正しさを論じない
僕達は日々なにかを感じていて、言葉でそれを表現しようとする。そして、時に他者と対話するのだけど、意見の正しさを主張し始めると、なんだかおかしくなってしまうのかもしれない。
僕はらくだメソッドという算数・数学のプリントをやっている。今やっているプリントの中で何度やっても間違えてしまう問題があった。
解答を見た上で、「どうしてもこれはおかしい!」と思ってしまう。自分の答えこそが正しくて、模範解答が間違っていると決めつけてしまっていた。
だから、同じ問題を同じ間違え方をしていた。それはある種の意地であり、反抗だった。
けれど今日、気づいてしまった。自分が見落としていた情報があることに。それがあれば、確かに解答が正しいことになる。
その瞬間に、ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。自分以外だれもいなかったのに、猛烈に恥ずかしくなって隠れたくなった。
こういうことは日常場面でしばしばあるだろう。
「自分の正しさ」に盲目になって、冷静に物事が判断できなくて、周囲から見れば自ら泥沼に突っ込んでいくようなことがだ。
それは意見の内容ではなく、意見の正しさを考え始めると起こるのかもしれない。
「私は〇〇の理由からこういう意見だ」
「私の意見は〇〇だから、正しい」
両者は似ているようで違う。なぜなら、前者は自分の意見を述べているのに対して、後者は意見の正しさを述べている。
前者は同じ理由から別の答えを導き出すこともできるし、まったく別の意見を提示できる状態だ。しかし、後者の場合、「正しいか否か」が論点になってしまう。
1つの意見に焦点を当てて、他の視点を挟む余地がなくなり、対立を生んでしまう。意思決定の最終段階においては必要なことであるけれど、それ以外の場合はさほど重要ではない。
SNSで時折バトルが始まるのは、きっとこういう状況なのではないだろうか。
だれがなにを思うのかは勝手なのに、そこに「正しいか否か」を発言者か受信者のどちらかが持ち込んでしまう。そうしてついた火が一気に燃え上がる。
自分が正しいと思うことは持っていていい。でも、それを押し通す必要はないし、せめて違っている可能性をまず考えてからでも遅くない。
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