折り合いをつけて生きていく。それが生物的なあり方だ。

 納得することは必ずしも必要だろうか?
 そんな問いを自分に投げかけてみたら、納得感が自分の変容のボトルネックになっている可能性について気づいた。

 納得できるとはつまり、既にある自分の文脈の中で物事の筋道が立てられることだと思う。もっとシンプルにいえば、違和感がないこと。だから、喉につっかえることもなく飲み込めるのだ。
 けれど、裏を返せば自分の文脈にないものはいつまで経っても受け入れることができないということだ。「新しい(わからない)ものは捨て去られていく」ということではないだろうか?
 本来、型にはまらないユニークなものと出会ったとしても、ケーキの型よろしく自分の枠組みの中に押し込んで、整形してしまう。それを取り込んでいったとしても、大事な独自性は既に失われているのだ。

 そして、その納得感の黒幕にいるのは過去と未来の連続性なのだ。
 昔はこうだったから、次もこうなる。似たような前例のないものは、納得できない。「自分らしく」や「本当の自分」などと過ぎ去った時を絶対視しながら物事を測っている。今と昔は条件も状況も違うはずなのに「いま、ここ」で起こっていることを見ようとすらしない。

 そうした連続性のある世界に自分は縛られている。どうしようもなくぬるく、如何ともしがたいほど色褪せていて新鮮味がない。

 例えば、この振り返りを書いている最中は130日を過ぎているのだけど、僕は現在150日連続でできることを信じて疑ってない。「天変地異が起きない限りきっとできるだろう」と思っている。その根拠にあるのはこれまで130日やってきた事実だ。
 だけど、本当のところはわからないのだ。シンプルに明日忘れてしまうかもしれない。

 けれど、連続性の世界ではそれが否定される。
 もう訪れることのない過去と、決してやってこない未来にいつまで縋っているのだろう?

 納得を求めている限りはそこから抜け出すことはできない。その法則に従属しているしかない。
「私はこういう人間だから」の檻に自ら入って鍵を閉めてしまう。そうして周りを見回して、「みんなそうだから、これは必要なんだ」と納得させる。

糸を解くパラダイムシフト

 人間を一本の糸に例えてみよう。
 生まれたての赤ちゃんはどこにもひねくれたところのない一本の糸だ。ただ、年月を重ねて知識と経験を手に入れることによって人間はだんだん複雑になって絡まっていく。20を超える頃には大なり小なりひねくれて、こじらせて、マリモのような1つの塊になっている。
 しかし、そうなるとだんだん心身に不調を抱えるようになってきて、これはいかんと解こうと試みるようになる。やれジムに通ったり、食生活を見直したり。
 ただ、1つの結び目を解こうとしても上手くいかないのが現実だ。なぜなら、その前後もたくさんの玉ができていて、全体を見通さなければ手の打ちようがないからだ。
 だから、1つ1つ順番に解いていくので人が変容するには時間がかかる。

 連続性の世界ではその理屈がまかり通る。
 けれど、本当にそれしか道はないか?
 もっと簡単な方法があるじゃないか。不要な部分を切り離して、新しく買った糸を繋げれば簡単だ。

 発想の転換やパラダイムシフトとはそういうものなのだ。自らの中に根を張ったロジックも頭を悩ませていた問題もひとしく駆逐して、あっという間に世界を一変させる。

 時折とんでもなく身軽な人がいて、その人達はいともたやすく他人が押しつける常識すら突っぱねて変わっていく。
 進歩ではなく革新を起こそうとするならば、それくらいでなければならない。いま自分のいる世界に目を向け、そしてその外に意識を投げ、飛び出さねば始まらない。だからこそ、「いま、ここ」に集中するのだ。

 善悪も繋がりもない自由の世界で、踊り、舞う。いまこの瞬間の僕はさっきまでの僕を踏襲しなくていいのだ。
 自分の言った言葉をひっくり返し、信念も捻じ曲げる。僕はなんにだってなれる。天才にだって、愚か者だってなれる。それはとても素敵で、自由なことじゃないか。
 ただ、同時にそれはとても不安定でもある。幸福感も不快感も一瞬後にはなくなってしまうかもしれない。そこを抜ければ別世界が広がっているとわかっても、恐怖の伴うことだ。

