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窓際席のアリス様 #9

―――2014年8月4日
長野県軽井沢キャンプ場

「おーい、あんまり遠くのほうにいくんじゃないぞ」
「「はーい!」」

 この日、有栖川家は軽井沢のキャンプ場に家族旅行に来ていた。
 毎年、有栖川家では夏休みの時期になると決まってどこかに家族旅行に出かけ、その年も例外ではなかった。

 有栖川家は父の敏之と母の美智子、そして双子姉妹の詩と梓の4人家族である。
 キャンプ場での昼食を取り終え、敏之と美智子は久々の夫婦の時間を寛ごうとお酒を飲み始め、その空間に居づらくなった詩と梓は近くにある沢へと遊びに行ってしまった。

「おねえちゃんおそいよー!」
「梓ー、まってよー」

 森の中を梓がスキップしながら駆けていき、詩は息を切らしながらその後を追う。
 詩は運動が苦手で、シャイな性格も相まって、あまり外で友達と遊ぶということをしなかった。だからこうやって梓に振り回されてもついていくことで精一杯になってしまう。
 そんな彼女にとっての友達は家にあるピアノだけで、音符だけが彼女の話し相手であった。

 それとは対照的な梓は、天真爛漫で傷の絶えない活発な少女で、学校では双子でありながらその性格の違いから、誰も名前を間違えることはなかった。
 次第に森の中から水の流れる音が聞こえ、「あっちだ!」と梓が叫び、急に道を外れ、右手側のなだらかな斜面を駆け下りていった。

「まってぇー……」
 詩の声はもうすでに梓には聞こえておらず、詩は必死に後を追いかけ、恐る恐る沢へと下る斜面を下りて行った。

「おねえちゃん!すごく水きれい!」
 すでに梓は膝まで水に浸かっていて、バシャバシャの水の中に手を突っ込んでは清流でを泳ぐ魚を素手で捕まえようとしていた。

 その様子に詩は釣られるも、沢の手前で立ち止まる。
 そしてその場にしゃがみ込むと、滑らかに木漏れ日を反射する中を泳ぐ小魚はなんて自由でなんだろうと、詩はその様子を観察していた。

「おねえちゃんってばー」
 梓が服をびしょびしょに濡らしながらゆっくりと詩の元へと歩いていく。
 水しぶきが詩の顔にかかり、思わず「冷たい」と反射的に両手でそれを防いだ。

「えい!」
 梓は顔に前に出ている右手首を掴むと、そのまま沢の中へと引きずり込んだ。
 くるぶしほどの浅瀬であったが、バランスを崩したせいかバシャンと音を立てて入水し、おかげで詩の服はびしょ濡れとなってしまった。

「うぅ、冷たいよう」
 詩は小さく呟いた。
 透き通る水面には自分の顔が映り、思わず詩はそれに見とれ、自分の顔めがけてゆっくりと指を突っ込む。
 指から波紋が広がり小さな波が起きたかと思えば、それはすぐに切れ、指はゆっくりと水底の石に触った。

 詩の繊細な指はピアノの鍵盤を叩くためのものであり、極力それ以外で指を使うことを禁止されていた。重い荷物を持つことだったり、料理をすることだったり、体育の授業だったり、ボール遊びだったり、それらは指の怪我に繋がると、言いつけられていた。

 日常生活を送る上では怪我をしないように気を付ければ問題はないものの、やはりそれでも自分の指であるはずなのに、それは誰かのための指であって、ただそこに指という形の肉がついているただの付属品なのだと彼女は感じていた。

 今そんな指が、美しい水の中で小魚のように自由に動き回り、水底の苔の生えたざらざらとした丸い小石を触っている。
 久しぶりに感じる自分の指の感覚に、詩は心の底から嬉しさを感じ、無心に石を触っては離し、水を掴んでは離しを繰り返していた。

「おねえちゃん!魚捕まえた!」
 元気よく声を上げる梓のほうをむくと、そこには一匹の活き活きとした鮎が彼女の手の中に握られている。
 その鮎を逃がさないようにしっかりと握りながらゆっくりと詩に近づくと、それを彼女の顔に突き付けた。

