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色葬のPalette


 「―――美術室には幽霊がいる」
 いつしか、私の通う高校にはそんな噂が立ち始めていた。

 そもそもなぜこんな噂が流れ始めたのかを私なりに調べてみたところ、放課後にいつも同じ位置に制服を着た少女が微動だにせずに毎日のように座っている姿が目撃されていたからであった。

 どうもその話は下級生、つまり今年入った高校一年生から浮き出た話であって、それが噂に噂を呼び、学校で微かに話される怪談のように囁かれていた。

 だが、所詮は思い込みによる妄想で、いずれ風化していく噂だと私は分かっている。美術室の幽霊と揶揄された少女は、上級生の間では"マーガレット"と呼ばれていた。

 美しい花に例えられてはいるが、実際は皆から愛でられているわけでもなく、好かれているわけでもない。
 毎日夕焼けを眺め、その髪がオレンジに染まっていく様子がまるでマーガレットのようだという理由らしい。

 マーガレットは私の同学年ではあるが、違うクラスの少女だった。
 私は彼女とは一度も話したことはなく、名前も知らない。

 知らなかったというには語弊があるかもしれないが、以前聞いた名前がマーガレットというニックネームに押しつぶされ、そのインパクトからか本名を思い出せずにいた。



 私の高校には選択教科なるものが存在する。
 この教科は一般受験には必要のない芸術教科があり、美術、音楽、書道のうちの3つから選択しなければならなかった。
 私には芸術センスなるものは存在しないが、3つの内の1つを選べと言われてしまえば、絵がどのようにして上手く描けるのかを知りたいという探求心だけが私の好奇心を揺り動かしていたために、選択項目には美術を選ぶ他なかった。

 選択教科は5月から開始した。
 オリエンテーションなどはなく、いきなり実技から入るものだから、絵心のない私は少し戸惑いながらも一生懸命授業に取り組んだ。
 最初の授業は木炭を使った、石膏像のデッサン。
 指先が黒く汚れながらも、何度も色を重ねてはぼかし、重ねてはぼかしを繰り返し、陰陽をつけながら立体を出していく。
 どうも私にはマシな絵心があったようで、皆の出来上がった絵よりも少しだけ出来栄えは良かったものの、素人にしてはというレベルであって、私が感動した絵には遥か遠く及びもしないものであった。

 私はこの授業が始まる前、1年前に行った妹の絵が展示された絵画コンクールに行ってからというもの、それになぜだか感化され、気づけばその日を境に、様々な絵の描き方教本を買い漁り、スケッチノートにとにかく身近な物や風景画を何枚も何枚も描いてはいる。

 だが芸術という分野はそう簡単に上達するわけでもなく、私の行っているのは写実であって、どうもオリジナリティというのは一向に芽を出すことはなかった。

 絵を始めて数か月という時点で、オリジナリティという言葉を出すこと自体おこがましいのかもしれないが、素人というのはどうも憧れに生き急いででも近づきたいという焦燥の病に罹患するようで、私のその罹患者の一人になっていた。



 私の頭からマーガレットという単語がちょうど消えかかっていた6月のこと。今でも赤い夕陽が綺麗放課後の出来事であったことを、未だに鮮明に覚えている。

 特に部活動に所属していない私は、今日も家でデッサンに励もうと授業が終わるとせっせと帰り支度をして帰路についていた。
 途中、何気なく近くの公園に立ち寄り、スケッチをしようかと思い、ベンチに座り込んだ。
 がちゃがちゃとカバンの中身を漁ったが、どうも私はスケッチに必要な筆記用具をそのまま学校に忘れてきたみたいで、「あっ……」という言葉とともにその場で落胆した。

