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静 霧一 『五月の迷える子羊』(下)

 ※前編はこちら

 あくる日の金曜日、私は始業時間ギリギリに登校をした。
 結局あの夜はバイトの疲れもあってすぐに寝てしまったが、アラームをかけ忘れたせいか気持ちよく寝入ってしまった。

「香奈、寝坊したでしょ」
 後ろの席に座る沙也がつんつんと私の肩をつつく。
 携帯の返信があったかどうかを確認できていないために、少しばかり言葉に戸惑った。

「アラームかけ忘れちゃったよ」
 てへへと私は頭を掻く。

「そういえばケーキ見たよ!美味しそうだね、私も食べたいな」
 私にはその笑顔がとても愛おしく思えた。
 昨日のメッセージは間違ってはいなかったんだなと、心の中に安心感で満たされていく。

「じゃあ今度店長に新作ケーキ作ってもらうよう言っておくね」
「ありがとう、楽しみにしてるよ!」

 キーンコーンと始業のチャイムが鳴った。
 ガラガラと扉が開くと担任の教師が入ってきて朝のホームルームを始める。
 なんて素晴らしい朝の始まりなんだろうかと、窓の外の校庭を眺めながら、私は一人微笑んでいた。

 ◆

 ある晴れた日の土曜日の午後。ケーキを食べる約束してから約2週間が経っていた。
『宮之原駅』東口のロータリに立つデジタル時計は13時55分を表示している。
 私は喫茶店のデートを心待ちに、沙也の到着を待っていた。 
 あたりをキョロキョロとしながら、緊張に満たされる心を抑え、携帯を握りしめる。

「待った?」
 手で肩を叩かれ、その緊張がピークに達する。
 振り向くと、そこには白いワンピースにデニムジャケットを羽織った沙也が立っていた。

「ううん、私もさっき着いたところだよ」
 私は慣れた口先で小さな嘘をついた。
 心配性な私は15分も前からこの駅の木陰で佇んでいたが、そんな姿はお世辞にも見せず、私は行こっかと沙也の手を引いた。

 握った沙也の白い指は細く、か弱いものだった。
 でもそれがまた愛おしくて、その体温に触れただけでも私が蕩けてしまいそうなほどに私は片思いに溺れている。
 友情という境界を越えられないからこそ、私は今この不安定な恋情を少しばかり楽しんでいた。

「あ、香奈先輩。いらっしゃいませ」
 扉を開くと、ウエイトレス姿の芽衣がカウンターで珈琲を淹れていた。
 芽衣は後ろについてきた沙也を見るなり、ふふふと笑みがこぼれ、「少し待っててくださいね」と淹れた珈琲とガトーショコラをお客に提供しに行った。

「お待たせしました。こちらの席にどうぞ」
 私たちは通されたソファー席に向かい合うようにして座る。

「お昼ごはん食べてきた?」
「ううん。せっかくだから喫茶店で食べようと思ってお腹すかせてきちゃった」
「奇遇だね、私もだよ」
 二人で笑いながら、一つのメニュー表を覗き込む。

「どれがおススメなの?」
「うーん。このトーストサンドイッチとか美味しいよ。あ、でもこっちのオムライスも意外と美味しいんだよね」

「香奈はどっちがいいの?」
「うーん、久しぶりにオムライス食べようかな」

「それじゃあ私はサンドイッチ食べるね。香奈のオムライス一口ちょうだい?」
「いいよ。私も沙也のサンドイッチ一口もらおうかな」

 私たちはメニュー表に想像を膨らましながら、小さく笑った。
 芽衣に注文を頼むと、私は持っていたメニュー表をテーブルの端のスタンドへと戻した。

「そういえば、こうやって二人でこの喫茶店にくるのも久しぶりだね」
 沙也は思い出すようにして窓の空を眺める。

「最後に来たのっていつだっけ?」
「うーん。たしか高校二年生の夏休みだったかなー」
「あー、あの時か」
「映画見に行った帰りだったよね。観に行ったなんていう映画だったっけ」

「あぁ、これだよ」
 私は財布の中にしまった、映画の半券を沙也へと見せた。

「あーこれこれ!というかよく半券持ってたね」
「私は思い出を大切にするタイプの乙女だからね」

『海辺の君、夏の日の記憶』

 半券にプリントされたインクが少し擦れてはいたが、タイトルにははっきりとそう印字されていた。

「これどんな映画だったっけ」
「離島に住む青年が、浜辺で見た少女に恋をするって話だったかな。少女が転校生として都会から離島に越してくるんだけど、その少女が重い精神病を患っていて、それと向き合いながら青年と少女が成長して恋に落ちるって感じだった気がする」

「そうだそうだ、思い出してきた!あれ最後泣けたよね」
「うん、泣けた。あれからさ、あの映画の原作小説買って読んでみたんだけど、そっちも良くてさ」

「私はそこまで読んでないや。なんていう人なの?」
「"駒場 悟"っていう新人作家なんだって。そういえば来年の三月にもまた小説が映画化するみたいでさ、結構楽しみなんだよね」

