見出し画像

DARK OCEAN

1

 寒い。波の音が聞こえる。

 目を開けると私はうつ伏せで横たわっている。

 ぽつぽつと針のような雫が、震えている身体に容赦なく刺してくる。

 私はここで何をしているのだろう?

 薄らとした意識の中で、ゆっくりと仰向けになる。どんよりと白々とした空が私を包み込んでいる。空から落ちて来る雫が目の中に入り、瞬きを何度も繰り返す。不規則なリズムで絡み合う波の音を聞きながら、震えている右手で湿っている頬をつねってみる。

 夢じゃないんだ。

 ゆっくりと上半身を起こすと目の前には灰色の大海原が広がっていた。波打ち際に投げ出された足先に、生暖かい水がぶつかり消えていく。

 私はデニムをはいている。白いシャツは汚れていて、濡れて黒いブラが透けている。デニムもシャツも身体にへばりついていて気持ちが悪い。

 ふぅ。ため息をつくと、遠くでカラスの鳴き声がした。

両手で不安定な足場を押し、立とうとするが、腰に力が入らない。何度か尻餅をついては倒れる。遠くでカラスがまるで私を馬鹿にするかのように鳴いている。一度うつ伏せになり両膝を曲げ、体重を後ろに移し両手で強く身体を押し上げる。相変わらず聞こえてくる不規則な波の音の中に、鼓動を感じる。

 

 私は生きている。

 

ふらふらと歩き出すと、海沿いの道路に車が走っていた。遠くで鳴いていたカラスの声が近くに聞こえる。どんよりとした空は白さを増し、この見知らぬ土地が目覚めようとしているのを感じる。

 私はどこに向かって歩いているのだろう?

 自分自身に投げかけられた問いに疑問が生じた時、頭の中でズキッと痛みが走った。急に身体がふわっと宙に浮いたような感覚になり、膝から崩れ落ち、突っ伏して倒れた。目の前が暗闇に覆われ意識が遠のいていく。

 「おねぇ。」

 周りはざわざわという音を徐々に立てながら、新しい日を迎えようとしてい

た。

 2

 今日は何だかイライラする。生理なのもあるけど、いつもに増してだ。コーヒーでも飲もうと、この前買ったタンブラーを持ち給湯室に行こうとすると、本條雪人が出社してきた。

 「おはようございます。」。

 山根沙織は挨拶を交わした。彼は左手を挙げ、忙しそうに前を通り過ぎ、自分のデスクの上に鞄を投げた。

 目くらい合わせろよ。背中を向けて沙織は小声でそう呟き、左手の人差し指と親指の爪で下唇の下をつねった。

「山根!」と彼に呼び止められる。

「今夜19時にチェルシーレコードの高山さん達と会食があるんだが、お前も来ないか?」

「すいません社長。今夜はすでに予定が入っていまして、それと残務整理が手つかずで、またの機会によろしくお願いいたします。」

 彼の顔が曇りかけた時、声には出さず「セ・イ・リ」と告げる。

「わかった。じゃあ杉田でも誘うよ。またな。」

 本條雪人。45歳。上司。恩人。都合の良い恋人。

 チェルシーレコード。確かにお得意様だが、会食なんて滅多にない。表沙汰に出来ない私達のシークレットコードとでも言うのだろうか。彼が私を求めるときの合図だ。

 本條はぶっきらぼうにスケジュール帳を広げ、HBの鉛筆を右手に持ち、予定を確認しているフリをしている。

 残念でした。

私は給湯室でタンブラーに粉末状のコーヒーを入れお湯を注ぐ。

そろそろちゃんとしないとな。

 本條とは付き合って5年になる。


 大学を卒業して就職も決まらないでいた私は、WEBサイトで見つけた今の出版会社のアルバイトとして働いていた。「社員へのチャンスあり」という謳い文句に誘われて、グラフィックデザイナーになる夢を抱いて始めたが、やることといったら事務処理のサポートとお茶汲みだけ。1年経っても想い描いていた仕事はさせてもらえず、不安と不満の日々が続いていた。

 「私もデザインの仕事やらせて頂けませんか?作品もいくつかあって、お時間ある時にでも…。」と、その時の社長に何度か掛け合ってみたことがあった。

「もう少し待ちなさい。出来る時はやってくるから。」決まって返事はそうだった。私の作品を見たこともないのに。社長は優しかったけど、アルバイトで働いている私になんか興味はないのだろう。

ここに居ても夢は叶わないし、別の場所を探そうとしていた矢先だった。

 社長が自殺した。

 いつも乗る電車が来る直前にホームから飛び降り、線路に首をのせた。

即死だった。

 その日会社ではいつもの時間に来ない社長のことなど気にもせず、それぞれが黙々と仕事をしていた。

 空気が凍りついたのは、私がとった一本の電話からだった。

「D・Wパブリッシャーズさんですか?」

「はい、担当の山根が承り…」

「世田谷の成城警察だけど、おたくの中山健さん、社長さん?さっきね、駅のホームに飛び降り自殺したのよ。」

「…」

「中山さんの実家の連絡先とかわかりますかね?至急身元確認して欲しいんですよ。」

 私は言葉を失っていた。

「もしもし?もしもし?」喧々とした声が耳に障る。

「少々お待ちください。」

 電話をベテラン経理の斎藤さんに繋ぐ。いつも面倒くさそうな斎藤さんの顔が一気に青ざめる。

「社長…」


 中山社長の通夜も葬式も誰も立ち会うことはできなかった。それはそうだ。顔はグチャグチャになって、首から下の身体しかないのだから。

 社長の葬式の日、無性に飲みたくなって、会社帰りに近くのBARに立ち寄った。

「いらっしゃいませ。カウンターにどうぞ」

 いかにもゲイっぽいマスターが優しい声で誘う。

「お荷物はそちらの籠に入れてくださいね。うちはサービスチャージが300円頂いておりまして、ビールが600円、カクテルは800円から。その他ワインやシャンパンなどもご用意しております。まずは何になさいますか?」

「生ビールください。」

「かしこまりました。」マスターは手際良く冷蔵庫からビアグラスを取り出し丁寧にビールを注ぐ。

「お待たせしました。ごゆっくり。」

 ビールを右手に持ち、中山社長のことを思い出す。心なしかビールが苦く感じる。洒落た店内を包んでいるけだるい女性ボーカルの歌を聴きながら目を閉じた。

「いらっしゃいませー。あらまー、お久しぶり。」

どうやら本日2人目の客が来たらしい。

「生。」

「かしこまりました。」

 その男は私の隣に座った。ん?

「本條さん!」

 彼は目も合わせず出されたビールを一気に飲み干した。

「おかわり。」お通しのプレッツルをボリボリと齧りながら、

「一人で中山さんの弔いか?」と、私に話しかけて来た。

「お疲れ様です。私アルバイトの…」

「山根だろ?」

「は、はい」

「お待たせしました。」本條は二杯目のビールも勢いよく飲み始めた。


 本條は社内でも一番のデザイナーで、全てのプロジェクトのディレクションを手掛ける唯一無二の存在だった。彼ほどの才能があれば、有名な広告代理店でも働けただろうに。

 大して有名でもないこの会社を選んだのは、きっと何か理由があるのだろう。

「中山さんがいたから、今の自分がいる。」

「え?」

「中山さんが俺の才能を買ってくれたから、今の仕事につけた。あの人は恩人なんだ。」

 何でも中山さんはその当時大手広告代理店の有名デザイナーで、その業界でも引く手数多の存在だったのだが、自転車操業のように作品を世に送り出しては、その評価も得ないまま次へ次へという会社の方針に辟易し、十年前に

独立して、D・Wパブリッシャーズを設立したらしい。D・Wとは中山さんの実家に咲いていた花水木=DOGWOODから取っていて、自分の会社を設立した時にはと決めていた名前みたいだ。

 途中から飲み始めていた赤ワインのせいもあったが、本條の話は聞いているだけで心地良かった。中山さんがアルバイトをしていた本條の才能を見抜き、機会を与え、グラフィックデザイナーというポジションを手に入れていたことが、今の自分の興味をそそり、今の自分と重ね合わせることができたからだ。

「次何か飲まれますか?」優しいマスターの声が聞こえた時、すでに0時を過ぎていた。

「そろそろ帰るか。」本條は勘定を支払うと、そそくさと店を出てしまった。

「ありがとうございました。また是非いらしてください。」

「ごちそうさまでした。」マスターに一礼して彼の後を追う。

 本條は階下の出口にある壁にもたれ掛かり泣いていた。

「中山さん…何で死んだんだよ。」

 何を言ってあげたらいいものか、酔っぱらっていたし頭がさっぱり回らなかった。まあシラフでも何も言えなかっただろうけど。

 入り口の蛍光灯が消えかかった時、本條が突然唇を重ねてきた。肩をギュッと抱かれ、私は彼の悲しみの中に包まれた。

 頬が濡れている。

 涙の味がする。

 それが始まりだった。


 私は廃墟にいる。東京にいる確信はあるが、暴動が起きた外国の都市のようにビルは崩れ落ち、何かが所々で燃えている。アロハシャツを着たガラの悪い四人組の男達は盗んだ物をカートに乗せ、通りを練り歩き、ワインのボトルを回し飲みしながら大声で騒いでいる。突然路地から顔の見えない女が近づいて来る。急に殺気を感じ、近くの店に逃げ込む。店に入った途端、私はつまずき床に突っ伏した。すると、顔の見えない女が突然私に銃をむける。

「殺さないで!」と叫びたかったが恐怖のあまり声も出ず、ただただ頭を両手で押さえた。その女は容赦なく私の背中に一発撃ち込みそれは胸を通過した。激しい痛みが徐々に襲ってきた矢先、頭を撃たれた。

「イタイ…。」

 私は死んだ。

 死んだ?

