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ウォーホル ~死は虚しく消化されるもの~

「15分もあれば誰でもスターになれる」

そんな言葉を残しておきながら、誰しもが届かない芸術界の偉大なスターになったアメリカン・ポップアートの巨匠、アンディ・ウォーホル。

2022年5月9日に行われた競売で、ウォーホルがマリリン・モンローを題材にした「ショット・セージブルー・マリリン」が約253億円という小さい村とか町が買えそうな巨額で落札されるなど、現代でも異様な人気を誇ります。
(この金額はオークション史上2位。1位があのダ・ヴィンチなので実質ウォーホルが1位と言ってもよかろう)

1987年に亡くなったウォーホルですが、そのお墓が24時間ライヴ配信されていることは存じでしょうか?
ウォーホルが眠るアメリカ、ペンシルバニア州にあるSt. John Chrysostom Byzantine Catholic Churchより生配信されてます。

「そんなん誰が見んねん?」という疑問もありましょうが、私みたいな画家好きには嬉しい。
それに見ているとさすが著名人、結構な観光客のような方々がお墓の前で写真を撮っています。

しかしながらこの配信、ただ「遠くから墓が見れる」というだけのモノではございません。

この配信プロジェクトの名前は「Figment」。
つまり、人為的なもの、作り物、虚構、という意味があります。

これはウォーホルが生涯表現をし続けた芸術観と、彼の死に対する感性が合わせられた死をテーマにした作品、とも言えるのです。
(没後に発足しており本件にウォーホルは絡んでませんが)


ウォーホルが表現し続けた芸術とは何か?

その根底は「大量消費」「大量生産」という20世紀アメリカの商業文化に由来します。

従来(今もですが)、芸術が尊ばれる要因の一つが「たった一人の天才により生み出さる、たった一つのもの」ということがありました。
これに対し、急激に発展した大量生産・消費社会は逆行するもので、画一的な「たった一つでないもの」を「誰もが」量産・消費できる時代を意味します。

写真や映像も生まれ、「ピカソが全部やっちまった」なんて言葉もあるように、絵画(平面)芸術は若干のオワコンの雰囲気を醸し出していました。
さらに、芸術という定義が便器から人糞からガラクタから何でも取り上げるようになり、そうなると「大量生産されるモノも芸術じゃね?」という観念が生まれだします。

ウォーホルは、それを形にした作家です。
つまり、スーパーに売ってるトマト缶も洗剤の箱もアートだ、と主張したわけです。
(曖昧ですが「人工物+世間がアートと認知=アート」みたいなのがアートの1つの定義)

ただ、そんなウォーホルだからこそ「スパースター」という存在に羨望と尊敬の念を常に持っていました。
あらゆるモノが大量生産・消費されていく中で、世に燦然と輝く「一人」の存在はこれまで以上に際立つモノ。

しかし、スターたちもあらゆるメディアで複製され、やがてはかつての芸術と同じように「大衆化」していく。
ウォーホルはそれを表現をするように、マリリン・モンロー、ミック・ジャガー、エリザベス女王などスターたちの写真を同質の量産に適したシルクスクリーンで大量生産していきます。

唯一と呼べるものなんてあるのか?
そう言わんばかりにウォーホルはあらゆるものをアート(大量生産・消費)にしていきました。


死の消化のしかた

そんなウォーホルの画業には、飛行機事故、電気椅子、髑髏など死をテーマにしたような一連の作品群があります。

飛行機事故の写真を題材にしたことから始まるこの作品は、死という受け入れがたい悲劇を大量生産することで、受容(消化)可能なモノにする、という意図があったようです。
要は「悲劇に慣れる」ということでしょうか。

ただ、そうした意図以上にウォーホルは、現代において「たった一つの命」の「たった一度の死」があっさりと消化されていくことに、言いようのない虚しさをこうした作品で表したとも言われます。

世界的に偉大な人物が死のうがメディアで報じるだけ報じられて次のニュースへ。
身近な愛しい人がなくなろうが世界がどう変わる訳でもなく数日後には日常が始まる。

死について考えた時、ウォーホルはこんな言葉を残しています。

I never understood why when you died, you didn’t just vanish, and everything could just keep going on the way it was only you just wouldn’t be there.
>あなたが死ぬとき、なぜただ消えてしまうだけではないのか、あなたがいなくなったということ以外いつも通りなのか、全く理解できない。
I always thought I’d like my own tombstone to be blank. No epitaph and no name.

>私はいつも墓碑は空白でいいと思ってる。墓碑銘とか名前とかもいらない。

なんとなく、「死というものも所詮は全の中の一」と言いたいけど、そうじゃないことも感覚的に分かってる、みたいに感じます。

この「唯一なんてない」としながら、所々で矛盾が生じているのがある意味ウォーホル最大の魅力とも言えます。
(彼自身が芸術界きっての「唯一無二のスター」的な存在になってしまってるし)


ちなみに、上のウォーホルの言葉は下のように続きます。

Well, actually, I’d like it to say “figment.”
まぁ、実際は(墓碑に)「figment」とでも書いといてほしいよ

この言葉を参考に、冒頭のライヴストリーミングは「Figment」という名前になっています。
この配信により、ネットを通して世界中のモニターに「ウォーホルの墓」が大量複製される様は、ウォーホルの芸術観に沿ったモノと言えるわけです。

死とは唯一で尊くて悲劇的なものだけど、消化されなければ生きてる人は前に進めない。
けれども簡単に割り切れない感情がある。

そんなモヤモヤするけど心に残り、考えさせられるテーマがあるように思います。


ちなみに墓碑にはガッツリ名前が書いてある。

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