「そっかぁ、そのころには受験も終わってるだろうし、時間空けて観に行こっか」
「約束ね!」
 そういうと私と沙也は小指で指切りをした。

「ご注文のものお持ちいたしました」
 芽衣が両手に持っていたサンドイッチとオムライスをテーブルの上に置く。

「それではごゆっくり」
 芽衣が笑顔で立ち去っていく。
 テーブルには、香ばしいパンの焼けた匂いと、ケチャップソースが入り混じり、私たちの食欲を掻き立てた。

「わぁ、美味しそう!」
「食べよっか」
 私たちは、遅くなったランチを一緒に美味しく頬張った。
 この喫茶店のランチはいつになく美味しい。アルバイトしているからまかないとしてたまに食べることもあるのだけれど、今日はなんだかその味も特別に感じる。

 美味しそうに食べる沙也を見ていると、なんだか私まで嬉しくなってしまった。
 他愛もない雑談が続きながらも、ランチをお互い食べ比べしていると、あっという間に胃袋へ収まっていった。

「美味しかったね」
 沙也が口元を紙ナフキンで拭う。

「うん、やっぱり外さないよ」
 真似するように私も紙ナフキンを一枚取り出し、口元を拭った。

「でも目当てはケーキだからね」
「楽しみにしてて。間違いなく美味しいから」
 食後のケーキに胸を膨らませながら、期待してその到着を待っていた。

「そういえばさ、高校入った時は香奈みたいな人と友達になるなって思ってなかったよ」
「ひどい言われようだな」
「だって、見た目すごくギャルなんだもん」
「たしかに近寄りがたいかも」
「なんでギャルみたいな恰好してるの?普通にしてれば可愛いのに」
「それ、一年前から言われてる気がする」

 私にとって普通というのが一番難しい。
 私は、私の中の葛藤と闘いながら生きていて、その反動が今こうして女の子の可愛いとはかけ離れた格好になってしまっている。

 昔からこうだったわけではない。気づいたら自分を騙すように外見が変化していた。
 もし私が普通なんていう外見になったら、自分の中に抑えきれない何かが破裂してしまいそうで怖いのだ。

 私だって普通の可愛い女の子でありたいとは思っている。
 だが世間一般は「女性は男性を好きになる」という概念に縛られ、同性同士の恋愛感情というものに奇異な目を向けているのが現実なのだ。
 ニュースやネットは同性愛について肯定されるべきだと、最近になってようやく認知されてはいるが、私にとってはそこらの公園で囀っている鳩の群れにしか見えてはいなかった。

 結局のところ、その声の過半数は異性を好きな人間、いわゆる常識人と呼ばれている人たちがほとんどであり、同性への恋愛感情について真に理解している人達ではないのだ。
 それは、一時的な社会の波に流される自力では泳げない浮遊するくらげのようにも思えた。

「そういえばあの猫ちゃん、どうなっちゃったんだろう」
 見た目の話題に続きを感じなかったのか、ふいに沙也は話題を切り替えた。

「最近姿見せないね。多分どっか自分の居場所を見つけたんじゃないかな」
 沙也は私たちが友達となったきっかけの猫が最近校内で見かけなくなったと凹んでいる。

 高校一年生の時、校舎裏の茂みに見つけた子猫に、私が餌やりをしていたところを沙也がたまたま通りかかったのがきっかけだった。
 同じクラスだったけれども話す機会などなかった私たちが、その子猫の餌付けによって友達同士となった。

「あの猫がいなきゃ私たち、今も知らない赤の他人だったかもね」
「猫がいなくたって、運命ってものがきっと引き合わせてくれてるよ」
「顔に似合わずロマンチックなこといいますね香奈殿」
「言ったでしょ、私は白馬の王子様を夢見る乙女なの」
「あ、こないだの好きな人の質問!結局あの教室の誰なの?」
「ん、それはね……」

「お待たせしました。食後のケーキになります」
 会話を遮るようにして、芽衣がデザートを運んできた。
 白いお皿の上に円柱のベイクドチーズケーキがこじんまりと乗っており、ケーキの横にはピンクのスイートピーが可愛らしく添えられていた。

「可愛いね。崩すのもったいないや」
「それは私も思う」
 そんな可愛らしいことを言いながら、私たちはその白いチーズにフォークを差し込む。
 ふわりとした白いチーズがフォークの上に乗り、それはまるで真っ白い粉雪のようにも見えた。

 私たちはケーキを一口頬張る。
 チーズの酸味が口の中へと広がっていき、それを優しく甘さが段々と包んでいく。
 たった一人で食卓で食べていたケーキはこんなにも甘く感じなかったのに、こんなにも優しい味だったんだと少しだけ微笑ましくなった。

 私の片思いが叶わないのは知っている。
 それが叶ったとしても、一時の幸せに埋もれるだけで、それが彼女の幸せにはなるとも限らない。
 多分、この甘酸っぱい距離感が私たちの幸せの距離なんだろう。

 私はズルい。
 友情に恋情をひた隠して、拒絶される辛さから逃げているのだから。
 友達としていれば、ずっとあなたとこうやって幸せに過ごしていけるのだから。

 私の小さな強欲が毎晩耳元で囁いては、私は夢の中へと落ちていく。
 夢の中のあなたはすごく幸せそうで、私はずっとあなたのそのか弱い手を握っていた。

 その甘い夢の続きを、ずっと見続けたいと思っている。
 だから今はこれでいいし、これからももどかしい関係のままなんだと思う。
 今はそのケーキを頬張る幸せそうな顔が見れれば、私は十分幸せに生きていける。

「どうしたの?」
「ううん。少しだけ好きな人のこと想像してた」
「あ、結局好きな人って誰なの?」
「それはね―――」

 汗をかいたアイスコーヒーの氷が、カランと音を立てた。

おわり。


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