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なぜ私は東大に行こうと思ったか

 どうも、麒麟血です。
 今回は、過去の自分をある程度、客観的に捉えることが段々できるようになったと思うので、私がなぜ東大に行こうと思ったかについて、書いていこうかなーと思います。

とにかく家を出たかった。

コミュニケーションのできない実家

 私が実家にいて、「この家からいつか出ていくんだ」と最初に思ったのはいつ頃だろうか。とにかく私は、井の中の蛙だった、ずっと。何か具体的な「これ」といったきっかけがあったわけではない。小学校低学年のとある朝のことをぼんやりと覚えているのだが、ゴミ出しを頼まれた。
 私の親って、なんというか、コミュニケーションが足りないというか通じないというか、言葉で表現しずらいけど、自分から何かを提案しないし、教えてくれない。それでいて、私が何かをしようとすると、「どうして?」とか「こっちの方がいいのに」とか「珍しいね」とか何というか強く否定もしないけど、突っかかることを言ってくる人らです。他の家のことはあまり知らないけど、比較的自由ではあった。しかし、勝手に私の人格を決めてきたり、家では暴言禁止であったり、暗黙の了解というか、コミュニケーションを断つような「圧」があった。のにも関わらず、「あんたが話さないからわからないんだ!」って途端に怒鳴ってきたりする。
 で、小学校低学年の朝のゴミ出しの話でした。いつもは私の兄がゴミ出しをしていたと思います。その日は、自分がはじめてゴミ出しを頼まれて、ひもの結び方とか教えてもらってなかったので、どうすればいいのかわからず、ゴミ袋をただ眺めていると、母に「急いでいるのに!なんでできないの!」とか確か言われた。
 と、まあ、実家に居て満足にコミュニケーションが出来たことは本当に無いと言って良くて、悩みとか相談しないし、そんな話をとても聞いてもらえる感じじゃなかった。母はいつもパソコンをいじっていて、私には、その背中ばかりが記憶にへばりついている。父は、夜遅く帰ってくるので、話すこと自体が無かった。ずっと憧れだったのは、アニメや実際の友達の家で、ただただ「素」で世間話や何気ない会話で盛り上がっている家だった。

実家の飯が美味しくない

 実家では、母がずっとご飯を作ってくれた。父は、ただの一度も料理をしとことがなかった。
 その母の料理だが、当たり前のように毎日食べていると、おいしいと感じることはなくても、それしか食べるものもないので特に思うこともない。しかし、学校の給食や、友達の家でご飯を食べて、「母の料理って変なのでは?」と思い始めた。母がいつも作るもやし炒めは、もやし(油通ししない)+鶏のささみの筋が残っているやつ+ねぎに塩、コショウで味付けたものだった。母の作る料理の肉は火を通しすぎてカチカチで、私は高校に入るまで、肉が嫌いなのではないかと錯覚するほどだった。なぜかそのもやし炒めにパプリカやピーマンを入れたり、レモンをいれたり、どうしたらそういう発想になるのか不思議なほどだった。味の素の存在も知らないし、頭が固く、なかなか私の言うことを聞いてくれなかった。
 私が中学校に上がってからは、私が夕飯を料理することがしばしばあった。私が作った方が少なくとも自分の舌では断然美味しかったのである。兄も時々ご飯を作り、皮肉にも母が料理下手なお陰で、我々は料理スキルを身につけられた。
 母の料理が美味しくないことは、明確な嫌なことの一つだった。ちなみに、母方の祖母の料理もどっこいどっこいで美味しくない。

父が嫌だった。

 今思えば、というか、大学に入ってから知ったから知った言葉でASDというのがあって、自閉スペクトラム症のことですが、父はほぼ漏れなくこのASDの特徴を持つ人です。私と父は37歳差あります。18の時、父は55歳でした。父はだから2002-37で1965年生まれです。なので氷河期世代ではないと思いますが、とにかく仕事が安定しない人でした。いろいろなパートの仕事をやったり、自営業やったりしてた。また、オカルトやそっち系のものに目がなく、新興宗教に足突っ込んでた。いつもお金がなく、兄の学費の積立金おろしたり、母にお金借りたりしてた。
 兄の中学校の将来の夢は「父みたいな人間にならないこと」でした。兄は、母に「はやく離婚しろよ」と言ってましたね。
 最近はましで、コミュニケーションも若干通じるし、私も年齢重ねるごとに、若干、父の境遇(祖父にネグレクトとか)というか、感情とか、わかるようなってきたけど、私が中高の時は本当に酷かった。半面教師として乗り越えるべき背中なのかな。

