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【短編小説】綿帽子、夜に揺れる。


 僕らはいつから隔たりを作ってしまったのだろうか。
 薄いビニールが1枚、僕らの姿を滲ませ、盲目にさせていく。

 たった0.2mmの厚さで僕らの生命を守ろうだなんて、少しだけ心許ない気がする。

 そんな厚みがあろうがなかろうが、すべては他人事。
 そうやって僕らはそうやって油断するのだ。
 そう、僕も君も。

 気が付いた時には手遅れであった。
 音もなく近づく怪物は、すぐ近くにまで僕らの首筋に手を伸ばし、今にもその喉を潰そうと暗闇の中に紛れている。

 平和ボケした僕らは、そんな災厄はどこかの誰かのフィクションであって、交わることのない別の世界線の話、電車の中で揺れながら読む小説の中のお話だとばかり思っていた。

 なんて 呑気な生物なんだろうか。
 だから、人間は過ちを犯し、間違いを改めず、そして自滅する。

「なんて、無力なんだ」
 ビニール越しに叫ぶ声は空気を劈くが、それは何もなかったかのように、また無音が訪れる。
 涙を流しながら、僕は横たわる君をただただ見つめていた。

 ◆

 電車越しに見る夜景ほど、見るに堪えないものはない。
 なんせ、その窓には自分の疲れた顔が反射して、見たくもない現実が映っているからだ。
 3年間、僕はその嫌な夜の電車に揺られ続けた。
 だが、そんな嫌な思い出も、今日のためにあったんだと思えるほど、僕は夜の電車に揺れていた。

 いつもならいるはずのない君が、今日は隣にいるのだ。
 僕らは社内恋愛で付き合い始めて1年、ようやく同棲を始めた。

 そして今日、初めて僕らは一緒に電車に揺られた。
 車窓に映った僕は、いつもの疲れ顔なんかではなく、どこか幸せそうな、そんな解れた顔をしていてだらしないなと思ったことはいまだに覚えている。

 そんな代わり映えのない日々が永遠に続くものだと思っていた。
 僕たちはいつからか、痛みというものに鈍感になっていた。
 平和で穏やかな日々は人の感覚というものを緩やかに麻痺させていくことに、僕は見て見ぬふりをした。

 未曾有のパンデミックが世界を混乱の渦へと巻きこんでから早いもので1年が経過しようとしている。
 以前までの未知のウイルスへの恐怖心というのは慣れとともに薄れていっていた。

 それは痛みという傷が古傷へと変化していくように。

 ◆

「みそ汁の味付けこれで大丈夫かな?」
「少ししょっぱいから……ちょっと出汁足そうか」

 最初は些細なことだった。
 美咲がみそ汁の味付けを間違えるだなんて珍しいこともあるんだなと僕は呑気に考えるだけであった。
 だが日に日にその味付けはおかしくなり、その異変に気付いた時にはすでに美咲の体調は悪化し始めていた。

「美咲、体調大丈夫か?」
「ちょっとだけ熱が出てるだけだから大丈夫だよ」

 彼女は肺の奥から痰が混じる鈍い咳を出し、ただただ「怠い」とだけ口ずさんでは、ベッドでごろりと横になっていた。
 それからというもの美咲の熱は上がる一方で、僕はこれはただの風邪なんかじゃなくてコロナなんじゃないかと考え、すぐさま県で設置されているサポートセンターへと電話した。

 だが、電話口に出た窓口担当者は医療知識のない人物で、4日間の熱が下がらなければもう一度連絡をくださいというマニュアル対応をされ、すぐに電話は切られた。

「くそ!なんでだよ!」
 僕は思わず閉じた黒い画面に苛ついた。
 だが、僕がいくら苛ついても、現状が良くなることはない。
 むしろ、悪いことというのは雪だるまのようにゴロゴロと転がりながら大きくなっていく。

 電話をかけたのが熱が出始めて2日後のことである。
 いくら近くのクリニックや病院に電話をかけても、「サポートセンターの指示を仰いでください」と一辺倒な回答しかせず、ついに僕は八方塞がりとなってしまった。

「すまん、今はお前を看病することしかできない。ごめん」
「いいのよ……傍に居てくれるだけで嬉しいから……」

 青白くなった細い指が宙を彷徨う。
 僕はその彷徨う指を両手で包み込むようにして、ゆっくりと包んだ。

 僕はその間、彼女の看病のために会社を休んだ。
 会社としても陽性だった場合は僕が濃厚接触者になるので来てほしくないという本音がちらりと見えたためだ。

 リモートで業務を行えれば差し支えないのだが、コストがかかるだとかリモート環境が整えづらいだとかああだこうだという上層部の戯言がそれを邪魔して、一向にリモートで業務をすることが出来ないでいた。
 そのため、業務連絡等はすべてメールか電話でのやり取りとなるため、有休をもらって休んでいるものの、電話は止むことなく鳴り続け、そのストレスはプライベートにまで侵食していた。

