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静 霧一 『追憶の果て、青の住処』(下)

※前編はこちらから

「それじゃ、今日は楽しんでくれ!」

 乾杯という合唱とともに、カチンとグラスが当たる音がレストランの店内に反響する。

 12月30日の今日は修也の働くイタリアンレストランでの忘年会であった。
 忙しない1年の年の瀬、仕事の労を労う忘年会であるはずなのに、修也は誰の労も労わずにお店の隅っこで独りお酒を飲んでいた。

 修也がホールで働き始めて1年弱経つが、彼は未だにお店の雰囲気に馴染む事ができなかった。
 最低限、仕事をする上で支障がないコミュニケーションは出来ているが、それ以上の付き合いをすることはない。

「高村さん!お疲れ様です!」
 ふと、自分を呼びかける声にびくりと修也の体がびくりと震えた。

「ほ、星宮……お疲れ様」
「みんなのところいかないんですか?」

「あ、あぁ……ああいうの苦手でな」
「それでも忘年会には来るんですね」

「そりゃ……店長に誘われたし行かないわけには」
「ふーん。高村さんって意外と律儀なんですね」

「意外ってなんだ」
「高村さん、顔に"話しかけないでください"って正直に書いてあるんですもん。そりゃみんな引いちゃいますよ」

「うるさい」
「あ、そういえば前のこと聞いてなかったですね」

「前のこと?」
「作曲やめた理由、聞いてなかったですよね」

「ごめん……話したくないんだ」
修也は星宮から目線を逸らし、俯く。

「ま、音楽を本気でやってる人なら話したくないことの一つや二つあるもんですよね。わかりますよ」

 そしてまた2人は沈黙した。

 すると、遠くのほうで店長が星宮を探す声がしていた。
 よく見ると、店長の隣にはオーナーの姿があった。
「今行きまーす」と大声で答えると、スパークリングワインの入ったグラスを修也へと渡す。

「ねぇ、高村さん。賭け、しませんか?」
「賭け?」
「私が今からピアノ弾きますので、心が動かされたら私のために作曲してくれませんか?約束ですよ!」

 それだけを言い残し、星宮は店長とオーナーの待つピアノのもとへと走って行ってしまった。
 修也は一方的な要求に呆気に取られていた。

 だが、それは彼にとっての救いでもあった。
 今ここで心が動かなければ、きっと一生音楽と接することはないだろう。
 修也の手が震えた。

 星野がピアノの椅子を軽く引き、トントンとピアノの白い鍵盤を軽く弾く。
 ふぅという息が彼女の口から漏れ、レストランはシンと静まり返った。

 小さく音が始まり、次第に空気に音が溶け込んでいく。
 流れるような音階の山と谷が心地よく耳に馴染んでいき、酔った心が次第に凪いでいくのを修也は感じた。

「人生のメリーゴーランド」

 星野の弾くそれは、目まぐるしいほどの人生の展開であった。
 凹みながらも前へ進んでいくその演奏は、彼女の音楽そのものであった。

 なぜ今、彼女がこれを弾いたのかはわからない。
 だが、まだ成長半ばの彼女にとって、それは未完成の曲といえた。

 この曲は、奏者によってその音色を大きく変える。

 修也は映画でこの曲を聴いたときは、「まるで人生を楽しむ少女のような曲だ」という感想を持っていた。
 この世に誕生し、人生の彩とワルツを踊り、未知への好奇心に目を輝かせる。
 彼は子供ながらに、「あぁ、こんなにも音楽は楽しいものなのか」と心を躍らせた覚えがあった。

 それから数年の月日が経ち、少しだけ大人となった修也は、海外のオーケストラが来日公演をした際、この曲を演奏を聴いたときは衝撃を受けた。

 オーケストラのそれはまるで「人生の追憶を懐かしむ、窓辺に佇んだ老婆のような曲」であった。
 まるで朝日の木漏れ日が差し込む窓辺で、猫を抱きながら遠くの空を眺めている老婆の追憶。
「あぁ、人生とは美しい」と楽譜が呟いているような、修也はそんな不思議な感覚に包まれたのだ。

