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『No Rules』熱狂は創造を作り出す

私は、『熱狂』に恋焦がれている。

私自身、働くことは嫌いではない。
この世に存在しない価値を生み出し、顧客に予想外の付加価値をもたらすことが出来るからだ。
この感情を誰かに押し付けようとは思わない。
なにせ、これは私自身の自己満足に過ぎないからだ。

私の一つの小さな組織に所属する身ではあるが、『井の中の蛙、大海を知らず』ということをひどく痛感している。

それもこれもこの本に出会ってしまったからだ。

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まるでフィクションの読んでいるかのようであったが、これは現に実在する会社のお話だ。
つい数年前まで名前も知らないような会社が、気づけば世界の覇権を取っているというストーリー。
まったくといっていいほどに、馬鹿げた話だ。

『自由こそが正義』
日本では、曖昧にそんなことが信じられている。
確かに規律とは息苦しいものだ。
やれ経費精算の品目が違う、やれ出社時間は守れ、やれ休みは連休を取るな。
就業規則に乗る規律から、見えない空気の鎖に繋がれたような規律まで、日本の組織には数多存在する。

「自由であれば、もっと営業しやすいのに」
「自由であれば、もっと資料を上手くつくれるのに」
「自由であれば、無駄な会議なんてなくなるのに」

きっと、世に出て働く社会人は、そんな妄想を幾度となくしているだろう。
確かにその気持ちはわかる。
自由に憧れるのは人間の本能のようなものであるし、お金で自分を縛られることに屈辱を覚えるのも、人間の性のようなものだ。
Netflixのような大企業で、伸び伸びと働いて活躍していきたいなんて夢も見てしまうだろう。

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私は、その考えに完全に「自由っていいよな」と答えることは出来ない。
なにせ、自由とは責任と表裏一体なのだ。
Netflixは自由が保障されてはいるが、そこには能力という前提条件が存在している。
そして、能力と同等にモラルも兼ね備えなければならない。

ここで本書の一例を取り上げよう。
とあるマネージャーが部下の支出(経費)をチェックしていた。
その中の一人、ミッシェルに彼は目が留まった。
ラスベガスへの出張旅費の中の食事代という項目に、1200ドルという請求が見つかった。あまりにも、一回の食事にしては高すぎる。
その他にも、おかしな項目というのがいくつか発見され、翌日ミッシェルにそれを問い詰めた。
ミッシェルはそれについて説明もしなければ謝罪も言い訳もしない、ただ黙っていたのだ。
そして翌週、ミッシェルは解雇された。

ミッシェルは、Netflixの「自由」が合わなかったのだとこのマネージャーは語っている。
ミッシェルはのちに、他の会社で素晴らしい成功を収めている。

このように、能力がいかに高くとも、モラルの守れない人材は即刻解雇される。
Netflixはこのように、たった一人のスーパースターに自由を許すのではなく、全員に自由を許す代わりに、全員がスーパースターでなければならないという激しすぎる環境があってこそ、爆発的な成長を遂げているのだ。

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日本ではこのような環境はありえないという声が聞こえるだろう。
海外のように、ダメ人材を簡単に解雇なんてできないし、スーパースター人材に皆とは大幅に高い給料を出すこともできない。
決して、これが悪いと言っているわけではない。
良くも悪くも平等、社員同士の格差や競争を極限まで減らそうとした結果なのだと私は思う。
そもそもそれが嫌な人材は、とっとと日本という国を離れているか、起業をしているはずだ。

この会社には自由がない。
この会社は給料が低い。
そんな悲鳴を心にしまい込み、ただ淡々と日常を送っている人が大半だろう。

だが、考えてもみて欲しい。
その大半の人は、寝ても覚めても思考をしているのだろうか。
その大半の人は、一日何時間の勉強をしているだろうか。
その大半の人は、成果に責任を持っているだろうか。
その大半の人は、自分の給与が妥当だと常日頃から考えているだろうか。

私は、この問いに自信をもって首を縦に振ることは出来ない。
なにせそんな理想になろうと、必死に藻掻いている最中なのだ。
能力がないことを自分自身がわかっているからこそ、本書に登場する人材には程遠いと落胆し、本を読み、勉強を続け、牛歩ながらも前に足を出し続けている。

時に泥沼にはまり、身動きが取れないこともある。
なんて、不器用なのだろうかと、そのたびに凹んでしまう。

そんな私でも、見えてきたものがある。
それは、自由とは芸術に等しいということだ。

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貴様は何を言っているんだという声が聞こえてきそうな言葉だが、それについて説明しよう。
私たち人間の臓器の中で、最もカロリー消費をするのが脳みそである。
だからこそ人間は習慣に従い、楽をする方へと流れるように設計されているのだ。

一方、芸術とは、無限の想像を必要とする。
世界観を描くといえば聞こえはいいが、そもそも世界観の確立とは経験と教養、そしてセンスが必要なのだ。
そもそも何も考えてこなかった人に、世界観もクソもないわけだ。
そして数多ある芸術分野から、自らの世界観を描き出せるものを選び出し、そして数多ある製法から、表現方法から、それらを選択して、自分自身で答えを作り上げなければならない。

たいていの人間は、世界観を確立するまでに生涯を終える。
そこまで行きつくのに膨大な思考量とエネルギーが必要だからだ。

自由とは、いわば選択肢が用意されていないということだ。
自らその選択肢を作り上げなければならない。
規律には、あらかじめ選択肢が用意されている。
「こうしなさい、ああしなさい」と言われれば、嫌々やったとしても、その責任はすべて規律に依存している。

だが自由とは、自らが選択肢を作り上げる代わりに、自ら責任を負うということなのだ。
だからこそ、人は皆、規律に守られている。
それを認識できないからこそ、平和ボケと揶揄されてしまうのも、今では頷ける。

本書では、自由と同等に、責任を求められることを幾度となく言及している。
もし今、在籍している組織に不満をため込んでいるのなら、自らが選択し、自由を追い求めると良い。
大半の人は、責任という言葉にしり込みをしてしまうだろう。

だが、一歩踏み出してしまえば、どうってこともない。
なにせ、自由には熱狂が連れ添っている。
熱狂はいつだって私たちの味方だ。

自由は芸術。
熱狂は創造。

私たちは、そのために、自分自身の刃を磨くことを忘れてはいけない。
自由とは、終わりではなく始まりに過ぎないのだから。

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