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高を括るな、源泉はその先だ

 僕が対話をするのは、その人の源泉を知りたいからだな。そう思った。

 対話を通して自分が変化する、アイディアが生まれる、人間関係が深まっていく。そうした様々な効能はあるが、元を辿っていくと求めているのは、その人の存在というか、あり方に僅かでも触れられるからだ。生命のエネルギーの根源みたいなものに触れるとこちらも揺さぶられる感覚があるのだ。

 簡単に繋がれる環境が整っているからこそ、僕達は世間体や体裁を意識して、言葉だけでなく、自分の存在すらも、知らず知らずのうちにオブラートを包む必要に迫られている。それは自分自身が文脈を知らない人の目に止まる可能性があり、誤解を生むからだ。

 その人の生の身体から発せられる、濁りのないエネルギーは強烈だ。強いエネルギーはそれだけで、薬にも毒になりえてしまう。だから、薄めて形を変えて、差し障りのないように、他者の目の前に差し出している。

 ただ、やっぱり僕は自分にとって毒になるとしても、存在に触れてみたいのだ。

 対話を重ねていくと、オブラートに包まれた言葉や肩書き、建前がポロポロと剥がれていく。そして、タイミングや関係性などが様々な条件がうまい具合に合致すると、本音がこぼれる。
 それは普段気づいていて隠している本心とかではなく、もっと深いレベルで本人すらも口にして初めてハッとする本音だ。
 そこには、とてつもない力がこもっている。実は言葉の意味そのものはどうでもよくて、言葉の裏にある力こそが重要なのだ。

 本人がどれほどくだらないと思っている人生にも、積み重ねた分の力は溜まっている。どんなに呑気そうでも、やっぱり考えているし、抱えているものがある。

 ただ、本人はその発し方をわかっていないし、周りも気づいていない。いや、それこそ「こいつはなんも考えていない」と高を括ってしまう。僕もその例に漏れない。

 けれど、レッテルを貼った瞬間に扉は閉ざされてしまう。相手の根源に触れる時、自分の根源にも触れている。自分自身もまた開いて、本音を晒していくしかないのだ。

 

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