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【雑記】ボケた祖母とバーガーキングで人生の終焉を語るオバア達

祖母のボケが止まらない。
ハイテンションな芸人みたいな意味ではない。

認知症とか痴呆の話だ。


祖母の症状が始まって早3~4年は経つだろうか。
といっても「うす、自分今から痴呆入ります」という合図があったわけではないので、この3~4年というのはあくまで体感だ。

本人がボケてるからとコレ幸いにボロクソ言いたい気持ちをグッと堪えて言葉を選べば、祖母は少し厄介な人間だった。
つまり、イヤなヤツだったのである。

分かりやすく言えば他責で自己中な癇癪持ちなのだ。
言葉を選ぶと言っておきながらブレーキを踏みそこなった感は否めないが、ボケる前の祖母はそんな人だった。

ボケる前は。

今まで家族想いで穏やかだった人が、痴呆などにより家族に対して罵詈雑言をまき散らして暴力的となり、やがて自分すらも失ってしまう。
こうした事は現代において度々耳にする。

画面の向こうの世界だけの話ではなく、そんなことは割と身近な知人などにも起こることであり、その変化に複雑な気分になることもある。
「ボケて本性が出た」などとは、思いたくないものである。

もし、祖母がボケてしまったら……
私はひっそりと祖母にそんなアップデートが来ないことを祈っていた。

しかし、アプデは来てしまった。
全く予想だにしない内容で。

「忘れる」ということに対する本人の恐怖が薄れ、周囲が恐怖を感じるレベルになった頃には、祖母の性格は大きく変化していた。
どういうわけか、温和な人になったのである。

大学進学依頼、大型の連休くらいしか実家に帰らない私ですら、この祖母のヴァージョンアップには驚いた。
夫婦としてその半生以上をver1.0の祖母と過ごしてきた両親の衝撃たるや、私の比較にならないだろう。

これまで自ら壁を作り遠ざけていた息子夫婦を頼り、慮りさえする。
そして、痴呆や老衰の症状を自覚し、ストレスを感じることはあっても喚き散らすことはなく朗らかに笑うのだった。

「どっかで取り違えたのか?」と思うほど豹変したように見えるが、実際は元の性格から警戒心や邪気が取れたような感じである。
つまり、少しイイヤツになったのだ。

これは控えめに言って、神アプデなのかもしれない。

しかしそれは、周囲の勝手で少し不謹慎な感想である。
祖母自身、あたりまえにできた日常の些事が日々できなくなることに、歯がゆさと苛立ちを感じている様子を時折垣間見せる。

まぁ、そのことも数分と経たず忘れて笑っているが。


相変わらず祖母の症状は緩やかだが侵攻していると、今もかいがいしく世話をする母がLINEで教えてくれた。

西日が瞼を力ませる頃の都内のバーガーキングにて、大きなガラスに面したカウンターに座り、アイスコーヒーを飲むでもなくストローをくわえながらスマホの画面を眺める。

なんと返信したものか……
返信すべきか……

逡巡している視界の右端に、特大の枝豆と言われれば納得するような宝石をあしらった指輪が映る。
少し逆側に寄りながら目をやると、2人の老婆が隣のカウンターに席を取った。

私の真隣には枝豆の主が鎮座した。

休日でそれなりに客のいる店内だが、この厳かな台座に祀られた枝豆が無造作に落ちていたら、誰しもが彼女に「落としましたよ」と声をかけるだろう。
今どき珍しいこんなゴツイ宝飾品が映える見事な恰幅は、この店内で彼女だけである。

彼女を枝豆婦人と名付けよう。

枝豆婦人のわがままボディで若干見辛いが、彼女の隣には恐らく友人であろう細身で眼鏡をかけた女性が、2人分の飲み物を乗せたトレイを置きながら席に着く。

紹介しよう彼女はメガネ婦人。
当然、今しがた名付けた。

2人がRPGの敵キャラだったなら、枝豆婦人はパワータイプでメガネ婦人は魔法しか通じない攪乱系のボスだろう。
十中八九フィジカルで枝豆婦人に太刀打ちできないのでメガネ婦人を先に仕留めたいところだが、生憎と魔法が使えない私に成す術はない。

「にげる」一択である。
母への返信よりもオバアたちとの妄想に時間を割いたことを毛ほどは悔やみながら、立ち上がろうと上体を前かがみにした矢先、メガネ婦人の言葉が鼓膜を捉える。

