来ましたか…カラヴァッジオの新作が…
あまりにも完成されたルネサンス芸術に反発した輩たちが生まれたバロックと言う時代。
並みいる変人画家たちの中でも最高の狂人、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの最新の発見とされる作品が、4月18日~7月21日のロンドン・ナショナルギャラリー「The Last Caravaggio」展でお披露目されます。
↓引用元
カラヴァッジオと言えば、シャレにならない画力を兼ね備えた、銃刀法違反で住所不定な少年趣味で厨二病の殺人犯、という属性オンパレードな美術界にその名を轟かすイタリアの巨匠。
芸は身を助ける(彼はゲイでもあった)、という言葉を地で生きたカラヴァッジオの生涯はこちらをご参照ください。
【その内容とは…?】
今回発見されたのは「The Martyrdom of Saint Ursula」というタイトルの作品。
直訳すれば「聖ウルスラの殉教」でしょうか。
聖ウルスラとは、英語読みでアースラ(タコ足の悪いあの方は多分無関係)などと言われるキリスト教における聖人。
伝説では11,000人の乙女(処女)を引き連れ巡礼の旅を行ったことでも知られ、これは福井県高浜町の総人口と同数の処女たちが一斉に大移動を起こすのと同じレベルです。
(実際は後世の誤読で11名だった模様。しかも旅の発端が「未来の旦那に会いに行くため」だったという説もあるため、史上最強クラスの婚活イベントだった可能性がある)
フン族に襲撃され、己の信仰と純潔を貫き通し虐殺の矢に倒れた聖ウルスラの生涯。
本作はその最後の場面をカラヴァッジオの絵画化したものと思われます。
(いや矢射る距離ちか!!とは言うまい)
【ごく最近の新発見ではなく……】
今の今まで人目に触れることなく、この度新発見! という訳ではなく、この絵自体は1980年代にはカラヴァッジオの作品として凡そ断定をされていました(誤解を招く書き方ですみません)。
それまでは長くアトリビュート(伝:カラヴァッジオ作)として認識されていましたが
ナポリの公文書においてマルコ・アントニオ・ドリアという人物が本作の制作依頼をした書簡が残されていたことから、カラヴァッジオの真作として断定に至ったようです。
こうした資料により、制作時期や場所が特定されていきカラヴァッジオがローマに向かう道程の1610年に本作が描かれたとされます。
ちなみに、こうした「The Martyrdom of Saint Ursula」のようなタイトルはカラヴァッジオ本人が付けることはありません。
現代からするとモノを作って他人がタイトルを付ける……というのはあまり考えられませんが、この時代は逆にタイトルを付ける必要がありませんでした。
上記のように、画家は「依頼」された内容に準じた作品を描くことになるので
その内容が分かる内容や事物を描きこむこと(イコノグラフィーと言われる)が重要であり、内容をタイトルで判断したり分類する、ということがなかったわけです。
タイトルを付ける必要が生じるのはカラヴァッジオから少し下り
複製版画が大量に作られる時代の時にそうした文化が興ります。
【カラヴァッジオ……また絵の中でいい人ぶる】
こうした古い絵画はほぼ例外なく修復などが行われるわけですが、その過程で様々な発見が分かることがあります。
本作についても、とんでもない厚塗りのニスとその変色により見えにくくなっていた部分が明らかになり
様々な解釈を現代の鑑賞者である我々に与えてくれます。
その一つが画面中央下部のこの手。
矢を穿たれ、生気を失っていく聖ウルスラの前へ、彼女庇おうとしたかのように伸ばされた右腕。
一説にはこの右腕を差し出している画中後方の男性はカラヴァッジオの自画像と言われてもいます。
敬虔なる乙女を暴虐から救わんとしたカラヴァッジオ……
「おいおい お前メッチャええやつやん」
と思うのは少々早計な気がするもので、カラヴァッジオは口論した相手を殺した殺人罪の許しを得るために
そうした罪の恩赦権限がある有力者へ絵を送る際、度々こうした描写をすることがあるのです。
本当に反省していたかは不明ですが、恩赦があるとないとでは生き死にに関わるため必死で改心を訴えるのもさもありなん。
ですが、結構大胆露骨な描写と「そんな直ぐ人間変わるかいな」と思わせられるため、改心よりも下心が感じられてしまう気がします。
絵が上手い。
ある意味それだけであらゆる事柄を踏みつぶして激動の人生を生きた画家、カラヴァッジオ。
展覧会はイギリスのため、到底気軽に行けるものではないですが、もし行くことができれば是非ご覧いただきたい作品ですし
もしかしたら、いずれ日本でも展覧会で見れる日が来てくれることを願っています。
その際は、このヤバイ人に是非思いを馳せていただければ。
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