「気遣い」と「気配り」の違いとは?
最近、「気」ということについて考えていた。
そのきっかけというのは、同じシェアハウスの同居人が「気遣い」と「気配り」についてコメントをしていたのだが、その方いわく、
とのことで、これを読んで自分は最初、頭にはクエスチェンしか浮かばなかった。
そもそも「気遣い」と「気配り」の違いが分からず、何がどう違うのだろうか、この方は何を言っているのだろうかと 思ってしまった。
そこでチャットGPTに対してこれらの二つの言葉の違いを問いかけたところ以下の回答がかえってきてハッとさせられた。
大きくは3つの違いがあり、【意図の違い】【行動の焦点】【コミュニケーションのスタイル(手段)】があるとのこと。
つまり、気遣いは「感情」に重点をおいており、相手の気持ちに共感を示すことが重要視されており、気配りは「状況」に重点をおいており、相手がより良く過ごせるよう相手のニーズを観察し、対応を行うことが重要視されている ということだ。
少し話はズレるかもしれないが、自分はよく人からは「気がつかえないやつだ」と言われることが多いのだけれど、実際は「気遣い」をしようと自分の中で全力を尽くしているのだけれど、ASD要素が発揮され、共感しようとするが理解はできず、ニーズを図り違えて不適切な言葉や行動を行ってしまうことが多々ある。また、「気配り」というものもADHD要素が発揮され、多動と不注意行動によって相手が必要とするものを提供できないことが多いように感じる。
だからこそ人からは「気が使えない」と評されることが多いのだけれど、その場合はどうしたら良いのだろうか。現状の結論でいうと、まずは「気配り」から意識してみるのが良いのではないか?と感じている。
なぜなら、自分が気遣いを行うために相手に共感しようとしても、全くうまくいく未来が見えないからだ。今まで27年間生きてきて、自分は「気遣い」をしようとしたが、これといってうまく行ったためしがないし、現状うまくいくイメージもない。
ただ、気配りであればもしかしたらうまくいくかもしれないと言うイメージがある。
気配りであれば、相手の気持ちではなく状況が重要変数となり、察するのではなく観察することが重要変数となりうる。
観察はこれまで自分が必死に鍛錬をしている部分であり、効果が少しずつ出ていることを考えると、観察は先天的なものではなく後天的に会得できる要素だと感じるからだ。
そもそも、人の気持ちは状況に応じて180度変わることなんてザラにある。
それを考えると、「気遣いは気配りができてから熟達していくのではないか?」という仮説が湧いてくる。
もし仮にそれが正しいとした場合、まずは察することではなく観察することから始めた方がいいのではないか。
そのように考えていると「より良い観察とは何か?」という問いに対して改めて向き合う必要があると感じた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?