「ババアになるってしんどいわ」

私は鹿威しが如くかがんだ上体を元の位置に跳ね返らせる。

ババアがババアの何を語るのか、私は彼女たちの声に耳を傾けた。
要するに私は暇なのである。


「人間、年を取っていくと子供みたいになるって言うけど、実際全然違うよ」

眼鏡婦人は、飲む気もなさそうにコーヒーの入った紙カップをゆらゆらさせながら続ける。

「子供は何かができるようになっていくけど、年取ったらは全部できなくなっていくだけ。それもピアノが弾けなくなったとかじゃなくて、できるようになったなんて自覚のない些細なことがドンドンできなくなっていく」

「そうね」期待に違わぬ野太さの声で、枝豆婦人が相槌を打つ。

「それって自分の子供の頃に戻るんじゃなくて、全く違うモノになるような感じがして……なんか、怖いわ」

小さなため息を効果音に、カップは着地する。

「まぁ、それでもさ。生きて行くしかないじゃない」

なだめ諭すには最適な声色で枝豆婦人が声をかける。
この席の辺りだけ老舗のバーみたいな空気感になっている。

「無くしていくモノを考えるより、今あるモノ、まだ手に残っているモノを見なくちゃ。具体的にどうしたらいいか、なんて分からないけど足掻いて生きてくだけよ」

人生初の「あちらのお客様からです」をかましてオバアたちに何か奢りたい気分である。
だが、いいとこポテトかチーズバーガーが飛んでくるのが関の山なのでやめておく。

「でも、仮に自分も他人も分かんなくなるくらいボケるんなら、そうなる前に自分で死にたいけどね」

枝豆婦人がそう言い終えた後、一瞬が×2.7くらいされたような微妙な間をおいて「死んでほしくはないよ」とメガネ婦人がか細い声をもらす。

訪れた沈黙が私をバーからバーガーキングに引き戻す。
ストローをくわえる。疾うにアイスコーヒーはない。

”ボケる前に自ら死にたい”

枝豆婦人の言い分的には、自分に近しい人々に迷惑をかけたくない、死ぬときに「自分」を自覚していたい。
そんな思慮や恐怖から来る主張であろう。

勿論、こういったものはその人の価値観の話だ。
他人もそうすべきだと、強要するものではない。

正論にも感じるし、賛成ではある。
だが、それに対するメガネ婦人の歯切れの悪い返答も理解できる、気がする。

要するに、目の前のその人にどんな形であれ生きていて欲しいのである。
その人が抱える恐怖と忌避も共感したうえで死んでほしくないのだ。

憂鬱を殺して気を配り、恐怖から逃げ出したいと願う人を引き留めて「これからもよろしくね」と、その手を取っていたいのである。
「ありがた迷惑だ」と手を振り払われれば、それは何よりも辛い。

まぁ、なんと残酷で自分勝手なことか。


婦人らが言うように年を取ればできなくなっていことが増えていくのは、先日、二重飛びを2回しただけで酸欠になった私も共感するところである。
だが、それは絶対ではなかろう。

祖母はボケて何ができなくなったのかも分からなくなった中で、逆にできるようになったことがある。

その一つが「ありがとう。よろしくね」と、言えるようになったことだ。
祖母は、そんなことを言える人ではなかった。

自我が強く、自分で生きていける人だったと言いたいのではない。
自我しかなく、自分が生きることしか考えられない人だった。

人様が病気やケガになれば、心配の体で根掘り葉掘り状況を尋ね、どうすればあんな哀れな状況に自分はならずに済むか、と苦心するのが常だった。

そんな人の「自分」は、ボケて崩れていった。
あらゆることができなくなっていく中で、これまで頑なだった意地も張ることができなくなった時、祖母は家族に頼った。

両親は、そんな祖母の手を取った。
それを哀れでしかないなどと到底思うまい。

人間なんて生まれて放置されれば100%野垂れ死ぬのに、何とも素晴らしい人様のおせっかいで生きている。

婦人たちが言うように、人は年老いて子供のようになるという言うのであれば、もう一度おせっかいな誰かに助けてもらいながら最後の時を迎えることも自然なことかもしれない。

どんな形であっても最後まで生きたいと願い「これからもよろしくね」と、はにかみながら相手に無様に身を任せることは、明るく楽しいことではないかもしれないが人間らしいのではないか。


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