見出し画像

昔の子ども 今の子ども

昔から学校行事が嫌いだった。特に中学生の頃は最悪。修学旅行なんて狂気の沙汰。ルールもモラルもあった世界ではない。野生動物の群れに混ぜられる苦痛で、行く前から早く終わってほしいくらいだった。

こんな意味のない行事にわざわざ時間と費用と面倒を掛けてやらないといけないのか不思議だった。

運動会も酷かった。これは小学生の頃から嫌いになった。あるある話のひとつかもしれないが、駆けっこ競争で障碍者の車椅子の子を待って、一緒にゴールするシーンを見て反吐が出そうになった。

まだ小3くらいだったが強烈な違和感を感じていた。この感情をきちんと表現できたのは中学生になってからだけど。

こんなことを皆にさせて、障碍児の子は本当に嬉しいかなぁ。率直に思う。そんなに差をつけたくないなら、運動会なんて最初からやらなければ良い。ついでに学力テストも不要に決まっている。

その障碍児は筋ジストロフィーという病気だったらしい。個人的に好き嫌いの感情はなく、一所懸命に生きようとする姿はリスペクトしたし、車椅子が大変そうだなと気に掛けたに過ぎない。

やがて筋力が落ちて動けなくなるその子に良い想い出を与えたい意図があったにせよ、そんな感動を強制した陳腐な寸劇は、逆に失礼ではないか。それが中学生のワシの感情。今も変わっていない。

走りが得意、力がある、勉強が好き…それぞれが個性や特性を持っているのに、結果の平等を強制することの方が罪深い。しかも、同調圧力の下で反すれば差別主義者のレッテルを貼る脅し付き。これを恐怖政治と言う。

真の差別主義者はそれをクラス全員に強制した教員自身だろうに。こんな偽善を美徳にすり替える勘違いをした教員がゴロゴロいた。

こんなことを心の底から美しいと思っていたなら人として浅はか過ぎる。美しいとは思っていないのに保身やパフォーマンスだけで生徒を巻き込むなら人として救いようのない愚か者。どちらにせよ有害な教育者である。国会議員にもこうした方々が散見されるのは気のせいか。

障碍者、健常者に関係なく、得意なことを自分で見つけたり、人からヒントをもらったりしながら、最初に目標を共有して、それに向かう努力を促して、達成させて真の自信をつけさせるのが教育者の役割ではないだろうか。自分自身でできるようにするきっかけを与えてあげるのが大事だと分かっていなかったのだろうか。

かたや、今の学校の先生は見た目以上のストレスを抱えていそうと想像してしまう。ワシにはとてもできないし、ならなくて良かったと思う。

常識のない親は間違いなく存在するし、殴りたくなる生徒もいるだろうし。

娘たちの様子を見ていると今の教育現場は昔よりは表面的には平穏に感じる。地域差もあるのだろうが。

でもこれはこれで平和過ぎるのも心配になる。中学時代のプロレス仲間と呑む度にそういう話になる。

「オレらの中学時代考えたら、今の子らはあまりに平和過ぎて社会に出てから大丈夫かなと心配になるなぁ」

そもそも子どもの数が違う。ワシらは学年に300人普通にいたけれど、娘の学校はその半分いないくらいと聞く。それでも学校としては多い部類だろうけど。

時代の違いと言えばそれまでだが、ワシらには「サバイバル」と言う感覚が根底にあった。自己主張は当たり前で、色々な意味で逞しくないとやっていけなかった。綺麗事だけでは通用しないことも学べた。それでも社会に出てから相当にガチガチやられたと言うのに。

果たして、昔の子どもだったワシらが幸せだったのか、今の子たちがより幸せなのか何とも言えない。

もしかしたら、世代ごとにずっとこんな風に言われ続けてきていることかもしれないけれども。