 目をゆっくり開けると白い天井と網目の入った肌色のカーテン。左手には点滴が刺さっている。

 病室にいる。今自分が置かれている状況は全く把握できなかったが、あの廃墟に居なくて良かったと胸を撫で下ろした。

「あら、やっと目が覚めたのね。具合はどう?とりあえず体温を計りましょうね。」恰幅のいい看護婦さんは胸元のポケットから体温計を取り出し、手際よく私の左の脇に挿した。それから細い腕時計を見ながら脈を計り、点滴の量を確認し、おでこにふっくらとした温かい手を乗せた。

「うん、熱はもうなさそうね。」ピピッと鳴った体温計を脇から抜いて、シートに書き込んでいる。

「こ…」

ここは?と聞きたかったが、口の中も喉も渇いていて声を出せない。

「喉渇いたでしょ?」と、口をパクパクしている私に水差しで生温い水を飲ませてくれた。

「ここは?」

「九十九里クリニック」

「九十九里?」

「二日前に急患で運ばれて来たのよ。砂浜で倒れていたみたいで、ここに着いた時は全身びしょ濡れでね、服脱がすのも一苦労だったわ。特にあのタイトめのジーパン。昨日まで熱がなかなか下がらなくて。良かったわ、肺炎を拗らせなくて。」

「今日何日ですか?」

「4月2日、火曜日、ただいま9時54分。」

「2日…、やばい、私行かなくちゃ!」

 身体を起こし、左手に刺さっている点滴の針を抜き、肌色のカーテンを開ける。入り口に向かおうとすると、頭が真っ白になって血の気が引き、膝が震え

そのまま床に座り込んだ。看護婦さんは全く動揺せず、横に座り、

「そんなに急いでどこに行くの?そんな格好で外出たら捕まっちゃうよ。」

確かに病院着の下には何も着けていないことを今気づいた。

 看護婦さんは温かい手で私の肩を撫でながら、ゆっくりと上半身を起こしてくれた。

「今日何かあったの?」

「…多分、何か…」その何かが思い出せない。

「元気になるまでもう少し休んでいきなさいよ。こんな身体じゃどこにも行けないでしょ。」私は優しく抱きかかえられ、ベッドに戻る。

「あなたここに運ばれて来た時何も持ってなかったの。ジーパンの中でくしゃくしゃになっていたこれ以外。」水差しの横に置いてあった紙を渡される。


D・Wパブリッシャーズ グラフィックデザイナー 山根沙織

電話番号 03-5389-△△△△


 住所が書いてあると思われる箇所は認識できなかった。

 名刺?山根沙織?誰だこの人?なんでこの名刺を持っていたんだろう?

「お知り合い?」

「さあ…。」看護婦さんは点滴に新しい針をつけ直し、私の左手に挿した。

「あなた名前は?」

「名前は…。」

「どこから来たの?」

「…。」

「出身は?」

「…。」

 看護婦さんの眉間に皺がより始め、目つきが鋭くなる。

「もう少ししたら院長先生の回診があるから、ちゃんと診てもらいましょう。

何かあっったらそこのナースコールのボタンを押して呼んでね。」

 看護婦さんは足早に立ち去り、病室は沈黙に包まれた。点滴が落ちてくる度に左手に冷たさが走る。

 私は誰なんだろう?

思い出そうとしても頭の中がからっぽだ。

どこに行こうとしていたの?

自分が咄嗟に取った行動の意味が良く分からない。

見上げている白い天井が押し寄せて来そうだった。

心臓の鼓動だけが耳に響く。やがてその音は音量を増し、全身を駆け巡る。

私は瞼を閉じその激しい鼓動の海の中に身を投じた。


「はい、ではこの時計で30分後から始めます。それまで各自でウォーミングアップしていてください。それから新しい振付けに入ります。」アシスタントの秋山静香は声を張り上げダンサー達にそう伝えた。

 荒川優は近くのコーヒーショップで買ったアイスコーヒーを飲みながら、これから始まる振付けの振りを確認している。

 ここは目黒川沿いにあるダンススタジオ「Phenix」25年もジャズダンスを中心に続いているこのスタジオは、この業界の中でも老舗だ。90年代のブームが去ってから、紆余曲折あったが、オーナーの「本物を育てたい。」という強い思いが、このスタジオの名前を定着させた。荒川はオープン当初から講師として携わっていて、5月中旬にあるスタジオ主催の25周年記念公演の演出を任されている。出演する20名のダンサー達は今年始めにあったオーディションで勝ち残り、2月初めから連日のようにリハーサルを重ねている。今日は公演のラストを飾る全員で踊るナンバーの振付けだった。

 松永エリカはリュックからタオルを出し、窓際で入念にストレッチを始めた。「Phenix」には8年前から通っていて、発表会にも3回ほど出演している。長年やってはいるものの中々芽が出ず、後輩達が仕事をしたり、本公演に出演していて焦りを感じていた。去年、公演があると知った時から、いつもよりレッスン量を増やし、オーディションに向けて集中してきた。バイトとの両立で何度か身体を壊したこともあったが、なんとか公演出演の切符を勝ち取った。エリカはこの公演に懸けていた。

「さ、始めるぞ!」

 荒川がそう言うと、ダンサー達の緊張感が増し、それぞれの目が鋭くなった。

この作品では絶対センターを取る。

エリカの目つきは変わり、鏡の前の荒川の横を陣取った。


 あのBARにいる。

山根沙織は生ビールを飲み、イベリコ豚とルッコラのサンドウィッチを頬張っている。あの日以来いつの間にか常連になっており、マスターにも良くしてもらっている。相変わらずけだるい女性ボーカルの曲が店内に流れている。

朝からイライラしていたし、あれから取引先からデザインのことで散々言われ、変更するのにかなり手間取り、挙げ句の果てにはナプキンがずれて下着もシミになり、そのシミがパンツにもついて、ユニクロに行って安いパンツを買った。本当なら家に帰って来週から新しく始まるプロジェクトのデザインを考えようとしていたのに、予想外の騒々しい1日に萎えてしまって、ここに来た。唯一の癒しの空間で落ち着きたかったからだ。こんなことなら本條の誘いに乗っておけば良かった。急に彼に甘えたくなった。


 中山社長の死後、会社存続のために奔走したのは本條だった。社長の右腕だった本條は、D・Wパブリッシャーズを引き継いだ。温和な中山社長と打って変わって、厳しいワンマンなやり方について行けず辞めた者も多く、人手不足からの新たなスタートだった。

「大体あいつらには創造性ってものがないんだよ。雑な仕事しやがって。給料もらっていればいいみたいなさあ。デザイナーとしてプライドないのかよ。あー、ムカつく。」彼は酔っぱらって私に愚痴ってきた。二本目の赤ワインを空け、グラスになみなみと注ぐ。

「お前どう思うんだよ?」

「んー、確かに雑だなって思うことある。でも感性の違いだから。」確かに才能のない人は何人かいた。

「本当に感性を磨いて欲しいよ。この仕事はマニュアルから抜け出さないと。創造力が全てなんだから。」

「ねえ、私の作品見てもらえないかな?」

「お前の作品?デザインの作品持っているのか?」

「うん。ダンス関係のチラシやパンフレットだけど。」

「ダンス関係?」

「妹がダンスやってて、予算がないからって私に頼んできたの。」

 ベッドの横にある本棚から自分の作品をまとめたクリアファイルを取り出し彼に見せた。

「作品っていっても3つしかなくて、コンテンポラリーのスタジオパフォーマンスと小劇場のソロダンス公演、ジャズダンススタジオの劇場公演だけなんだけど。」

 気づくと酔っぱらっていた本條の目が鋭くなっていて、食い入るように私の作品を見ている。

「これ、良く出来てるな。」

 褒めてくれたのは、中目黒にある「Phenix」というダンススタジオの「Dark Ocean」という公演のチラシとパンフレットだった。

「ありがとう。それ、私も気に入っていて、演出家が意図していた“漂流者”というキーワードがうまくその写真とリンクできたと思うの。」

「この写真は、実際海で?」

「そう、東金の九十九里浜で。たまたま知り合いが近くに住んでいて、そこに写っているダンサー5人と演出家と私で前の日の夜から泊まらせてもらって、朝4時から撮影したの。」

「良くこの写真撮れたな。」

「たまたま海全体と砂浜が入るやつもお願いしていて。」

「バランスがとてもいい。」

「本当は縦の構図で考えていたから、横にしましたって言ったらカメラマンさんにだいぶ怒られて。だって横の写真は私の意見だったし、数枚しか撮らなかったから。」本條はフッと笑った。

「誰が妹?」

「この前にいて斜め向いているデカいやつ。」

「似てないな。」

「昔から良く言われる。」

「何歳?」

「23歳。」


 あの撮影は本当に楽しかった。前の日からピクニック気分で友達の家に泊まり、朝4時から撮影なのに、1時位まで飲んでいて、2時間の仮眠でダンサー達はメイクをし、衣装を着け砂浜に出向いた。雨がぎりぎりまで降っていて心配だったが、「Dark Ocean」という題名にふさわしく、どんよりとした雲と灰色の海が印象的だった。子供の頃良く行った家の近くの海と似ていて、私も妹もこの場所が大好きだった。


「山根、明日からデザイナーとして働いてみないか?」

「えっ?」

「皆には明日伝える。」本條は時計に目をやり、そそくさと着替えて帰って行った。残った赤ワインのグラスを眺めて、それを一気に飲み干した。いつも感じていた虚しさは払拭され、私は天井を仰ぎ笑っていた。ありがとう、沙百合。


 白い天井を見ている。

時が止まったように、病室の中は何も動かない。

 あれから院長先生の回診を受けた。

「軽度の記憶障害かも知れませんね。高熱も出ていたし、二三日様子を見てみましょう。そしたら記憶も戻ってくるかもしれない。」白髪で髭をはやした初老の院長先生は、穏やかにそう言って病室から立ち去った。

手の温かい恰幅の良い看護婦さんも、「大丈夫よ。」と言って励ましてくれた。

点滴もしなくて良くなり、食事も摂れるようになった。普通の身体に戻って来ているのに、頭の中はからっぽで何もない。そうだ、近い記憶から辿ってみよう。看護婦さん、院長先生、白い天井、肌色のカーテン、点滴、体温計、殺された夢、ジーパン、砂浜、どんよりとした雲、灰色の海、雨。私は海にいたんだ。その前は…その前は…。やはりそこまでしか思い出せない。名刺?水差しの横に置いてあるそれを広げる。

D・Wパブリッシャーズ 山根沙織

唯一の手掛かりはこの人だ。連絡してみようか。でも何て言えばいいのだろう?自分の名前もわからないのに。

「はじめまして。私記憶がなくて連絡したのですが…。」とでも言うのか?

