牟岐の海(終)
まだこの場所に居たい…そんな想いに駆られながら、あと少しの時間でまたあの線路を逆に戻っていかなくてはならないことが頭によぎる。
民宿のおじさんはこういう出会いと別れを繰り返しているのか、淡々とミニバンに目を向けている。
少しばかり夏が向こう岸に見えては、駅までの道には陽炎が立ち上る。
この光景に次に出会うのはいつになるかなんて想像もつかないまま、少し疲れが見えてきた車中に蝉の鳴き声だけがこだました。
見る限り、駅には数人の中学生しかいない。まばらですぐにでも記憶できそうな時刻表。
民宿のおじさんはもう戻って行った。
こういう場面はこれくらいで丁度良い。
気動車のエンジン音を靡かせてきた列車に乗った。席など余り放題なのに律儀に座るのに理由もある訳もない。
皆、瞼を閉じて眠りについている。
ワシだけが、夕暮れには少し早い海辺を眺めていた。
記憶は海辺の風景がなくなった辺りまで。意識が戻ったのは、乗り継ぎ駅のホームアナウンスからだった。
あれからもう40年近い月日が流れた。
あの牟岐の海、今は明石大橋も通って、あの時ほどの長旅にはならなくて済む。
でも、不思議と行けてない。
もうあの民宿はさすがにないだろうな。
今年も結局、行けず終いだった。
でも、2人の娘に教えてあげたい。
親父にもお前たちと同じようなケツの青い頃があって、ちょっとした夏の思い出を持っていることを。