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男と女

ほぼ毎日のようにジムで汗を流す。かなり昔より動きやすい身体には近づいたが、それでも全盛期には及ばない。

ちょっと頑張れば翌日には身体のパフォーマンスが落ちたと実感する。まだ歳のせいにはしたくないのだが…ジレンマ。

ジムではクロストレーナーという有酸素運動に励んでいる。マシンにテレビモニターが付いていて気を紛らわせるには都合が良い。

家で普通にテレビを見ることはほとんど無いけれど、マシンに映るテレビで女性管理職の割合を高める目標の特集をやっていた。

スマホで好きな音楽を聴きながらなので、テレビの音声は聞いていないけど、字幕でだいたい内容は理解できた気がした。

ワシは男として生を受けたが、多分、男尊女卑ではない。だからといって、男女平等をわざわざ唱えることもない。

確かクォータ制の話題だったか。女性管理職を増やす数値目標を掲げる時点で、すでに平等の前提が崩れているのだ。

男女は生物上の役割の区分であり、人には性別差以上の個体差があることに触れられないのは、実に不思議なのだ。

男女関係なく、何かに対しての趣向、得手不得手があり、それがトータルで適性と言うものになる。

男は社会に出て女は家を守る…という常識が多数の幸福に繋がるとは思わない。男性の議員や管理職が多数派なのも事実だし、歪なことだろう。男女問わず、もちろん無能もいるし、人としての資質を疑う輩もいる。

しかしながら、表面的なアンバランスを治そうと反対方向に数値目標を掲げるのは、むしろ歪なものをより歪にしてしまう気がする。

問題は形ではなく、考え方を改めることが先ではないだろうか。

男だから良いとか女でないといけないという白黒の選択ではなく、男女の差よりも個体差で考える土壌が必要なのだろう。すでに男らしさ、女らしさは万人の共通観念と言えないではないか。

踏まえておくべきは機能の違いがあることだけで、性別による能力差はない。

賢い人は賢いし、ズルい人はズルい。無責任な人は無責任だし、誠実な人は誠実だ。

むしろ、そんな目標を社会全体で掲げるのは女性に失礼ではないか。

本当に意欲があって、能力も高い女性なら組織で評価も受けるし、相応の報酬も得られる。

評価も与えず、報酬も不満なら、働く場所を替える努力が必要と言うこと。職場そのものを変えようとする努力をするなら自分だけで起業して職場を作った方が多分早い。これは女性に限った話ではなく、男性も同じ。

女性だからハンディをください…男だからハンディをあげなさい…というマインドは、むしろ真の平等からは逆の矜持であることをハッキリさせた方がいい。ハンディは思いやりとは意味が違う。

そのうち、レディファーストなんて言葉が差別用語に変わるかもしれない。ニューハーフなんて放送禁止用語扱いだろうね。

ワシは古い人間だから、妻から女の怖さを教わった今でも、女性を守りたいという独りよがりのダンディズムを捨てたくはない。実際には守られていたとしても(笑)