逆に相手に電話を切られそうだ。どうしよう。でも先に進むにはそれしかない。

電話してみよう。

 ベッドから身体を起こし病室を出ようすると看護婦さんが入り口にいた。

「あら、どこかにお出掛け?」

「いや、電話を。」

「院長先生がね、とりあえずMRIをとっておきましょうって。今大丈夫でしょ?」

「は、はい。」握っていた名刺をすばやく棚に戻す。

 

 一階にあるMRI室に入り、看護婦さんの指示に従い病院着を脱ぎ、紙でできているようなガウンに着替える。機械の上に仰向けになり、身体をベルトで固定される。

「二〇分位窮屈な思いをするけど我慢してね。絶対動かないように。大きい音がするから、このヘッドフォンで音楽を聴いていて。」

 機械が動きだし、その中に入っていく。美しいピアノの音色が聴こえてくる。

何故か懐かしさを覚える。

 この曲どこかで…。

ガタン、ガタン。機械の破壊的な大きな音が、一瞬の心地良さを奪う。

 どこかで聴いたことがある。

ガタン、ガタン。

 知っている。私はこの曲を知っている。

記憶が目の前まで来ているのに、なかなか手が届かない。もう少しなのに。

 結局謎が解けないまま二〇分が経過し、機械から解放された。着替えながら漏れた溜息をすぐさま吸い込み深呼吸をすると、虚しさが襲ってきた。

「上に行ったらシャワーでも浴びれば?きっと気分もすっきりするわよ。新しい病院着とバスタオル用意しておくから。」


 白いタイルは冷たく、置いてある物は桶と石鹸だけで殺伐とした空間だった。シャワーを浴びながら、さっき機械の中で聴いた美しいピアノ曲のフレーズを思い出し口ずさむ。石鹸で身体を洗う間しばらくそうしていると、自然とお腹が引き上がり、両腕がしなやかに横に広がり、右足のつま先がまっすぐ伸び、タイルの上で円を描き始めた。身体を翻し、右足を左足の後ろにかけ背中を反る。温かい水が私の胸を打ちつけ、股間の方に激しく流れていく。背中をゆっくりおこす。両手は太腿から腰を触りへその前で交差し、乳房を包み込み、頬を撫で、唇の前で一つになる。頭をゆっくり回す。

蒸気と石鹸の香りが心地良い。

 私は動いている。いや、踊っている。


「エリカ。」荒川は汗をタオルで拭きながら、「今日沙百合はどうした?」と不機嫌そうに言った。

「休憩の時に、気になっていたので何度か連絡したんですけど直留守でした。」

「誰か、自宅の電話番号わかるか?」

「先生、沙百合は自宅の電話持ってないです。」

「あいつ、今がどんな時期かわかってんのかな?無断で休むなんて。」

「わたし今から沙百合の家に行ってみます。」

「大丈夫か?」

「はい、今日はバイトないんで。」

「悪いな。後で連絡もらえるか?」

「わかりました。」

 荒川はスタジオの中にあるオフィスに戻り、公演の舞台スタッフと打ち合わせを始めた。

 

 エリカが更衣室に入ると先輩ダンサーの静香がいた。

「沙百合どうかしたの?」

「いや、連絡つかなくて、これから家に行ってみようかと。」

「そう、何か心配ね。事故とかじゃなければいいけど。」

「そうですよね。」

 静香はコンパクトを取り出し化粧を直し始め、エリカはTシャツを脱ぎ、片手で胸を押さえてブラを取り替えた。あまり今話しかけないで欲しい。と、心の中でそう思った。

「今日のリハ気合い入っていたわね。いつもとは違う気迫を感じたわ。」

「そうですか?」

「良いポジションももらったしね。ある意味沙百合のおかげかしら?」

「そんなこと…。」

「冗談よ。」

 早く静香のそばからいなくなりたかったエリカは、

「お疲れ様でした。」と言って、そそくさと更衣室を出た。


 東横線に乗り学芸大学で降りる。繁華街を抜け、駒沢通り沿いを環七方面に歩く。沙百合のマンションは環七の一つ手前の道を曲がったすぐの所にある。築15年くらいだろうか?三階建ての三階。1Kの部屋には何度か泊まらせてもらったことがある。

 302号室のベルを鳴らす。何度か押すが反応がない。

「まさか…。」最悪の事態を想像し、全身から血の気が引いた。


その日のリハーサルは夕方で終わり、エリカは沙百合を誘って、スタジオ近くの焼鳥屋に来た。二人はビールで乾杯し、頼んだ焼鳥を頬張り、いつものように楽しい会話が弾んだ。

「はー、今日も沢山踊ったからビールがうまいね。」

「至福の時。だから頑張れる。」

「そうそう。そういえば今日の振付難しくない?あれ踊るの大変そう。私は見ていただけだけど。」

「うん。何か身体の使い方が難しい。あと、呼吸で踊らなくちゃいけないから、間を取るのがなかなかできない。」

「いや、沙百合ならきっとできるよ。私はもっと頑張らないと…。あ、お兄さん!ビールもう一杯。」

「エリカ今日ペース早くない?」

「そ、そんなことないよ。喉渇いちゃって。」

 それからエリカはハイボール二杯と酎ハイ一杯、白ワインをボトルで頼み、それも空けそうな勢いだった。徐々に目が据わり沙百合に絡みだした。

「何でアンタばっかり?」

「何が?」

「何でいつもメインになるの?」

「私はただ頑張って踊っているだけ。」

「それだけでいつもセンターで踊れるようになるんだ?」

「…。」

「荒川先生と寝てるんでしょ?」

「何言ってるの!」

「ムキになるのが怪しいなあ。あ、お兄さん!白ワインボトル!」

「エリカ!そろそろペース落としなよ。」

「は?」

「お酒。ちょっと今日は飲み過ぎじゃない?」

「アンタに言われる筋合いはないのよ。」

「知ってるんだから。つーか、皆噂してるし。アンタと荒川先生とのこと。」

「何もないって。」

「見たのよアタシ。二人がもつ鍋屋さんから出てくるの。」

「あれは食事に行っただけ。」

「その後いちゃいちゃしながらタクシーに乗ったでしょ?」

「違う、違う。荒川先生がかなり酔っぱらっていたから、祐天寺で降ろしたの。」

「怪しいもんだ。」と言ってエリカは目を閉じ眠り始めた。

「すいません、さっきオーダーした白ワイン、キャンセルで。」

 まだ店に入って2時間も経ってない。沙百合は会計を済ませ、エリカに声を掛け起こし、店を出た。

 目黒川沿いの桜はすっかり散っていて、人通りもまばらになっていた。

細い路地に差し掛かった時、エリカが沙百合の左頬を思い切りひっぱたいた。

「私は違うの。アンタみたいなアバズレとは。地方から出て来た醜いアヒルの子とは違うの。なんでアタシがアンタのバックで踊らなきゃいけないの?ずっと我慢してきたの、この屈辱を。小さい時からバレエも習って、コンクールにも出たの。JAZZもSTREETも10年以上やってて、毎日毎日レッスンもかかさない。何でまだ中途半端に5年くらいしかやってないアンタがもてはやされて…、どういうこと?世の中不公平よ!男と寝たら主役で踊れるの?ふざけないでよ!このフシダラ女!お前なんかいなくなれ!どっかいっちゃえ!」

 エリカは自分のバッグを沙百合に投げつけた。バッグは沙百合の左手に当たり、化粧品やヘッドフォンが散らばった。

 沙百合はただ立ちすくんで泣いていた。エリカは落ちた物をふらふらになりながら拾い、泣いている沙百合に目もくれず路地から姿を消した。


「お疲れ様です。沙百合、家にいませんでした。」

「そうか。」

「何度もベルを鳴らしたんですが。応答なかったです。」

「困ったな…。沙織ちゃんに連絡してみるか。」

「お姉さんですか?」

「ああ。」

「すいません、お役にたてず。」

「とりあえずご苦労様。また明日な。」

「はい。」

「エリカ。とりあえず明日から沙百合のパートを全て覚えておいてくれ。何かあった場合はお前が踊る。」

「は、はい。」

「よろしく。」

「よろしくお願いします。」

 エリカの鼓動は高鳴った。やっと自分にスポットライトが。今回の公演の主役…。沙百合のことで血の気が引いていたのに、今では彼女が帰って来ないことを心の底から願っていた。チャンスがやってきた。長い間待っていたチャンスが。それも向こうから。誰にも渡さない、このパートは。

 繁華街の街灯とネオンがいっそう輝きを増している。酒と香水の匂いで満たされた満員電車は、野望を乗せて走り出した。


 沙百合は無我夢中で走っていた。涙が止まらない。親友だと思っていたエリカから辛辣なことを言われた。あれは本心だろう。ひどいよ、エリカ。私は荒川先生と寝ていない。先生は踊りを認めてくれているだけ。ただそれだけ。

 気づくと恵比寿に来ていた。まだ帰りたくない。日比谷線の改札を抜け、六本木方面の地下鉄に乗る。端の席に座り、汗で湿ったタオルをリュックから出して涙を拭いた。八丁堀で降り、京葉線の快速に乗り換える。あと1時間ちょっと。私はあの場所に向かっている。


 あの海。

雨上がり、どんよりとした雲と灰色の海。雲間から射す細かい光。

私はあの場所が大好きだった。

 漂流者という設定で、5人のダンサー達は白や生成り、肌色の混じった衣装を着て、海に足だけつけて佇んでみたり、波がくる手前で、まるで海から這い上がってきたようにポーズをしたり、海の方にゆっくり歩いてみたり、砂浜の上で身体を反ってジャンプしたり、朝がくる前の海岸で沢山の撮影をした。

十一月中旬の寒い時期だったが、思いのほか海水も冷たくなく、風はあったが終始動いていたので身体はポカポカしていた。

 撮影が終わったのは、砂浜に犬を連れて散歩している人やランニングしている人達が現れ始めた頃だった。

 どんよりとした雲が斑に発光し、雲間からいくつも光が射込み、灰色の海がキラキラし始めた。

 幼い頃良く行った家の近くの海と似ていた。

 ここにずっといたい。

 私は帰りたくなかった。


 大網に着きタクシーであの海岸まで向かう。胸に突き刺さっている言葉はまだそのままだが、海のことを考えるとその痛みも若干緩和された気になる。いつからエリカは私のことを…。お腹がキリキリする。窓を開け深呼吸をする。四月だというのに風が冷たい。エリカの辛辣な言葉がまた襲ってくる。「アバズレ」「醜いアヒルの子」「フシダラ女」「お前なんかいなくなれ」「どっかいっちゃえ」身体は固くなり頭がクラクラする。あの日の海を記憶の奥から引っ張り出そうとするが、エリカの言葉が前より増してグサグサと胸に刺さってくる。