 無いものはいくら探しても無いわけで、私は自転車で15分ほどの距離をゆっくりとしたペースで漕ぎながら戻った。

 学校に戻り、自身の教室のある2階まで上がっていくと、そこには空になった教室だけが立ち並んでいた。
 あまり放課後の誰もいない教室に立ち寄らないものだから、私にとってはいつも騒がしい教室が静寂に包まれているという状況にステップを踏みながら少しばかり踊っても見たい気分になったが、誰かに見られては一生の恥になりかねないとその気持ちを抑え、そそくさと自身の机の中から筆記用具を見つけ出し、カバンの中へと詰め込んだ。

 ふと窓のカーテンレースを広げ、校庭を見下ろすと、サッカー部や陸上部が汗を流しながら部活動に励んでいる。
 その姿にカッコいいなと思ってはいたが、如何せんあの大声でハキハキとした体育会系の雰囲気は私には馴染まない。

 遠くから眺めるぐらいがちょうどいいのだ。
 そんなことを思いながらぼんやりとしていると、外では町内の5時を知らせる時報が流れ、「故郷」のメロディーが聞こえてきた。

 ちょうど夕焼けが差し込み、教室内が真っ赤に染まった。
 私はその赤を見ると、はっと美術室のことを思い出した。

 今ならまだマーガレットはいるだろうか。
 私は急いでその教室から駆け出すと、3階の隅にある美術室へと走り出した。ものの2分ほどで美術室の前には到着したが、その扉を開けるのに少し緊張する。

 先ほどまで、どうしても会いたいという気持ちが昂ってはいたが、いざ扉の前に立つと、好奇心の表裏にある恐怖心がせせりあがり、私の手を震わせるのであった。
 私はそんな恐怖心に負けてたまるかと、引き戸の取ってを指でつかみ、ガラリとその扉を開けた。

 開けた先には、私の想像通りのマーガレットがいた。

 汚れのない白い制服に、黒く綺麗に伸びた髪。
 白い肌とのコントラストがその人物の儚げな美しさを映し出している。
 マーガレットは窓の外、陽がゆっくりと落ちていく様を、椅子に座りながらただじっと眺めていた。

「あ、あの……!」
 私は震える口で、窓の外を見つめるマーガレットに声をかける。
 彼女はゆっくりと私の方へと振り向いた。

「珍しいですね。こんなところに人が来るなんて」
 その口調は優しくも、どこか氷のような冷たさを感じた。
 私はその一声にたじろいだが、その場から逃げることはしなかった。

 なぜ、いま私はこの美術室に来たのだろうかと、ふと、そんなことが頭を過る。
 その理由を考えてみれば、あまりにも不明瞭で、曖昧であって、何が言いたいかというと、「直感」というにわかに信じがたいものを私は信じてしまった。

「あなたは……なんでこの時間に美術室に……?」
 ごもごもとしながらも、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
 どうも私の悪い癖で、人に恐縮するとすぐに十分すぎるほど丁寧な敬語を発してしまう。

 1秒、2秒、3秒。
 たった数秒の沈黙が、不安という間を空けていく。

 私は今までの人生の中で、これほどまでに1秒を長く感じたことはない。1秒というコマの中に、不安という鉛のような泥が蓄積していく感覚は初めての経験であった。

「ここから見る夕焼けが好きなのよ」
 マーガレットは遠くを見つめ答えた。

「夕焼けが……好きなんですか……」
「あなたはあの夕焼けが何色に見える?」
  唐突な質問に少し戸惑う。

「赤……ですか?」
 私は、自信なさげに答えた。

「正解よ。それが普通なのよ。夕焼けは赤であって、それ以外の何色でもないの」

 私はマーガレットの言葉の意味を理解することができなかった。
 当たり前のことを言っているはずなのに、どこか違和感を覚え、それが喉に突っかかる。

 ふと、私は一歩横へと足を広げた。
 先ほどからマーガレットの体が動くたびに見え隠れしている、奥に立てられているこげ茶色のイーゼルが気になるためだ。

「見たい?」
 あからさまな行動すぎたせいか、マーガレットはそんな私の姿に苦笑しながら、体を横にずらし、描いていた絵を見せてくれた。
 少し気恥ずかしかったが、その絵を見た途端、そんな恥ずかしさもどこかへと消えていった。