 人生を駆ける途中と、駆けた足跡を辿る途中の景色は違う。
 思わず、修也は涙を流した。

 星野の演奏は、まだ青い。
 ふと、修也は瑞葉の笑顔を思い出した。

 あいつ夢はまだ、道半ばで取り残されたままだ。そして自分の楽譜も未完成のまま、終わってはいない。
 まだ追憶をするには早すぎる。

 演奏が終盤に差し掛かり、最後の章節へと移る。
 まだ終わっちゃいけない。終わっちゃいけないんだ。

 修也は急いで外へと駆け出した。
 冬の夜の冷たさが、柔らかな頬を刺す。
 白い息を吐き続けながら、とにかく修也は夜の道を全力で走った。

 家に着くと、ただいまも言わずに玄関に靴を脱ぎ捨て、2階の自室へと駆け上がる。
 ガムテープで封をした押し入れの前に立つと、そのガムテープをびりびりと破き、そして中から埃を被ったクシャクシャな楽譜を取り出した。

「ごめん、ごめんな」

 修也はその楽譜を抱きながら泣いた。
 ため込んでいたものがとめどなく涙腺から溢れ出す。
 自分の夢を破り捨てたことを、道半ばで命を絶った君のせいにしてしまっていた。

 なんて弱い人間なんだ。
 修也はとにかく自分を責めた。
 心の奥で、瑞葉の奏でたヴァイオリンの残響が響き渡る。

 彼はその残響が消えぬよう、ゆっくりとそれを掬い、そして心の中へとしまい込んだ。
 鍵をかけた机の引き出しの錠を開け、そして真っ白な譜面を取り出し、その残響を譜面へと落とし込む。

「―――あぁ、僕はやっぱり君の音が好きだ」
 ふと、窓を見上げると、外には黎明の斜光が赤く輝いていた。

 ◆

「ねぇ、修也くん」
「なんだよ玲奈」

「行きたい場所があるって言ってたけどどこいくの?」
「ボリビア」

「ボリビア?なんで?」
「ウユニ塩湖に行きたいんだ」

「なんでまた急に」
「彼女の夢が終わってないからだよ」

 星宮は頬を膨らませた。
 その様子に修也は笑った。

 あれから、1年の月日が経った。
 星宮とした作曲の約束は果たせてないけれども、その約束を果たすために星宮と付き合うことになった。
 今は彼女のピアノの指導をしながら、修也は作曲の勉強をしている。

 相変わらずイタリアンレストランでアルバイトは続けているが、彼はあの日を境に少しづつ、仕事場の人たちをコミュニケーションを取ることが出来るようになっていった。

 親には頭を下げて、生活費を少し下げてもらい、彼は貯金を続けた。
 それもこれも、彼女が果たせなかった夢を継ぐためであった。

 ウユニ塩湖へと行くのは来月の1月と決めていた。
 これ以上先延ばしもできないために、強行突破のスケージュールであったが、どうしても星宮はついていきたいとせがみ、結局2人で行くことになった。

 そして、旅行の当日。
 楽しみだねとはしゃぐ星宮と、緊張で息の上がる修也はまるで対照的であった。
 ウユニ塩湖はボリビアにあるため、そこまで行くには、一度飛行機で乗り継ぎをしなければならない。
 修也と星宮はマイアミで乗り継ぎをし、観光することなくボリビアへと向かった。
 ウユニの町から、1時間弱車に揺られ、ついにウユニ塩湖へと到着した。

「わー、綺麗!」

 一度そこに足を踏み入れれば、青の天空が果てしなく続く絶景が広がる。
 鏡面が地平線をなくし、この世の終着点とさえ思えるその光景に、修也は言葉を失った。
 隣で星宮のはしゃいでいるはずなのに、その声さえ聞こえない。