「お客さん着きましたよ。」

 波の音が聴こえる。料金を支払い、海岸に向かって走り出す。アスファルトを蹴る度に、膝頭が重く感じる。堤防の階段を駆け上がると、目の前に月の明かりに照らされた真っ黒な大海原が出現した。

 両手を大きく広げ、海からやってくる風を身体全体で受け止める。胸に刺さっていた辛辣な言葉の一つ一つが抜き去られていく。砂浜に腰を下ろし、モカシンのシューズを脱ぎ、リュックを置く。しばらく目の前の光景を眺め、荒々しい波の音を聴き、潮の匂いをゆっくりと嗅ぐ。一瞬頭の中がからっぽになり、あの時の記憶が蘇る。


「沙百合!早くしなさい!」

撮影が終わっても、衣装を着たまま海に入り、砂浜に文字を書いて時間を忘れて遊んでいた私をおねぇは叱った。小さい頃から変わらない。

 おねぇは昔から頭が良く成績もいつもトップで、学級委員や生徒会長もしていた。休みになると読書をし、写真を撮りに色々な所に行くのが好きだった。

 私はその逆で、成績が悪い分運動は得意で、中学時代にバレー部にいた頃は県大会で二年連続優勝した。陸上部ではないのに足が速かったから短距離走の試合に出て、入賞したこともあった。高校生の時に地元のスタジオでジャズダンスを始め、ダンスの面白さにのめり込み、卒業してすぐ、当時大学四年生だったおねぇがいた東京のマンションに転がり込み、アルバイトをしながら本格的にダンスのレッスンに打ち込んだ。無我夢中だった。本当は卒業したら小さい頃の夢だった保母さんの資格を取ろうと思っていたのだが…。ただ自分の気持ちの赴くまま踊り続けた。最初はスタジオの発表会に出演するくらいだったが、徐々に実力が認められ、今では業界の仕事もするようになった。

 おねぇは私が出演している発表会や公演は必ず観に来てくれた。終わった後に、キッチンのテーブルでお酒を飲みながら感想を聞く時間がとても好きだった。ダンスのことが1ミリもわからないのに的確なダメだしをしてくれる。たまに口論になったけど、最終的にいつもおねぇの意見が正しかった。

 業界の仕事が増え、アルバイトもしなくて良くなった時、

「沙百合、そろそろ一人になりたいからここを出てって。家でやる仕事一杯あるのよ。」おねぇはグラフィックデザイナーだから確かに忙しかった。私の出たスタジオパフォーマンスや公演のチラシを忙しい中制作してくれて、無理させてしまっていた。何日も寝ないで働いて、かなりプレッシャーをかけてしまっていたと思う。おねぇは完璧主義者だから。感性で動いている私とはわけが違う。

「わかった。」

 それから学芸大学で一人暮らしを始めた。


 月のまわりに星が沢山見える。都内ではこんなには見えないのに。そういえば小さい頃、おねぇと浜辺にこうやって寝そべって一番星を見つけたっけ。あの宇品の海は今頃どんなだろう?

 足元に海水があたる。気づくとモカシンのシューズが目の前に見える。急いで追いかけてシューズを掴む。自分の居た場所に戻ろうとするが、波の引く力が強く先に進めない。足が濡れた砂浜の中に深く沈んでいく。勢い良く右足を抜くが、その力が強すぎて前に突っ伏してしまう。リュックが横を通過する。両手で身体を起こそうとした時、後ろから波が襲いかかってゴロゴロと回転しながら海の中に放り込まれた。私は外に顔を出すが、波は容赦なく上から重なってきて呼吸ができない。海水が口の中に入る。苦しい。やだ、まだ死にたくない。公演で踊るんだから。息ができない。ここを出なきゃ。暗闇の中からエリカの言葉が現れ、コントロールできない自分の身体に突き刺さる。「アバズレ」「醜いアヒルの子」「フシダラ女」「お前なんかいなくなれ」「どっかいっちゃえ」

 私は本当にこのままいなくなってしまうのかもしれない。

「おねぇ…。」

薄れていく意識の中、身体が大きく回転し、海の底に叩きつけられる。

暗黒の世界はとうとう私を支配した。


 その日は朝からバタバタとしていて、私自身取り留めがなかったし、とっちらかっていた。

「あー、自分が二人いれば。」

 デザインを三社分。プレゼン用に用意する何パターンかのデザインを考えるのが至難の業だった。朝までその仕事をしていて、1時間だけでも寝ようと仮眠をとったのだが起きたのがギリギリで、駅まで走り、満員電車では何度も足を踏まれ、階段ではこけ、会社に着くと昨日考えたデザインを本條からダメだしされ、直しをしているとパソコンの調子が悪くなり、業者に電話し修理を頼むことになった。その後、チェルシーレコードからデビューするBANDの宣伝用デザインの件で高山さんと1時間の打ち合わせをし、やっと昼食がとれると思い、近くの喫茶店や定食屋に行くもどこも満員で、コンビニエンスストアでシーチキンと辛子明太子のおにぎりとペットボトルの温かいお茶を買い、近くの公園に行った。

「なんだ、今日は…。」少しだけフッとして、会社に戻った。


「さっき山根さんに連絡あったわよ。ダンススタジオPhenixの荒川さん。そこに連絡先書いておいたから。」お弁当を食べ終わった斎藤さんはそう言って、喫煙所に向かった。

荒川さんか。懐かしいな。


「もしもし、荒川先生。お久しぶりです。」

「沙織ちゃん、久しぶり。元気だった?」

「はい。今日はバタバタしていて、何度も連絡頂いたのにすみません。」

「大丈夫。ところで最近沙百合と連絡取っている?」

「いいえ、最近忙しくて全く。どうかしましたか?」

「昨日、次の公演のリハーサルがあったのに来なくて、連絡もなく。友達のエリカが彼女のマンションに行ったのだけど居なかったみたいで。」

「沙百合が?」

「連絡取れないんだ。」

 荒川との電話を一旦切り、沙百合に電話する。

「お客様のお掛けになった電話番号は現在電源が入っていないか…。」

 何度掛けても同じだった。

 沙百合、こんな忙しい時に何してんだよ。

「何度か掛けたのですが繋がりませんでした。」

「そうか…。心配だな。」

「私これからあの子のマンション行ってきます。」

「何かわかったら連絡もらえる?」

「はい。すみませんご迷惑おかけして。またご連絡させて頂きます。」


「本條さん、二時間ほど外に出て来て良いですか?」

「どうした?もう直し終わったのか?」

「妹が連絡取れなくなってまして、出来れば今、学芸大学のマンションまで様子を見に行きたいのですが。」

「どうしたんだ?」

「私も全くわからないので。」

「直しの資料バックアップとってあるか?」

「は?はい、HARD DISKの中に。」

「置いていけ、直しやっておくから。」

「ありがとうございます。」

 HARD DISKを本條に渡し会社を出る。

とっちらかっていた自分が少しだけ、本條のおかげで整理整頓された。彼はいつも大変な時に手を差し伸べてくれる。ある意味、自殺した中山社長の意思を継いでいると思う。いつだったか彼が話してきた。


「中山さん何で自殺したと思う?」

「離婚して一人暮らししていたっていうのは聞いたことあるけど、それが関係している?」

「少なからず関係ないとは言えないが、それが大きな原因ではないと思う。」

「中山さん、大手広告代理店の有名デザイナーだったっていうのは知っているだろ?」

「うん。」

「意味のあるデザインをしていきたいと、この会社創立してからは社長として仕事を取ってくるのに忙しく奔走していたけど、それが中山さんのやりたいことではなかった。」

「どういうこと?」

「デザインをやり続けたかったんだよ。デザイナーという仕事をね。確かに素晴らしい才能の持ち主だった。保守的じゃなく、良い物は良いとはっきり言う人。だから、駆け出しの自分にチャンスを与えてくれた時は嬉しくてしょうがなかった。人から見返りを求めず、惜しみなく与える理想の上司。忙しくて手が回らない時には、自ら手を貸してくれて本当に助かった。」

「優しいのね。」

「最初のうちはそれで良かった。でも時代とともにデザインのやり方も変化し、特に今は情報量も多く色々なことが早く移り変わってきたから、中山さんのスタイルが古くなってきた。きっとそれを本人も感じていたんだと思う。彼は良く言っていた。引き際が肝心だって。」

「自分のスタイルが古くなったことが原因ってこと?」

「限界を感じていたんだよ。今まで信じてやってきたことが、天から頂いた才能が壊れていく瞬間を目の当たりにし、自分にしか聞こえない音で儚くも無情に崩れ去っていくのを。」

「…。一人でいたから余計にそう思っていたのかしら?」

「それもあると思う。孤独だったんだ。」

「切ないわね。」

「俺の推測だけどな。でも今なら中山さんの気持ちわかる気がするよ。」

「でも私はどんなに古いと言われても自分のスタイルは貫きたいな。」

「要はバランスだよ。」

「バランス?」

「自由な感性と束縛のない世界観との。」


 学芸大学の沙百合のマンションに着き、ベルを何度も鳴らす。応答がない。

「沙百合!いるの?沙百合!」

一階まで降り、ポストの脇に貼ってあった管理会社の電話番号に掛け事情を説明する。保証人だったから話は早く、三十分ほどで社員が鍵を持ってきてくれた。

部屋に入ると、衣服がいくつも床に散らばり、ベッドの上のシーツはグニャリとし、ベランダには洗濯物が干しっぱなしだった。洗濯物を取り込み、散らばっていた服と一緒にたたんで、シーツを直した。

 沙百合どこにいるの?