奇妙な人間関係が嫌だった。

 私の保育園も小学校も中学校もいじめが結構あるころだった。中学入試なく入れた地元の中学校で、いろいろな人がいたからかもしれないが、あまり居心地は良くなかった。仲良かった友達もクラブで別々になったり、そもそも私の人づきあいが下手すぎて、学年が変わるごとに親友が変わってたり、キャラが変わったりする自分だったので、「自分のことを全く知らないところで素の自分で居たい」と思うようになった気がします。容易く言えば、人間関係をリセットしたかった。それは別に実家を出る必要は無かったが、いつの間にか「実家をでてやる!」という意欲の源になっていたと思います。 

そんなこんなで、実家を出ることがいつしか確実な目標になりました。「いつかは絶対実家を出る」というのが人生のテーマの一つになった。

実家をでることが人生の目標になった。

 中学校のとき、職場体験でコンビニで働いた。窓ふき、商品の出し入れくらいしかしてなかったが。そこの店長さんは親切な方で、コンビニのくじの景品の余りものをくださった。例えば、羽生結弦選手のクリアファイルなどである。その一つにリラックマのグラスがあった。私の家では、母の買った、採用した食器しか台所では使ってはいけないという文字化はされてないルールがあったので、家では使えず、ただの置物だった。しかし、私は職場体験の思い出も相まって、そのグラスがやけに気に入り、「いつかこのグラスを自分の家で使いたい」と思い、そのグラスが実家を出ることの象徴みたいに考えるようになりました。実家を出るときにはこいつも持っていくと。

東大に行くという目標になった。

 高校では、中学の知り合いが誰もいないところに行きました。中学校から地理的にも離れている場所でした。大学進学実績と入試問題と私の相性などから選んだ。大学進学実績では京大に行った人の人数ばかり見てた。京大が一番、そんな考えがいつの間にか固定化されてました。
 高校最初の駿台模試か何かで、京大を第一志望、東大も一応どっかの志望に入れてました。答案が返ってきて、判定がどうだったかというと、確か、京大がAかB、東大がBかCでした。まさかそんな高い判定が出るとも思わなかったので、当時の自分としては、「東大って現実的に行けるところなんだ」と、とにかく衝撃で、一種のパラダイムシフトのようでした。それ以降、「京大がこれだけ温いなら、俺は絶対東大に行く」と負けず嫌いというか、そんな感じの自分は思うようになりました。それから「実家を出るには東京に行く。東京に行くには東大に行く。だから東大に行く。」とそのような思考で、東大に行こうということになりました。
 千葉大の飛び入学や、ハーバードやテキサス大学、ミュンヘン工科大学に行こうと(今思えば迷走?)思った時期もありましたが、結局東大に行きました。

 最後にちょっとしたエピソード(?)を一つ。
 私が、共通テスト、昔のセンター試験を受け終わったとき、高校で仲良くしてくれて、その友達の前では割と「素」で居れたんですが、まあそいつが駅前のサイゼリヤに行こうぜと誘ってくれたんです。サイゼリヤに行って、軽く答え合わせみたいなんして、本屋もしまってるしということで、解散し、家に帰った。で、家に帰って父の第一声が「お前にどれだけ金つこうと思ってんねん!!!」でした。仕事のストレス発散かと思ったんですが、自分が連絡入れてなくてなんか心配してたらしいです。まだたしか22時とかだったんで、受験生に対してこの人は頭がおかしいんじゃないかと思い、「何が何でもこの家をでてやる」とまた意志が強くなりましたね。

…と、まあ締まらないですが、このような経緯で、東大に行こうと思いました。ほとんど東大について知らずに。1年の最初から本郷に通学すると思ってました、駒場に通学すると知ったのは合格した後でした。それもこれもちょっと屈折した志望理由だからなのかもしれない。

 急いで書いてしまって駄文ですみません(汗)
 最後まで読んで頂きありがとうございます!

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