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肩書のない「わたし」はなにを考えているか

 あなたはどんな肩書きを持っているでしょうか?
 学生、社会人、親、子どもetc...。名刺の記載するような役職から性別まで大なり小なり肩書を持っているでしょう。よく使うものから、普段意識しないものまで様々です。

 そうした肩書の総体として、1人の人間がいると僕は思います。けれど、そうした肩書に埋もれてしまってまっさらな「わたし」は自分自身でもわからなくなってしまっているような気がします。

 僕は人の話を聴くのが好きです。インタビューゲームをしている時も聞き手をしている時が一番楽しいです。そして、話を聴いている中でも生々しいものに触れた時にドキドキします。ではその生々しさとはなにかを考えると、肩書を取っ払った個人として言葉だと思っています。

 意外と普段の会話というのは「学生から見た社会」「上司から見た平社員」などとポジショントークになりがちです。
 だから主語の前にはいつも省略された言葉が潜んでいます。「(〇〇な)わたしはこう思う」
 矛盾しているようですが、現実としてそれらの肩書を全て取っ払うことはできないでしょう。なぜなら、立場や属性もその人を構成するものだからです。

 ただ、話をしていると稀にそうした肩書が薄まる瞬間があります。「〇〇なわたし」ではなく、ただの「わたし」が主語になるのです。裏付けも保証もないけれど、相手の本心が詰まっている感覚があって、その後に続く言葉が僕にはとても刺さります。

 そういう個人としての人間に触れたくて、僕はコミュニケーションというものを学び、実践しています。だから、別にプレゼンが上手いわけでも、カウンセリングができるわけでもありません。

 ただ、やっぱりそういうことを聴く人が必要だと僕は感じています。
 残念ながら「根拠はないけどわたしはこう思う」を安心して語れることは少ないです。言葉を発すると、どこかでだれかの正解と不正解のフィルターにかけられてしまいます。

 しかし、その人がそう思っているのは紛れもない事実です。だから言ったことを言ったまま受け入れる人がもっといてほしい。

 僕はそんなことを思っています。
 肩書を降ろしたあなたはなにを感じていますか?


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