ヒルデガルトの小径|巻頭エッセイ|江口理恵|愛と英知の創造力
ミレニアムという新世紀前夜の1990年代前半、不思議な社会現象が起きた。スペインの名もない修道士たちが歌う『グレゴリオ聖歌』のCDが世界的に大ヒットしたのだ。単旋律のシンプルなチャント(詠唱・聖歌)が日本でも「癒しの音楽」として異例の20万枚のセールスを記録した。
時をほぼ同じくして、中世ドイツのヒルデガルトという名の修道女が作曲した音楽を、米国の現代作曲家がビートに乗せて編曲したアルバム『VISION』 も人気を博した。バブルがはじけ、不穏な空気が漂う世紀末にこのような音楽の台頭は必然だったのかもしれない。
当時それらのCDを発売したレコード会社に勤めていた私は、音楽を通して初めてヒルデガルトの存在を知った。今でこそ多数の関連書籍や音源に手軽にアクセスできるが、インターネットが一般に普及する少し前の話だ。海外から届いた欧文のライナーノーツやプレス資料を頼りに自分たちなりのヒルデガルト像を模索する中、アルバムの題名の、彼女が幼少期より体験したVISION=幻視もキーワードには違いないが、どうやらこの修道女は思った以上にスケールの大きい、興味深い賢者だったのではないかと確信した。
77の聖歌や宗教音楽劇を遺し、時代を先取りするかのような変化に富んだピッチや旋律を駆使して独自の路線を確立したヒルデガルトは世界最古の(名の知れた)女性作曲家といえよう。一度聴くと忘れられない少し風変りで耽美な旋律が彼女の持ち味だ。
CDの解説書には、楽曲解説と含蓄のある歌詞の他、サファイア、ルビー、琥珀、薔薇、ラヴェンダーやバジルなどを使ったヒルデガルト流の治療法の魅惑的なメモが散りばめられていたのだ。これは、ただごとではない!
ヒルデガルトが生まれた1098年の翌年、第一回十字軍が聖地エルサレムを奪還し、ドイツにスパイスや布、植物などの新風がもたらされた。8歳で修道院に預けられたヒルデガルトは、修道院の農園や薬草園で植物や動物に親しみ、施療院では鉱物の知識を活かして医術も開拓した。
聡明なヒルデガルトは修道院長としての役割を果たしながら、あらゆる物事を熱心に観察して膨大な知識を蓄え、庭園や森で実際に汗を流して手を動かし、数百種類の植物、動物、鉱物を研究し、私たちが日々何気なく楽しんでいるハーブティーやアロマテラピーをはじめ、現代の薬草学や医学にも通じる礎を築いた。
ヒルデガルトのあらゆる活動の根底に流れていたのは神への愛にほかならず、紆余曲折はあったものの、時の教皇や国の指導者にも認められて多くの人々の心の拠り所となったのだろう。
この度のグループ展『ヒルデガルトの小径』は、21世紀の今にふさわしいアップデートされたヒルデガルト像が、12組の創造力豊かな作家により表現されている。
くるはらきみ&霧とリボンという、「現代のヒルデガルト」ともいえる二人の賢者によるキュレーションが、全く新しいヒルデガルト像の出現を予感させる。
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