眼鏡をかけたオタクのような男に鍵を返す。

「もう大丈夫でございますか?何かありましたら何なりとお申し付けくださいね。」男はそういうと一礼し自転車に乗ってそそくさといなくなった。

 私達姉妹にはもう実家がないので全くと言っていいほど手がかりがないし、あてもない。伯母の家が島根にあるが、疎遠だから沙百合がそこに行くことはまずないだろう。警察に連絡すべきか?本條に相談してみよう。そして荒川に連絡し、沙百合がいなったことを伝え駅に戻る。

 年末以来連絡を取っていなかったことを今更後悔した。

 唯一の家族。唯一の妹。

 心配が走り出した電車のように加速している。目に映る空はどんよりとした雲に覆われ、オレンジ色に染まっていた。


10

 「すいません。ここに電話をしたいんですけど、電話貸して頂けますか?」

沙百合は例の名刺を河西さんに見せた。

「どうぞ。私も隣にいていいかしら?」

「はい。お願いします。」


「D・Wパブリッシャーズです。」

「すいません。山根沙織さんいらっしゃいますか?」

「只今外出しております。失礼ですがどちら様ですか?」

「…。」沙百合は言葉につまり電話を切った。心臓がドキドキする。

 河西さんは沙百合の背中を撫でながら、

「山根さんいなかったのね。」と言って、丁寧な口調で電話をしてくれた。

「何か手掛かりになればいいわね。連絡来たらすぐに教えるから。」

 一礼して病室に戻る。

 ベッドに寝転び、白い天井を見ながらあの時に聴いた美しいピアノ曲を頭の中で繰り返す。右手が肘からしなやかに動き始める。

 私は踊っている。


11

「違う!そうじゃない、もっと大きく!もっと音を良く聞け!カウントで踊るな!」

 スタジオでは荒川が檄を飛ばしている。

 松永エリカは沙百合がメインで踊っていた「月光の中の美」というナンバーを覚えていた。

「もう一度頭から。わかるか俺が言っていること?暗闇のなかで輝く月の光に照らされている女神達のイメージだ。お前はメインなんだぞ。絶妙な間と柔らかさとエネルギー、そういうセンスが必要なんだよ。」

「はい…。」

 頭では理解しているが、踊りでそれを表現できない自分に腹が立った。

 確かに沙百合はそれを上手く踊りこなしていた。ましてや外国人のような体型で背丈もあり、パワーもしなやかさも兼ね備えていたので、この主軸の役にはぴったりのキャスティングだった。

 エリカが走りながら出て来て、センターで止まる。両手を上にあげ、指を合わせて胸元に戻すと音が入る。美しいピアノ曲が流れる。

右手を左斜め上に差し、ターンをして左手を右斜めに差して、上半身を勢い良く下げ、ゆっくり起き上がる。男性ダンサーが入って来て固まりになった時、

音が止まった。一瞬皆唖然としたが、荒川が止めたことにすぐ気づいた。

「もういい。」

 苛立ちながら荒川はオフィスのドアをバタンと閉めた。

 スタジオの空気が凍てつき、アシスタントの秋山静香が急いで後を追う。

「私のせいだ…。」エリカは無力さに泣きそうだった。昨日までは自信に溢れていたのに、今日の出来なさ加減はひどい。

 静香がオフィスから出てくる。

「今日は皆さん解散になります。明日もまたこのナンバーから始めるので、各自イメージトレーニングをしておいて欲しいとのことです。この後スタジオでは荒川先生が振付けの制作作業で使うので自主練はできません。では明日もよろしくお願いします。お疲れ様でした。」

 

 帰り道、静香に声を掛けられた。

「エリカ、今日は大変だったわね。」

「いいえ、自分が出来てないので。すみませんでした。」

「あの作品をこなすのは難しいと思う。特にあなたのポジションは。」

「…。」

「どう?念願のセンターを取れた気分は?」

「今はそれどころじゃ。」

「余計なお世話かもしれないけど、これだけは言ってあげる。」

急に静香の顔が真剣になり、エリカの目の奥をじっと見つめる。

「自分でやったことのツケは必ず自分で払うことになる。それは形を変えて突然襲ってきて、あなたをどん底まで突き落とす。誰も助けてはくれない。だから目を覚ましていなさい、その日は必ずやってくるから。」

 エリカは静香から目をそらした。

「私は何も…。」

「いいのよ。じゃあまた明日。」

 静香は足早に駅の人混みの中に姿を消した。

 自分でやったことのツケ。彼女はあの日のことを知っているのだろうか?

いや、そんなはずはない。路地には私達しかいなかったのだから。でももしこのまま沙百合が帰って来なくて自殺でもしてたら…。私のせい?まさか。

私は踊りきるの。どんなことがあっても。

 エリカは身震いする身体を摩りながら、湧き出てくる恐怖心を必死で押さえた。


12

 会社に戻ると何人かのデザイナーが黙々と仕事をしていた。本條も斎藤さんもおらず、デスクの上にHARD DISKとメモ書きが置いてあった。


 九十九里クリニック 河西様より連絡あり

 0475(77)××××


「九十九里?」

 あの時の記憶が蘇る。

「沙百合…。」

 

「はい、こちら九十九里クリニックです。」

「わたくしD・Wパブリッシャーズの山根と申しますが河西さんいらっしゃいますか?ご連絡を頂いたみたいで。」

「少々お待ちください。」

ありきたりの保留のメロディが耳の奥まで響く。

「はい、お電話かわりました。河西です。山根さんね。はじめまして。」

「はじめまして。」

「どうやって説明していいやら。手短に話すわね。四日前に二十代くらいの女の子が運ばれてきたの。全身びしょ濡れでね、意識もなく高熱が二日間続いてた。一昨日意識が戻ったのだけど、どうやら記憶がないみたい。彼女何も持ってなくて、唯一ジーパンのポケットに入っていたのが山根さんの名刺だったので連絡させて頂いたの。」

「その子背は高いですか?」

「たぶん160以上はあるんじゃないかしら。」

「髪はショートカットですか?」

「そうです。」

「笑うとエクボができますか?」

「ごめんなさい、笑ったところまだ見たことないわ。」

「住所教えて頂けますか?」

「千葉県山武郡大網白里町四天木△△△。」

「これから行っても大丈夫ですか?」

「今どちら?」

「東京です。表参道。」

「だったら二時間位かかるわね。面会の時間は過ぎているけど私いますので、着いたらインターフォンで呼んで下さい。」

「ありがとうございます。」

「お心当たりあるのね?」

「はい。」


 半蔵門線で錦糸町に行き、総武線快速君津行きに乗った。

「DARK OCEAN」の打ち合わせで食事に行った時、荒川が撮ってくれた写真を携帯で見ている。お酒を飲んでいたので二人とも薄らと顔が赤く、笑顔でピースしている。東京に来て何年もなるのに、妹と撮った写真はこれが初めてだ。そういえば同じような写真があったはずだ。私が小学生、沙百合が幼稚園。今はない実家の居間で同じようにカメラに向かって笑顔でピースしている。宇品にあったその実家では私が高校を卒業するまで沙百合と同じ部屋だった。だからお互いに良い所も悪い所も理解していた。

 沙百合。何であの海に行ったの?

 

 沙百合は子供の頃から活発でいつも笑顔でいる明るい印象が強かったが、実は不器用で傷つきやすく繊細な性格だった。

 中学時代バレー部にいた時、入部して間もなく選手として抜擢された。本人の運動神経の良さと真剣さがコーチに認められただけなのに、面白く思ってない先輩達のやっかみが強く、毎日家に帰ってきては、部屋で布団に包まり泣いていた。陸上部の短距離走の大会に駆り出された時も同じようなことがあった。

 そんな時、私はいつも沙百合を浜辺に連れ出し星を見た。雨だった時は次の日の朝食前に沙百合を起こし、どんよりとした雲と灰色の海を見ながら、こう言った

「皆あなたのことが羨ましいだけ。自分のやっていることを信じなさい。そんな雑音に耳を傾けていてはダメ!心の赴くままに動きなさい。どんなことがあろうと私はあなたの味方だから。」

 雲間から光が射込み海がキラキラと光り出した。二人ともその景色が大好きだった。


 そして三年間、沙百合はやり遂げ良い結果を残したが、高校に進学した途端やってきたことをぷっつりと辞め、近くにあったダンススタジオでジャズダンスを始めた。


 蘇我から外房線快速に乗り換え大網に到着しタクシーに乗る。

 きっとスタジオで何かあったのだろう。それであの子はあの海に行ったんだ。

 あの思い出の場所へ。


 田んぼの真ん中に九十九里クリニックはあった。タクシーを降り、夜間受付と書いてあるインターフォンを押す。

「はい。」

「すみません、山根と申しますが。」

「あ、山根さん。河西です。今開けますから待っていてください。」

 しばらくすると四十代後半の恰幅のよい優しそうな看護婦さんが出迎えてくれた。名刺を渡し、挨拶をした。

「そうそう、これ。わざわざ遠くまでありがとうございます。どうぞ。」

 薬の匂いのする薄暗い廊下を通り、階段を上る。

「山根さんが彼女の知り合いだといいわねえ。名前がわからないからなんて呼んでいいのか…。困っていたところなの。」

 三階の奥にある病室の扉が開く。

 やはり沙百合だった。

「D・Wパブリッシャーズの山根さん。来てくれたわよ。」

 沙百合は上半身を起こし私に会釈した。

「私のことわからない?」

「…はい。」

「沙百合!」

「?」

「あなたさゆりさんって言うのね。やっぱりお二人は知り合いだったの?」

「妹です。」

「妹?」

「私は姉の沙織です。」

「姉妹?」

「はい。」

 そこにいる沙百合は確かに沙百合だったが、私の知っている沙百合はどこか別の場所にいるような不思議な感覚だった。彼女にとってみたら今の私は赤の他人なのか?妙な焦りを感じ、さっき電車の中で見ていた写真を見せた。

沙百合は目を大きく見開いてまじまじと見ている。

「私?」

「DARK OCEANの打ち合わせの時に食事に行って、荒川先生が撮ってくれたじゃない。覚えてない?」

「ダークオーシャン?」

「そう、あなたが出演したダンスの公演。」

「私…、踊ってた…んですか?」

「何言ってるの?ダンスは高校の時からやっていて今はプロでしょ?」

「凄い!さゆりさんダンサーなのね。」

 携帯から「DARK OCEAN」のチラシの写真を見せる。

「ちょっと小さいけど、一番前にいて斜め向いているのがあなた。撮影ですぐそこの海岸まで来たでしょ?」

「海…。」

「朝四時に衣装来て海岸まで行ったじゃない、前の日大雨だったけど奇跡的に雨上がって…。」

「私…この前ここにいました。」

「一人で来たの?」

「わかりません。」

「スタジオで何かあったの?」

「スタジオ?」

「Phenix。荒川先生の。」

「…。」

「公演あるんでしょ?リハーサルで何かあったの?」

「…。」

沙百合は左手の親指と中指で顳顬を押さえ始めた。

「誰かと喧嘩でもしたの?」

「イタイ。」

「?」

「頭の中がイタイ。」

 河西さんは咄嗟に脈を計り、ベッドの横の棚にある薬と水を渡した。

「さあ、これ飲んでちょっと休みましょう。急に頭を働かせたからびっくりしちゃったのね。」


 沙百合の記憶は戻るのだろうか?

