別の言い方すると、なんだっけ?
以前から苦手にしていることがあって、入力した情報の構造を変えることがなかなかできない。たとえば、聞いた言葉を要約して書いたり、文字を図にしてみたりという行為が壊滅的だった。
グラレコの練習を始めた理由の1つにはそれができるようになりたいという理由もあります。ただ、訓練の繰り返しで少しずつできるようになってきました。
その過程で明らかになってきたのは、変えられるということは、それがわかっているということです。
「意味を把握できる」と「それが実現できる」とはまったく別物です。「うつ」の漢字を読むことはできても、書けないみたいなことです。しかし、それがわかっていない人がなんと多いことか。なぜなら書こうとしないから。
人体に関する知識をどれだけ仕入れたいたとしても、手術ができるわけじゃありません。だから、必ずお医者さんも研修をします。
やってみて、身体を通して、始めてわかる領域があるのですが、それを疎かにしてしまう。だから、講演を聞いて満足してしまう。「勉強になった」という魔法の言葉を唱えれば、罪悪感を薄めてくれます。
本当にわかっているかどうかを確認するためには、物事の構造を変換することに挑戦してみればいいと思うようになりました。
すると「わかっていないこと」だけでなく、「無意識的にわかっていたこと」も明らかになります。
別の形態に翻訳したり、広げてみることを訓練してみる。
たとえば、自分の記憶を言語化してみる(体験→言語)。それだけでも、それが一体どのような意味を持つのかがわかってきます。人に話を聞いてもらうとスッキリするのには、自分の感じていたことを言葉で表現できた、できたという喜びもあると思います。
子どもにもわかるように言えれば、わかっていると言っていいでしょう。
その情報の核と付属品を、部品ごとに分解できる証拠ですから。
同じことをもう一度言ってみる
「自分の言葉で語りたい」という人がいます。
他人事のように書いているけど、僕もその1人です。
けれど、それは裏返せば日常の中で、まだまだ他者の言葉を借りている証拠だと思います。
だれかの言葉を引用して、「私もそう思う」と同意する。それは簡単なんですけど、たとえ同じでももう一度言ってみてはどうでしょう?
口にしてみると、意外と同じじゃないですよ。
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