「触る?」
「あ、いや……」
 詩は抵抗したものの、人間以外の生き物、特に魚なんかは生きたまま触ったことがなかったために、心の中の好奇心はそれを抑えることが出来なかった。

 梓の手の中から鮎の頭が飛び出しており、その鼻の先を詩は指先でつつく。
 ぬめりとした粘膜みたいなものが指先の腹にぴとりとつき、生き物特有の生々しさが彼女の背中に冷ややかな悪寒を走らせた。

 詩が鮎から指を話した瞬間、何かを感じたのか、梓の手の中からうねうねと動きながら勢いよく飛び出し、清流の中へと戻っていった。

「逃げちゃった……」
 梓は顔を俯け、落ち込んだ顔をしながら沢からゆっくりと上がった。
 詩もそれに釣られ沢の中から出ると、夏の温かい風が体を撫でていき、全身ぐっしょりに濡れた詩の体を急激に冷やし、思わずくしゅんとくしゃみをした。

「戻ろっかおねえちゃん」
「うん」
 詩と梓は水で濡れた冷える体に耐えられなくなり、もといた父と母のいる温かなキャンプ場へ戻ることにした。
 沢へ降りた斜面の上にある元の道に戻ろうとするが、斜面は舗装など慣れていないため、下りは勢いで降りることが出来たものの、登るとなると非常に難しいものとなっていた。

 ただでさえ湿った土に足がとられてしまうのに、靴や靴下がぐっしょりと濡れてしまっているせいか、子供の筋力ではうまくその斜面を掴むことが出来ない。

 梓はそんな泥濘であっても、運動神経が良かったおかげか、すいすいと登ることが出来たが、問題は詩のほうで、運動などさほどもしていない彼女にとってはなだらかな斜面であってもそれは非常に厳しい崖の様相をしていた。

 最初は足を踏みしめ、二歩三歩と登れてはいたが、やはり途中でバランスを崩し、後ろに倒れそうになる。
 ゆらゆらとしながらも四歩五歩と足を進めるが、斜面は上に上がるにつれ急になっていき、もはや足だけでは進むことが出来なくなっていた。

「おねえちゃん!手!手使って!」
 梓は詩に大声で伝えるが、その声に頭を横に振った。
 彼女は手を使いたくとも使えなかったのだ。
 それは手が不自由とかそういうわけではなく、母からの「手を極力使ってはいけない」というピアノの呪縛が石ころや枝の混じった土を触ることを拒否しているのだ。

 そんなことなど知らない梓は、詩の行動が不可思議にも思えたが、助けることもなくただ応援に徹していた。
 詩は残り二歩というところまで登ったが、その足はすでにバランスを取れずにプルプルと震え出している。

「あっ……」
 残りの一歩を踏み出した途端、左足がぬかるみにとられ、そのまま背中から転がるようにして落下した。
 ドタンという鈍い音ともに、詩は地面へと横たわる。

「おねえちゃん!」
 梓は落下を呆気にとられていたが、非常事態だということをのみ込み、すぐに斜面を駆け出した。
 大人にとってはなんなく登れる斜面であっても、運動を全くしてきていない詩にとっては登ることさえきつく、さらには反射的に受け身を取ることもできていなかった。

「おねえちゃん!おねえちゃん!」
 梓が詩の体をゆすると、詩は「うっ」という声を上げた。
 梓は詩の意識があることに安堵したが、どこからか底知れぬ冷たさのようなもの背中をさする。

 恐る恐る梓は詩の顔から視線を外し、下へと徐々に下げていくと、右腕の上腕部分が青紫に変色しかかっていた。
 その部分をしきりに詩は痛がり、梓はどうすればよいのかもわからず、ただその場で泣きじゃくることしか出来なかった。

 そこに偶然、幸運にもキャンプで来ていた別の家族が通りかかり、倒れこむ詩と泣きじゃくる梓の様子にただ事ではないと、すぐさまその場に駆け付け、応急処置をしてくれたのだ。
 すぐさま父と母のもとへと連れていき、詩は救急車で病院へと搬送された。

 この日、詩はピアノを弾くはずの繊細な指を失った。
 楽しいはずの仲睦まじい家族旅行が、この事故をきっかけに有栖川家の人生を少しづつ狂わせていった―――

(つづく)

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