しばらくすると沙百合は寝息をたてて寝てしまった。

「山根さん、向こうでお茶でもしましょう。」

「はい。」


「緑茶とほうじ茶どっちがいい?」

「どちらでも。」

「じゃあほうじ茶にするわね。夜はね、ほうじ茶のほうがホッとするの。」

 急須に入れられた茶葉はいい香りがした。

「さおりってどうゆう字を書くの?」

「さは私と同じさんずいの沙で、ゆりの花の百合です。」

「沙織と沙百合か。何だか素敵な姉妹の名前ね。でもとりあえず身元がわかって良かった。」

「本当にすみませんでした、いろいろと。」

「いいのよ。でもあなた達似てないわね。あなたは華奢だし、沙百合さんは外国人みたいな体型しているし。」

「昔から良く言われます。私は母似で、妹は父似です。」

「ご両親は?」

「もう二人ともいません。母は三年前、父は五年前に他界しました。」

「姉妹で苦労なさっているのね。」

「でもとりあえず二人とも自立できているので。」

「一緒に住んでいるの?」

「今は別々です。」

「良く会っている?」

「お互いに忙しくて、年末に一度会ったくらいです。」

「グラフィックデザイナーとダンサーだものね。私にしてみたら未知の世界だわ。」

 ほうじ茶を啜る。

「あなた今日はどうするの?」

「いや、何も考えてなかったです。」

「あいにく付き添いの方は泊まれないことになっていてね。せっかくここまで来て頂いたのに。」

「大丈夫です。近くにお友達の家があるので、後で連絡してみます。」

「ごめんなさいね。明日また来ることは可能?」

「はい。」

「では、八時三十分に来て頂けるかしら?」

「はい。河西さん、沙百合は?」

「明日院長先生から詳しい説明あると思うけど、解離性健忘の可能性が高いみたい。」

「カイリセイケンボウ?」

「本人にとって耐えられないほど苦しくて嫌な出来事が起こった時や、何か難しい問題に直面した時に自分に関することの記憶を喪失するというものなの。通常では忘れることがない事ってあるでしょ?名前とか年齢とか、あなたと姉妹であることとか、そういうことを忘れてしまうの。気づくと知らない所に来ていたとか、買った覚えのないものが部屋の中にあったりするとか。」

「治療法はないんですか?」

「それがね、微妙な所なの。彼女が体験した苦痛な事を無理に思い出させようとすると、不安や抑うつを感じ自殺してしまう可能性もあるの。だから今は彼女の様子を見ながら治療法を考えなくてはならないの。」

「もしかして今の状態の方が沙百合にとって良い状況だったりするんですか?」

「…。今は何とも言えないわ。」


 私は結局友達には連絡せず、海岸に向かう。

黒く染まった荒々しい海の波の音が絶え間なく襲ってくる。

涙が止まらない。

沙百合、ここに何をしに来たの?

いったい何があったの?


 新たな朝を迎えクリニックに向かう。

結局あれからコンビニエンスストアでタクシーを呼び、大網に戻りファーストフード店で一夜を明かした。コーヒーを飲みながら、これからの沙百合との生活を考えていた。

彼女は記憶を無くしたままダンスを続けることができるのだろうか?

今まであの子が積み上げて来た事が台無しになってしまうことが酷でしょうがない。どんな状況であれ、私が受け入れる。


「とりあえず退院してくれていいですよ。此処に居ても何もする事は無いし。もしかして今までの生活に戻ったら記憶も回復するかも知れません。」

白髪の院長先生は、昨日河西さんが言ってくれたことと同じ事を伝えた後にそう言った。5月にある公演の事を尋ねる。

「出演できる可能性は低いと思うけども、そこの環境に戻ったら何かの手掛かりが見つかるかもね。都内にある病院を紹介しますから、バランス良く様子を見ていってください。」


 退院の手続きをする前にまたタクシーで大網に戻り、ショッピングモールでシャツと下着、スニーカーを購入する。沙百合があの日穿いていたデニムは河西さんが洗濯をしてくれていて、病室のベッドの下のカゴに入っていた。

ATMでお金をおろし、タクシーでクリニックに戻る。

 

 病室に行くと鼻歌が聞こえてくる。仰向けになっている沙百合が天井の方に手を伸ばし、横に広げ、指先を回し、鼻歌に合わせて動いていた。

「沙百合、これに着替えて。帰りましょう。私の所へ。」

 沙百合は動きをピタッと止め、ムクッと起きて病院着を脱ぎ始めた。

 膝や脇腹、肘にいくつもの痣がある。

 ドアがノックされ河西さんが入ってくる。

「山根さん、これ紹介状。何かあったらここに。信頼のおける先生だって院長先生が言っていたわ。」

「ありがとうございます。」

「後、帰ってからで構わないから、保険証のコピーをFAXでいいから送ってくれる。」

「はい。」

「短い間だったけど、何だか不思議な体験をしたわ。沙百合さんが1日も早く踊れるようになったら良いわね。機会があったら観に行くから。連絡してくださいね。」

「はい。本当にお世話になりました。ありがとうございました。」

河西さんはクリニックの玄関先で私達を見送ってくれて、見えなくなるまで手を振り続けてくれた。

 タクシーの中で会社に連絡し、事情を話して休みをもらう。

「沙百合、お腹は?」

「空きました。」

「何食べたい?」

「何でもいいです。」

駅に隣接しているファミリーレストランに入り、沙百合はミートソーススパゲティのセットと私はBLTサンドイッチとコーヒーを頼んだ。

「これからあなたの学芸大学のマンションに保険証と着替えを取りに行く。それから私の所に。」

「はい。」

「そうだ明日会社休みだから、荒川先生のスタジオに行ってみる?」

「スタジオ?」

「そう、あなたがずっと通っているダンススタジオ。」

「行ってみたいです。」

「じゃあ連絡しておく。」

 私は荒川先生にメールを打ち、沙百合は窓の外を眺めている。

何度か見た事あるこの光景。でも彼女には今までの記憶がないのだ。

 しばらくすると料理が運ばれて来た。

サンドイッチを一切れ食べコーヒーを啜る。沙百合は美味しそうにスパゲティを頬張っている。相変わらず美味しそうに食事をする。昔からそうだった。私の知っている妹の姿が目の前にあって、少しホッとした。

しかし、二人で食事をするのはいつ以来だろう?


 学芸大学に着き、マンションの管理会社に連絡をする。

 この前来てくれた眼鏡の男が、また鍵を届けてくれた。

 部屋に入ると、沙百合は物珍しそうに自分が住んでいた場所を眺めている。

「沙百合、とりあえず服と下着と必要な物があったら、そこのキャリーケースの中に入れて。」

「はい。」

 棚の中に保険証とマンションの合鍵を見つけ、バッグにいれる。

沙百合は狭いクローゼットの中から、ブラックジーンズとレギンス2本、長いトレーナーと春物のセーター、黒のパーカー、プラスティックケースの中から下着と靴下を取り出し、丁寧にたたんでからキャリーケースの中に詰め込んだ。

「他に持って行きたい物ある?」

「大丈夫です。」

「じゃあ、行こうか。あ、ちょっと待って。」

 荒川先生からメールの返信があり、電話をする。沙百合の状況を話したら、言葉を失っていたが、快く記憶の回復に協力してくれると言ってくれた。

「明日スタジオに行く事になったから。」

「はい。」

「記憶がないってことは荒川先生と私達だけの内に留めておくことにしたの。

だから皆に話しかけられても、笑顔で対応して。いかにも知っているように。不自然かもしれないけど、よろしくね。聞いてる?」

「あの、これ持っていってもいいですか?」

 沙百合が持っていたのは「DARK OCEAN」のパンフレットだった。

「いいわよ。うちにもあると思うけど。」

「これ、この前みせてくれた写真ですよね?」

「そうよ、あなたが出演したダンス公演の。」

「ダンス…。」

 沙百合はまじまじとそれを見ている。


 あの海の前に沙百合がいる。

 あの海…。

 あの海が沙百合を呑み込んだ。

 きっと彼女の記憶はあの灰色の海の奥底に沈んでいる。

 手の届かない深い深い場所に。


13

 翌日スタジオに行くと二〇人位のダンサー達が激しく踊っていた。それぞれが鏡と真剣に向き合っていて、私達が入って来たのも気づかない。汗の匂いと湿気がその熱気を感じさせる。沙百合は瞬きもせず彼らを凝視していた。

「一〇分休憩!」荒川がそう言うと、彼らはやっと私達のことに気づき集まって来た。皆口々に「沙百合!」「心配したよ!」「大丈夫?」と温かく声を掛けてくれた。沙百合は若干不自然ではあったが、愛想笑いをしながら余計なことは一切話さず挨拶を交わしている。すると突然、