 彼女はその間も、ごほごほと咳をして、時折苦しそうな声で水を求めた。
 寝ても覚めても彼女がひたすらに心配だった。

 そうしてようやく4日目の朝を迎え、僕はもう一度サポートセンターへ連絡を入れた。
 熱が収まらずに体調が悪化していると伝えると、担当窓口の人が「それでは近くの大学病院へお願いします」と答えた。

 その間の入患手続きはサポートセンターに行ってもらい、僕らはタクシーに乗って病院へと急いだ。
 到着後すぐに、発熱外来として隔離された部屋へと彼女は通され、濃厚接触者である僕もそこで検査を受けた。

 僕自身は症状が出ていないものの、濃厚接触者である以上、PCR検査を受けなければいけないらしくその場ですぐに検査は行われた。
 大学病院ということもあり、最先端のPCR検査キットが導入されているおかげか、陽性判定の時間はさほどかからずに出た。

 結果は陽性。
 そしてまた、彼女も陽性であった。

 僕はそのまま自宅待機を命じられ、そのまま失意の中、帰宅の途についた。
 なにも喋らず、なにも食べず、なにも考えず。
 着ていた服を洗濯機の中へ入れ、部屋着に着替えて、ベッドに横になった。

 言葉は出ない。
 代わりに涙が、その代弁をするようにぽとりぽとりと流れ始めた。

 この時ほど、平等という言葉を呪った日はない。
 幸と不幸の総量が、皆等しくして分配されるのならば、僕は今ここで、人工呼吸器に繋がれていてもおかしくない。

 それほどまでに僕は彼女の愛に幸せを感じていた。
 何気ない帰り道に、何気ない食卓に、何気ない君の寝顔に、その全てに言葉にできないほどの幸せを。

 もし、僕に罪があるとすればその言葉にできない幸せを言葉にするべきだったのだ。
「大好きだよ」とか「愛しているよ」だとか、寝る前に彼女の耳元で囁いてあげればよかったんだ。

 きっとそうしていれば、こんな顛末にならなかったのかもしれない。

 彼女はよく、僕に「好きだよ」と言葉をくれた。
 いい大人になってまでそんなことを口にするのは恥ずかしいと、彼女にばかり言わせていた僕への罪なのだろうか。
 僕はベッドの中で喉が引き千切れるほど咽び泣いた。

「運が悪かった」

 そう思えたらどれだけ楽だろうか。
 いくら泣き叫んでも、前には進んでくれないことは知っている。

 だけど、脆弱な僕にはそれしかできなかった。
 暗い部屋でたった一人、僕は枕を濡らして力尽きた。
 
 行き場をなくした蛹のように、ベッドの上に横たわる。

 夢に堕ちるその直前、震えた指を宙に彷徨わせ、無意識にいるはずのない君の体温を僕は探していた。

 ◆

「美咲さんが非常に危険な状態です」

 4日後、それはふいの連絡であった。
 大学病院の看護師からの連絡に、僕は硬直した。

 心臓の鼓動が止まったと思えるほどに、不安が一気に逆流し、青ざめた血液を末端まで行き渡らせる。
 僕は初めて、死を予感した。
 背筋に氷のように冷たい指でなぞられたような、あの感覚。
 父が昔、心臓発作で倒れた時に感じたあの感覚と一緒であった。

 僕は急いで大学病院へと向かった。
 彼女のご両親にも連絡は入っていることを聞いたのだが、県外にいるために到着が遅くなることを聞かされた。
 最初に到着した僕は、面会を要請し、無理を言って彼女のいる隔離部屋へと入らせてもらった。
 そこへ入るのにも、青い使い捨ての防護ガウンに、シューズカバーと患者用のキャップ、そしてN95の防護マスクの完全防備を要した。

「ここまでです」

 カーテンは透明なビニールで仕切られ、僕はその前に立ち止まる。
 光の反射で歪んだ景色の中、彼女の横たわる姿が見えた。

 規則的な生体情報モニターの音がピコンピコンと鳴り続け、人工呼吸器が彼女に繋がれている。
 カーテン越しに手を伸ばそうとしても、指が震えてうまく動かない。

 現実を飲み込むことを拒否するように、喉と口が痙攣し、呼吸さえままならなくなった。
 彼女のやせ細ったシルエットは、胸を上下させるだけで、そのほかはピクリとも動いてはいなかったのだ。

「美咲……!」

 マスク越しに叫んでも、その声は彼女の耳には届いてはくれなかった。
 僕はビニール越しに立ち尽くし、「なんて無力なんだ」と呟いた。
 涙は枯れたとばかり思っていたが、彼女を目の前にして、それは突如として溢れ出した。