 現に僕は恐ろしい。
 今、直面している1つの課題。

「習慣からの離脱」

 連続性のない世界では、僕が大切にしてきた習慣すらも役に立たなくなるということだ。
 4月までの僕はらくだメソッドを朝起きてすぐにやることで、ペースを保ってきたといっても過言ではない。
 習慣はとても楽だ。半ば自動的に身体が動いてくれる。
 しかし、習慣もいわば連続性のなせる業だ。

 朝やらなければできない、では不自由なのだ。
 いつやってもいい、になりたい。

 寺子屋塾には「擬似空間を設けない」というルールがある。
 それはつまり、学習目的だけの特殊な環境をつくってしまうと、その特殊な環境内ではできるけれ ど、その場以外ではできないということが起きてしまいがちで、学習環境を現場や日常の実践と結びついたものとしていく姿勢が大事だということだ。
それと同じで、朝できなければプリントに取り組めないようではまだまだ習慣に依存しているだけ だ。そして、続ければ続けるほど、見えない部分が出てきてしまう。だから、習慣が身についたら今 度は習慣を手放すことが必要になってくるのだ。
習慣によって、元々は見えなかった自分の癖やあり方が現れてくる。そして、わざわざ炙り出した それをゴミ箱に捨てていく。つまり、「できない→習慣→いま、ここ」の道筋を辿ろうとしている。

 過去と未来に縛られた檻はシェルターのようなものだ。安心・安全は保証されている。ただ、決して居心地は良くない。
 習慣によって築いた空間は自分でしつらえたデザイナーズマンションだ。それはとても心地良い。けれど、その麻薬にも似た心地良さが僕達をひきこもりにさせてしまう。もちろんそこを拠点にすることは構わない。
 しかし、名残惜しく感じた時こそ離れてみる価値がある。そうすることで、得られる学びは多い。外に出て世界を見てみよう。美しさも醜さもあるかもしれないけれど、新鮮な風景が広がっているに違いない。

まとめ

 最後に、プリントを終えた後で毎回書いているメモ書きの中でもめぼしいもの挙げておこうと思う。

4/15 高-73(12分?)19:02②
途中で薄々これ間違ってるよね? と思いながらもそのまま解答を書いていた。間違いだとわかっているのに、進めてしまうことって現実でもあるよね。そこに対して、どう折り合いをつけて修正できるかが大事だと思っている。その時、僕は修正することを望むのだろうか? それともミスをないものとしてそのまま突き進むのだろうか?
4/19 高-75(15?分)27:06⑤
初めてやるプリントだからミスは当たり前。だけど、最後の問題で全体に対して2をかけるということができなかったのには個人的に驚いた。小難しいことばかり考えていると、簡単なことを見落としてしまう典型。だけど、じゃあどうしたらそうした見落としを少なくなるのだろう?
4/22 高-76(12?分)12:10②
「次のプリントだ。難易度が上がるぞ」と構えて取り組んでいると、自分の中で実際以上に難易度を引き上げてしまうことがある。本当はシンプルなのに、それすらも難しく捉えたり、「公式に当てはまらないぞ!」とヒステリックになって混乱する。しかもそれが無意識下で起こっているから手に負えない。できるだけ構えないこと。無形でどんな形でもそれに自分を添わせていく。というか、自分も相手も関係なく沿わせる。

 4月後半は仕事やWSと重なっていたのだけど、体験が重ねれば考える機会にもなった。その時期のことが今回の振り返りの核となっている。

 5月に入ってから、プリントを朝やらない日も増えた。昼や夜にやることもある。それでも続けられている。
 あってもなくてもいい。それはとてもあやふやなようで、固着せず揺れ動きながら絶妙なバランスを取っていくことであり、それが「いま、ここ」であるのかもしれない。
 確かなことはなにもないから、言い切ることはできないけれど。

 3ヶ月後の僕は、自分で書いた文章を否定できるだろうか?
 それができるくらいであってほしいと祈っている。

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