 キャンバスには今まさに地平線から消えかかる夕焼けが白黒で描かれていた。それはあまりにも、細かく風景描写されていて、幾重にも影が塗り重ねられている。

「あなたはこの夕焼けが何色に見える?」
 私は無意識にその絵を見て、「赤」と答えていた。

「不思議でしょ?あなたは今まさに落ちようとしている本来の夕焼けを見て、「赤」と言った。だけど、あなたはこの白黒の夕焼けを見ても「赤」と言ったわ。それならどちらが本当の「赤」なのかしら」

「それは……どういうこと?」
 その言葉の矛盾は、いかに人間に色が見えていないかを問いかけるようなものであった。

 マーガレットの言葉の弱点を突くとすれば、「それは見る順番による錯覚」と言えなくもない。
 先ほどは、夕焼けの景色を見てから、白黒の風景画を見たために、最初に見た「赤」がそれに目に残っていたのだと考えられる。

 では、白黒の風景画を見た後に、夕焼けを見たら私は何と答えていただろうか。その答えは「オレンジ」だったかもしれないし、「白」だったかもしれないし、「黄色」だったかもしれない。

「いい?あなたにはあの夕焼けが「赤」に見えているだろうけど、私には赤には見えていない。「白」だったり、「黄色」だったり、「緑」だったり色んな色合いが混ざり合って見えているの」
 私は固唾を飲んで、その言葉に聞き入る。

「世界の色彩は、それほど美しくはないものよ」

 マーガレットは、虚ろ気な眼差しで、だけど明確な口調で、そう答えた。
 私にはあの輝きながら落ちていく夕焼けは、この世の中でも指折りの美しさがあると思っているために、その言葉に不快感を少し覚えた。

 彼女は続けて、「夕焼けというのは私たちが視ている「赤」ではなく、水の上に浮かんだ油のように、何色も入り混じって見えている」のだと言った。

 さきほどまで、少し彼女の言葉に不快感を覚えていたが、確かに私がその光景を見ても、美しいなんて言葉は出てこないだろうとその不快感が和らいでいった。

「全てが……そう視えているの?」
「そうよ。すべての色が繊細に見えているの。4色型色覚っていうのかしらね。確かに絵描きにとってそれは思ってもいないほど嬉しいことかもしれないけれども、私にとってはある意味の呪いなのかな」

「呪い……」
「だけどその呪いのおかげで、本当の色も知ることができたのよ」
 マーガレットは白黒でキャンバスの絵を撫でる。
 その目は微笑み、なにか巣の中で守られる雛のような目をしていた。

「白と黒。この2色は無限そのものなのよ」

「……無限?」
「さっきあなたはこの「黒」を「赤」と言ったわ。じゃあ、私がこのキャンバスに白と黒で海を描いたらあなたはなんて答える?」

「見てみないとわからないけど……」
「青……きっとあなたはそう答えているわ。私にはあなたの言う青には視えていないけれども、あなたの理想の青を表現できる。これって素晴らしいことじゃない?」

「そう……なのかな」
 私は、ずっと上手くなりたい上手くなりたいと、ひたすら絵を描き続けてきた。
 彼女の言葉は、そんな藻掻いている私に、一筋の光をもたらしてくれた。

「上手いだけが全てではないのよ。あなたも絵を描くの?」
「えぇ……まぁ……まだ始めたばっかりですけど」

「それなら知ってるといいわ。いい、決して色に囚われてはいけないよ」
 私は、その言葉に無言で頷いた。

 今はその意味が、正直なところあまりわかってはいない。
 今思えば、その悩みは理解されない彼女から出た、唯一の本音だったのだと思う。

 私とマーガレットは美術室で落ち行く夕日を見ながら、その美しさにただ静かに佇んでいた。

おわり。

かなり古い歌ですが、私自身が今でも好きな曲の1つです。

私たちの住む世界が、「虚飾」であると気づけるその日まで―――

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