 ◆

 その夜、僕は夢を見た。

 鬱蒼と茂る森の中を彷徨っていて、光はどこだと歩き続けていた。
 なぜ今自分がこんなところにいるのかなんて考えもせず、ただ光のあるほうへと草木をかき分け、突き進んでいた。

 すると、遠くのほうからちりんちりんと鈴の音が聞こえた。
 あっちかと、僕は本能的にその音に誘われ、急いでそのほうへと駆け出して行った。
 だんだんとその音の元へと近づき、ついにその音源へとたどり着く。

 そこには黒い袴と着物を着た人々が長い山の中の一本道を歩いていく姿があった。
 何だろうと思い、その様子を機の影から見ていると、そこに一輪の白い花が咲いたような白無垢姿の女性が歩いていた。

 僕に、ふいにその白無垢姿の女性に寂しさを覚えた。
 彼女はいったい誰なんだ。
 そんなことばかりが頭の中を駆け巡る。

 参列が僕がいることに気付いたのか、シャンという鈴の音を止め、その場で立ち止まった。
 白無垢姿の女性の顔はよく見えなかったが、僕のほうに体を向け、何かを言った。
 声は聞こえないが、その口の動きは「さようなら」と言っているように感じた。

 その瞬間、僕は何かに引っ張られるように彼女の元へと駆け出した。
 参列が並び道まではなだらかな斜面になっており、駆けるたびに足に速さが乗る。
 そのまま僕は参列に突っ込み、すかさず彼女の手を取って、参列の進む一本道の反対方向へと駆け出した。

「急いで!」
 僕は一目散にかける。
 すると、遠くのほうに白く眩い光の点が見え、あそこだと直感すると、さらにスピードを上げた。

 今、後ろを振り向いてはいけない。
 とにかくここから逃げなくちゃ。
 僕は彼女の手を離さぬよう、ぎゅっと握りしめた。

 その手は、美咲の手の感触に似ていた。
 あと少しというところで、彼女の被っていた綿帽子がふわりと浮いて、風に流されて後ろのほうへと飛んで行った。

 その瞬間、僕は後ろを振り向いた。
 そこには黒い人の形をした何かが、「ニガサナイ、ニガサナイ」と言って追ってきていた。

 あれに追いつかれれば間違いなく、彼女は戻れなくなる。
 僕は最後の力を振り絞り、彼女を抱きかかえ、そのまま全力で走り出した。

 冷たい空気がゆっくりと背筋にまとわりついていき、まずいと思ったその瞬間、光の中へ一歩足を踏み入れていた。

 最後に光の中で、彼女は笑っていた。
 その顔は間違いなく美咲自身の顔であった。

 ◆

「ねぇ、私が死んだらどうしてた?」
「多分俺も死んでたよ」
「えー、そんなこと言わないでよ。私よりいい人なんて世界中にいっぱいいるよ?」
「美咲は一人しかいないだろ、ばか」

 病院の外に併設されているベンチで隣に座る美咲は顔を赤くして笑った。
 僕はその可愛さに思わず目を逸らした。

「なぁ、美咲」
「ん?」
「俺、変な夢見たんだよね」
「どんな夢?」
「森の中にいてさ、白無垢姿の美咲を助け出す夢。今じゃぼんやりとしか覚えてないけど、あの後に病院から連絡があってさ。"峠を越えました"って。なんか不思議な夢だったなって思って」
「なんかロマンチックな夢だね。まさか、助け出してくれたのが修也君だったなんてね」
「たまたまだよ、たまたま。でもさ、やっぱり俺はお前がすごく好きだってことがよくわかったよ」
「急にそんな恥ずかしいこと言わないでよ」
「なぁ、美咲」
「なに?」
「生きててくれてありがとう。愛してる」
「やだもう……。らしくないよ?」
「うるせぇ。嬉しいんだよばか」

 ベンチの上で手を取り合う2人の温度が上がっていく。
 指はお互いを離さぬように絡み合い、そして握り合う。

「美咲」
「ん?」
「退院したらさ、ブライダルフェアいこっか」
「え?本当?」
「あぁ、本当だ」
「嬉しい」
「俺も嬉しいよ」
「結婚式かぁ。あ、でもまだ修也君からプロポーズされてないよ」
「そう言うと思ったよ」

 僕はポケットから白い指輪のケースを取り出し、彼女の前に差し出した。

「結婚してください」

 その言葉に、数秒の沈黙が生まれた。
 思わず目を逸らしてしまったが、彼女は口元を震わせ、それを隠すように唇の端を噛んでいた。
 そして涙ぐんだその目が、太陽の光をきらきらと反射させ、彼女の瞳を美しく照らしていた。

「―――喜んで」

 そうして、僕らはまた歩みだしていった。
 この傷を優しく抱え、忘れぬようにと。

 おわり

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