 ここが瑞葉が来たがっていた場所。
 今なら、彼女がなんでここに来たがっていたのか少しだけわかる気がする。

 ここに音はない。
 もし、ここで自由にヴァイオリンを弾けたのなら、彼女はどこまで飛んで行けただろうか。
 修也は果てしなく続く天空を見て泣いた。

「あー、修也くん泣いてる」
 空気を読まずに耳元でにししと笑う星宮。

「うるせぇ」
 修也はハンカチで涙を拭い、そして笑った。

 彼の中で、まだ瑞葉のヴァイオリンは生きている。
 たったそれだけを確認するためにはるばるこんなに遠くの異国の地まで来るなんて、本当に馬鹿だなと修也はため息をついた。

 ◆

 帰りの飛行機の中で、修也は夢を見ていた。
 夢から醒めると、目から涙が流れていた。

 久しぶりに、瑞葉と会ったのだ。
 その姿は事故の直前に会った時のままで、綺麗であった。

 凡才である修也には、天才である瑞葉の苦悩はわからない。
 彼女はただ譜面通りに弾いているだけだと言っていたが、今となってはそれが嘘だと感じる。
 譜面通り弾けたところで、人が感動するほどの演奏など出来るはずがない。

 きっと彼女は感受性が強すぎたために、楽譜の世界に飲み込まれていたのだろう。
 そうしていくうちに彼女の中の自我に亀裂が走り、事故によって全てが崩壊した。
 なんで早く気づいてあげられなかったんだろうと、今更になって修也は後悔した。

 それでも、もう時は戻らない。
 今、修也に出来ることは彼女の弾いたヴァイオリンを生かし続けることだけが、彼女への弔いになるんじゃないかと考えていた。

 隣を見ると、星宮は寝息を立てながら深く眠ってしまっている。
 以前、まだ瑞葉が生きていたころに弾いたヴァイオリンのデモ音源を星宮に聞かせたことがあった。
 瑞葉の話を持ち出すと、不貞腐れるくせに、いざその音色を聞くと、「凄い」と小さく呟いていた。
 星宮も十分にピアノは上手いはずなのに、その彼女に「凄い」と言わしめるのは、さすが天才と言われるだけあるなと頷いた。

 日本に帰国するまであと9時間はある。
 修也は頭の中に五線譜の弾かれた譜面を開いた。
 そして丁寧に一つずつ音符を書き足していく。

 家に着いたらまずこれを完成させよう。
 今これを弾くのはヴァイオリンではなくて、ピアノになってしまうけど、そんなことで瑞葉は怒らないはずだ。

 タイトルはどうしようか。
 そうだな、これは君へ宛てた手紙だ。
 どうか受け取ってほしい。
 修也は譜面に走るようにタイトルを刻んだ。

『―――エーアステ・リーベ  初夏の初恋』

おわり。


◆あとがき

新年が明けましたが、年始早々、緊急事態宣言の発令準備で社会全体が緊張しておりますね。
この作品はあくまでフィクションとなりますが、このようなことは誰にでも起こりうることなのです。
今、このように執筆をしている私も、日々、医療現場で細心の注意を払いながら仕事をしておりますが、明日にはウイルスに感染してしまうかもしれません。
そんなことを考えていると、やはり、「明日もまたやってくる」なんて呑気なことは考えられないのです。
それは自分でなくとも、自分が思う大切な人に対しても同じです。
こういう時だからこそ、日ごろの感謝というものは忘れてはいけないのかもしれません。
私がこのように執筆できているのも、皆様の応援があってこそです。
皆様も、「ありがとう」とたった5文字の言葉を言いそびれて後悔しないよう、口にしてみてはどうでしょうか。
手紙なんて書けると、きっと喜んでくれると思いますよ。

あなたの時間も私の時間も、かけがえのないものです。
皆様が前に進んでいけることを祈っております。

静 霧一

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