「沙百合!あー、良かった!」と、華奢な子が沙百合に抱きついて来た。

「本当に心配したよ、でも無事で良かった!嬉しいよ。」 

 女が手を握った瞬間、沙百合の目つきが変わり、その手を振りほどいた。

数秒間、沙百合は女を睨みつけ、右手で頭を押さえ始めた。

「イタイ。」

沙百合が取った行動に些か懐かしさを覚えた。あの目つき。あの手を振り払う感じ。嫌なものを目の前にするとよくやっていた。

「オフィスで少し休みなさい。まだ本調子じゃないんだろう。」

荒川が咄嗟にフォローしてくれて、沙百合の肩を抱き、オフィスに連れて行ってくれた。

「あの華奢な子は誰ですか?」

「松永エリカ。沙百合の友達で今は彼女の代わりに踊っている。」

「松永エリカ…。公演出ていました?」

「「DARK OCEAN」はオーディションに落ちて出ていないんだ。」

「…。」

「皆、次は二幕の頭からやるから、そろそろ準備して!」秋山静香が声を張る。

 私がオフィスから出てくると、ダンサー達はそれぞれにそれぞれのことを仕始めていた。

静香が声を掛けて来た。「DARK OCEAN」の撮影にいた先輩ダンサーだ。

「お久しぶりです。」

「すみません、沙百合がご迷惑かけて。」

「いえいえ、とにかく無事で良かった。ところで公演は出れそう?」

「いや、それは…。」

「そう、早く良くなるといいわね。」

 私が口籠ったのを察したみたいだ。

「公演のリハの最中はね、皆、特に気が立っていて、仲が良さそうに見えても腹の中では何を考えているかわからないことが多いの。沙百合は皆に認められている良いダンサーだけど、それを面白く思わない子達もいるわ。私達の世界のそういうドロドロした陰湿な所が彼女の精神的な部分を傷つけてしまったという気がして…。でも早く沙百合のダンスが見たい。今回素敵なナンバーがあってね、「月光の中の美」。沙百合がメインで踊っていたのよ。今は違う子が…。私は奇跡を信じたいけど。」

 目配せをして静香はバーに足を乗せストレッチを始めた。

 奇跡があるなら私もそれを信じたい。


 二幕のリハーサルが始まった。

沙百合も落ち着き、スタジオの後ろにある椅子に二人で座る。

荒川は鏡の前に座り、机の上にあるノートに何か書き込んでいる。

 躍動的なナンバーが何曲か続き、スタジオがまた熱気に包まれてきた。

 松永エリカが走りながら出て来て、センターで止まる。両手を上にあげ、指を合わせて胸元に戻すと音が入る。美しいピアノ曲だ。

右手を左斜め上に差し、ターンをして左手を右斜めに差して、上半身を勢い良く下げ、ゆっくり起き上がる。男性ダンサーが入って来て固まりになった時、エリカの動きがぎこちなく見えた。きっとこれが静香の言っていた沙百合がメインで踊ることになっていたナンバーだろう。

 エリカが正面を向いて手を伸ばした時、隣で気配を感じた。

 知らないうちに沙百合が同じように手を伸ばしていた。

 ダンサー達が放射線状に広がり、エリカが首を回す。しなやかに両手を上げ、横から下し、手のひらを天井に向けて、背中を反らす。

 沙百合の動きはまさにシンクロしていた。

 沙百合が踊っている。

 それに気づいた荒川は、静香に音を止めさせ、松永エリカをその固まりから外し、私達の所に近づいて来た。

「沙百合、踊ってみるか?」

「…。」

「踊ってみないか?」

「いや…。」

「沙百合!踊ってみなさい!」

 私は間髪入れずにそう言っていた。

 彼女は不安そうにスタジオの中央に立ち、荒川にポーズをつけられた。

荒川は鏡の前に座り直し、静香に言った。

「音!」

 美しいピアノ曲が流れる。

ダンサー達の視線が一斉にセンターに注がれる。

沙百合は緊張していて全く動く様子がない。今にも泣き出しそうだ。

荒川は音を止めさせ沙百合に近づく。

「深呼吸して。音楽の中に自分の身体を浮かせてごらん。いつものように。」

そう言うと、スタジオの照明を落とし鏡の前に戻っていった。

 沙百合は目を閉じゆっくりと深呼吸をする。

 そしてまた、美しいピアノ曲が流れる。

 沙百合の右手が左斜めを差し、ターンをして、左手を右斜めに差して、上半身を勢い良く下げ、ゆっくり起き上がる。

 松永エリカが踊っていた同じ振付けを沙百合が踊っている。

しなやかに、そして優雅に。美しい曲の中に身体が溶け込んでいる。

男性ダンサー達の間を風を受けて走り、センターで立ち止まる。両手を横に広げて身体を屈ませる。次に始まるユニゾンの動きは一糸乱れず完璧だった。徐々に男性ダンサーがいなくなり、沙百合だけが残る。始まりと同じ振付けに戻り、両手が天を仰いでいる所で曲が終わる。

 無音の中で手を下ろし、正面にゆっくりと顔を戻す。

 スタジオの空気が一瞬止まり、次の瞬間拍手が沸き起こる。

皆が沙百合に盛大な拍手を送っている。

 私は、あの海の奥深くに沈んでしまっていた彼女の記憶の断片がこんな素晴らしい形で浮かび上がってきてくれたことに感謝し、涙が溢れた。

 荒川は沙百合にハグをして、

「お帰り。」と言った。歓喜と祝福の時間はしばらく続いた。

 このまま全ての記憶が戻って来てくれたらいいのに。


 二幕のリハーサルが終了したところで、私達はオフィスに呼ばれた。なんとなくわかってはいたが、沙百合を公演に出演させることは出来ないかと打診された。

「沙百合、ちょっと外で待っていてもらえる?荒川先生と大事な話があるから。」

「はい。」

 私は沙百合の今の状況を更に詳しく荒川に話した。九十九里クリニックの河西さんと院長先生に聞いたように。

「迷惑をかけてしまうかも知れませんが、公演に出演することで沙百合の記憶が戻る可能性があるんじゃないかと思うんです。」

「さっき見た踊りはまさに沙百合だった。というかそれ以上だったかも知れない。難しいナンバーだから何度もリハーサルを重ねてきたが、まさかあの美しいピアノの音色にあんなに溶け込んでいるとは。あれが舞台で観ることができたら、どんなに素晴らしいだろう。」

「私も観てみたいです。沙百合が沙百合でいられる場所を与えることができたら。でももし万が一本番で記憶が戻ってこなかったら…」

 すると突然、静香が息を切らしてオフィスに入って来た。

「沙百合が…。」

「どうした?」

「沙百合が泣きながらスタジオを飛び出して行って…。駅の方に向かったんだと思います。エリカに何か言われたみたいで。」

「エリカに?」

 松永エリカ。沙百合の友達だったのでは?

「すいません。」

 私はスタジオを出て駅に向かって走った。

 きっとエリカに何か言われたのだろう。直感的にそれを感じる。たぶん、沙百合があの海に行った時も。

静香が言っていた、「沙百合は皆に認められている良いダンサーだけど、それを面白く思わない子達もいるわ。私達の世界のそういうドロドロした陰湿な所が彼女の精神的な部分を傷つけてしまったという気がしてならないの。」と。

 沙百合、私は知っている。あなたが強くないことを。いつも壊れそうなギリギリな所で頑張っていることを。待ってなさい。私は今あなたが行こうとしている場所に行くから。


14

 沙百合は無我夢中だった。涙が止まらない。

沙織がオフィスで荒川と話している時、トイレに行った沙百合の前にエリカが立ちはだかった。

「何でアンタ帰ってきたのよ?」

何がなんだかわからずとりあえず愛想笑いをする。

「何をにやけているのよ。私がどれだけあのナンバー練習したか知ってるの?」

「…。」

「アンタがいくら踊れても、絶対に渡さないからあのポジションは。」

この人が何をこんなにムキになっているのか、沙百合は全く分からなかったが、嫌な気持ちが胸の奥から湧き出て来たのだけは分かった。

トイレに行くのをあきらめオフィスの方に戻ろうとすると肩を掴まれた。

「ちょと、どこに行くのよ、このアバズレ!」

アバズレ?

「アンタみたいなフシダラ女はもう私の目の前からいなくなって!」

フシダラ女?いなく…。

「イタイ…。」

急に頭が痛くなり、涙が溢れ出してきた。

「どうしたの?」

エリカの手を振り払い、床にうずくまる。胸の奥から湧き出ていた嫌な気持ちが身体中を浸食し、吐き気さえ覚える。エリカに言われた言葉が頭の中でぐるぐると回る。アバズレ!フシダラ女!気づかないうちに、濡れた目がエリカを睨みつけていた。

「な、なによ。」

沙百合は怒りと悲しみが入り交じった表情でその女をただ見ていた。そうしているうちにいてもたってもいられなくなり、立ち上がり階段を降りて、駅に向かって無我夢中で走り出していた。


15

「ああ、最近はなかなか疲れがとれないな。ちゃんと睡眠取っているのに。タバコもそろそろやめないと。」

 秋山静香はスタジオの二階にあるベランダでぼそぼそと呟いていた。

39歳。独身。スタジオオープン当時からいる古株だ。

最初は一生徒としてレッスンに通っていたが、しばらくするとダンスのセンスが認められ、荒川のアシスタントとして使われるようになった。

 二十代の頃は、今の沙百合のように業界の仕事を沢山こなしていた。売れっこダンサーだったが、ある男性アイドルグループの一人と一時期噂になり、そのグループを仕切っていた敏腕女性マネージャーから現場を追放された。本人はそのことを完全否定しているが、真実は闇の中に葬り去られたままだ。

 その後、静香自身この業界に疲れてしまい、スタジオの仕事を主にするようになった。

「しかし今日の沙百合は神がかっていたな。「月光の中の美」鳥肌がたった。あの子は根っからのダンサーなのね。さぞかしエリカは悔しかっただろうな。」

 そんなことを思っていると、上の階からエリカの声が聞こえた。

「…もう私の前からいなくなって!」

「イタイ…。」

 何が起こっているのだろう?

タバコの火を消し、階段のほうに近づいていくと、沙百合が泣きながらすごい勢いで階段を下りていった。すぐに追ってみたが、外の通りに彼女の姿は見当たらなかった。そのまま三階に上がると、顔色の青いエリカが立ち尽くしていた。

「何があったの?」

「沙百合が…。」

「今泣きながら外に行ったわよ。何か言ったの?」

「…。」

 目を背けたエリカの頬を静香は叩いた。

「あんた!今、沙百合がどんな状況だかわかっているの?相変わらず自分のことしか考えられない子ね!だからあんたはいつまで経ってもダメなのよ!」

静香はそう言い放ち急いでオフィスに向かった。


16

 沙織が大網に着いた頃には夕方になっていた。

タクシーに乗り、あの海に向かう。

青かった空が茜色に染まっている。カラス達が巣に戻っていく。田んぼに張られた水に夕日が反射し、キラキラとオレンジ色に輝いている。虫や蛙の鳴き声が大きくなる。

 沙百合はきっとあの場所にいる。

「彼女が体験した苦痛な事を無理に思い出させようとすると、不安や抑うつを感じ自殺してしまう可能性もあるの。」

河西さんに言われた言葉を思い出した。

 沙百合…。

 堤防の前でタクシーを降りて急いで海岸に走る。

 夕暮れが終わろうとしている。

人の気配はなく、カラスの声が遠くで聞こえる。

「沙百合!」

何度か叫んでみるものの、私の声は波と風の音で容易にかき消された。

 沙百合、死んじゃダメ!あなただけが唯一の家族なの!私を一人にしないで。

 波打ち際まで近づいてみると、肩までつかってもうすぐ海の中に消えそうな沙百合の頭が見えた。

私は海の中に急いで飛び込み、押し寄せてくる波の力に抵抗しながら必死に近づこうとした。

「沙百合!」

 思うように身体が前に進まない。

海水が容赦なく口の中に入ってくる。

重くなってくる身体に荒々しく重圧な波が襲ってくる。

 そういえば私泳げなかった。

足はもうすでにつま先立ちで、すぐにでも溺れそうだ。

 沙百合!

 右手を思い切り前に伸ばした時、沙百合が着ていたトレーナーを掴めた。

私はない力を振り絞り、沙百合を手繰り寄せ、顔を上に向かせて、脇を抱える。

荒々しい波が肩にぶつかっては私達を引き戻そうとする。もうこれ以上沙百合の記憶をこの海の底に沈めることは絶対にできない。とにかく振り向きもせず大海原に背を背け砂浜に向かうことだけを考えた。

 浅くなった所で、右肩に沙百合の左手を乗せて、どうにか砂浜に辿り着く。

波が来ない所まで沙百合を運び、二人とも砂の上に倒れた。

「ゲホゲホ…。」沙百合は飲んでしまった海水を吐いた。

 私は全く動けず、心臓がバクバクして口から出そうだ。1年分の運動を1日でしたような、きっと明日からひどい筋肉痛になる。


 相変わらず荒々しい波と強い風の音を聞きながら、空に輝きだした星を見つけた。落ち着いた頃、横に目をやると、沙百合も仰向けになって同じことをしているようだった。

「小さい頃、家の近くの浜辺で良くこうやって寝転がって一番星見つけたよね。沙百合は目が良かったから早かった。私はなかなか…。あそこら辺、今どうなっているんだろう?二人とも帰る場所がなくなっちゃったから。分からないよね。もう行くこともないんだろうな。」

沙百合は何も答えずただ黙っていた。きっと覚えてはいないのだろう。

「しかし、あんた相変わらず重いわね。海の中から引っ張り出すの一苦労だったわよ。良くあんなに踊れるよ。不思議。」

 すると、沙百合が私の手を握ってきた。こっちを見ている気配がした。が、見たら泣いてしまいそうで私は夜空を見続けて言った。

「大変だったのね。何も相談に乗れなくてごめん。また一人で抱え込んでいたのね。でも、もう心配しなくていいよ、私がそばにいてあげるから。また前のように一緒に住もう。そしてまた何かを観た後に、狭いリビングで飲みながら朝まで語り合おう。今日のあなたのダンス、私本当に感動した。今まで観た中で一番ね。あなたはやっぱりダンスをしている時が一番素敵。だから続けて欲しいの。もし記憶が…、今までの記憶が戻らなかったとしても、私はいいと思っている。今からあなたが覚えていく色々な事を大事にしたい。そして、記憶が戻らなくても変わらない事は、私はずっとあなたの姉だっていうこと。あなたは私の大事な妹だっていうこと。絶対、絶対、これだけは忘れないで。万が一、忘れてしまったとしても、私が思い出させるし、嫌でも新しい記憶として植え付けるから。覚悟しておいて。照れくさくて今までこんなこと言えなかったけど…、私の妹でいてくれてありがとう。本当にありがとう。」

 見ていた星が滲んで、目の中で光の輪になった。


 荒々しかった波の音は静かになり、爽やかな潮風が吹き始めた。

「おねぇ。」

 沙百合の呟いた一言に、感情の糸がぷつりと切れ、横にいる沙百合の身体に顔を埋め、思い切り泣いた。


18

 私はベンチに座り、ただぼーっと空を眺めている。青々とした空の中に白い大きな雲が浮かび、ゆっくりと風に流されている。小鳥達のさえずり、木々が風で擦れる音、遠くから聞こえてくるヴァイオリンの音が心地良い。世界で一番忙しい街の中にこんなにも落ち着ける場所があったとは。いつぶりだろう、何も考えずにいるような時間を過ごしているのは。私はニューヨークにいる。マンハッタン。セントラルパーク。

 いつも休暇が取れると東南アジア方面にバックパッカーのように、一人で旅するのが恒例だったが、「一度ニューヨークを見て来いよ。」という本條の一言で今回はそうしてみた。

 昨日の昼にジョン・F・ケネディ空港に着き、1時間ほどの入国手続きの後、タクシーに乗りマンハッタンに向かった。52丁目のミッドタウンにあるホテルにチェックインをして、すぐに街に出た。ブロードウェイを歩き、タイムズスクエアに向かう。映画で観ていた光景が目の前にある。TICKETSでミュージカルの半額チケットを買い、地下鉄に乗りサウスストリートシーポートまで行った。フェリーには乗らず遠くから自由の女神を見る。

GODDESS OF LIBERTY

海にそびえ立つその巨大な像は、束縛から人々を解放し、自由をもたらしてくれたのだろうか?

女神の冠には七つの突起があって、七つの大陸と七つの海に自由が広がるという意味があるという。

きっと、あの海…、九十九里の海にも広がってきていたと考えたい。あの一件である意味私も沙百合も自由を得たのかもしれない。

 

 あれから沙百合の記憶は奇跡的に戻り、Phenixの公演に出演し、見事に全てを踊りきった。

 公演の評判も上々で、沙百合への周りからの評価もとても高かった。

 公演が終わって次の日、私もたまたま早く仕事が終わり、沙百合と二人でリビングで食事をしながら、お酒を飲んだ。

「とりあえずお疲れさま。ダンス素晴らしかったよ。私が褒めるなんて滅多にないから良く覚えておきなさいよ。」

「ありがとう。おねぇには感謝だよ。踊っていて幸せだったし、最高だった。出演できて良かった。」

「やっぱりあんたはダンスだね。ダンス!ダンス!」

 気のせいかもしれないが一瞬沙百合の顔が曇ったように見えた。

「そうそう、エリカ覚えている?」

「エリカ?あー、あの華奢な子?どうしたの?また何か言われたの?」

「エリカ今日からロスに行ったの。」

「ロス?ロスアンゼルス?」

「そう。とりあえず3ヶ月。それから無期限で向こうに行くって。スタジオにはもう来ないと思う。」

「そうなの。あの子が公演に出たこと自体が信じられなかったけどね。」

「そんなこと言わないで。確かにひどいこと言われたけど、エリカのことは今でも好きだから。」

「本当に昔からお人好しね。昔だってバレー部の時に陸上の大会出ることになってあんたの悪口散々言っていた、小谷…。」

「美里?」

「そう、小谷美里。あの子の時も散々だったのに最終的に許したよね?」

「だってお母さんいつも言っていたでしょ?嫌な事あってもそれには必ず理由があるはずだから、嫌な事されても許しなさいって。」

「私はそれが未だにわからない。」

「美里もそうだったけど、エリカの家庭環境複雑でね。母親が二回も離婚しているの。再婚した男の人はとても神経質で、それでいて酒癖悪くて酔うと「ダンスをやって何になる?」「才能あるのか?」「いつまでバイトしてんだよ。」といってエリカに絡んできたみたい。おまけにDV癖もあったらしく、母親は見ているだけでかばってもくれなかったって。つらくて実の父親の所に行ったら「もうこっちに新しい家族がいるから来ないで欲しい。」って言われて。エリカの周りには誰もいなかった。

結果、ダンスしか彼女にはなくて、レッスン受けまくってやっとこの前の公演のオーディションに受かったの。勿論純粋に公演に出たいって気持ちはあったけど、自分の両親とその再婚相手の男に、自分のダンスを最高の場所で見せて、実力を認めさせたかったみたい。リハーサルの最中、たぶん私が海に行く前、母親がその再婚相手と離婚してね。エリカにとってみたら良かったんだけど、母親が仙台の実家に戻ろうって言い出して。相当大変だったって。最後の舞台のカーテンコールが終わって、エリカが泣きながら私に抱きついてきた。「ごめんね。ごめんね。」って。打ち上げは行かないって言うから、その前にお茶したの。そこで全てを話してくれた。」

「…言い訳にはならないけど、よっぽどだったのね。あんたが今私の目の前にいるからそうやって言えるけど、本当なら…。」

「おねぇ。私…。」


 そのまま海を眺めながら、バッテリーパークに向かい、ワールドトレードセンターの跡地を目にする。誰もがあの日ブラウン管の前で釘付けになった。まるで映画を観ているかのように。旅客機が二つの高いビルに突っ込んでいく様を。煙が上がり、見る見るうちにビルが上から崩れ始めた。

 悲しみと血で埋め尽くされたあの土地に、新しいビルが建設中だった。

 ワンワールドトレードセンター。

その前までは、フリーダムタワーになるはずだったらしい。確かに自由の象徴が近くに軒を連ねるのも不自然だろう。

 一つの世界。一人の世界。やはり人はそれぞれ自分の世界を持っている。

 感性で動いている沙百合が羨ましい。沙百合はダンスを辞めた。中学の時にバレーをやり遂げ高校に入ってパッタリ辞めたように。はっきりとした理由は言わなかった。確かあの時もそうだった。きっと、彼女なりのタイミングがあるのだろう。私も荒川先生もかなり説得したが、沙百合の意思は固かった。小さな頃から抱いていた、保母さんになるという夢を叶えたいという。今は毎日アルバイトをしながら、資格を取るために勉強している。それが沙百合。私の妹。


 私は世界の中心の真ん中の公園のベンチに寝転んでただ空を見ている。

 食わず嫌いだったが、N.Yは何か好きになれそうだ。忙しい私にはピッタリかも。英語でも真剣に学んで、こっちで挑戦してみようか?

今まで感じた事の無い野心が急に私を支配し始めた。

そして世界の中心であの日あの場所を思い出す。

沙百合と見たどんよりとした雲とあの灰色の海を。そしてその雲間から射込むキラキラとした光を。

 気づくと私は歩き始めていた。自由な感性と自分にしか創れない束縛のない世界を求めて。



#創作大賞2023

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?