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掌編小説【残照】

お題「手ざわり」

「残照」

「まぁ、ご親切に。ありがとうございます」
駅の階段でシルバーカーを重そうに引きずりあげていた白髪の老婦人に、軽い気持ちで「手伝いましょうか」と言って持ってあげただけである。ぼくにとってはたいした重さではなかった。だが老婦人は階段の上まで来ると、喜びにあふれたくしゃくしゃの笑顔でぼくに礼を言ってくれた。それだけでもぼくはなんだかとてもいいことをした気分になれたのだが、老婦人はさらに手提げ鞄をゴソゴソと探り、ちいさなポチ袋をぼくに手渡そうとした。

「これ、よかったら」
「え、いや、とんでもない。必要ないですよ、そんな」
ぼくは慌てて言った。お金なんてもらえない。
「うふふ、お金じゃないのよ。ちょっといいものなの」
老婦人はほっそりとした手を口元に当てていたずらっぽくクスクス笑った。お金じゃないならなんだろう。ポチ袋はかすかにふくらんでいる。
「ね、おじゃまなら捨ててくださいな。たいしたものじゃないの。ご親切な方にね、時々差し上げるの」
老婦人は、ぼくの手にぎゅうぎゅうとポチ袋を押し付けると「じゃあね」と微笑み、カートを引きずって去っていった。

懐かしいな、と思った。昔近所のおばちゃんもぼくの手にぎゅうぎゅうと飴玉など押し付けてくれたものだ。時には飴が溶け始めていてベタベタと手について困ったこともあったっけ…。ぼくはしばらくその懐かしい「ぎゅうぎゅう」感を老婦人の手のぬくもりとともにあじわっていたが、そういえばこれには何が入ってるんだろうと、あらためて手の中のポチ袋を見た。

それはつるつるとした厚手の紙で、使い終えたカレンダーで作ったのだろうか、海の写真の一部だった。ぼくの祖母もそうだったが、昔の人はチラシなどもムダにしない。メモ用紙にしたりゴミ箱を折ったりするのだ。ぼくは再び郷愁に浸りかけたが、その前にポチ袋を開けてみた。
出てきたのは小さなボタンだった。

白くて、ふんわりと光っている。傾けると虹のように光り方が変わる。貝ボタンだ。形はオーソドックスで真ん中に穴が四つ空いている。ぼくは自分のジャケットのボタンを見た。形も大きさもほぼ同じだが、ただのプラスチックだ。それに比べると老婦人がくれた貝のボタンはとても美しかった。
「ちょっといいもの」と老婦人は言った。ほんとうだ。ぼくはクスリと笑った。海のカレンダーで作られたポチ袋に入った小さな貝のボタンなんて、とても粋だ。

ぼくはあらためて指先で軽くこすり合わせるように感触を確かめた。すべすべとした優しい手ざわり。ボタンをしみじみと眺めて触るのも久しぶりだ。いつもはただ、あわただしくはめたり外したりするだけだから。
ぼくはいったんボタンを袋に戻しかけたが、思い直してもう一度手の平にコロンと取り出した。ボタンがふわりと光る。老婦人のちいさくまとめた真っ白な髪が目に浮かんだ。

ふと、先週恋人がくれたブランドもののネクタイを思い出し、それに比べて自分が目の前のボタンの方によほど魅かれていることに苦笑した。そんなこと彼女にはとても言えない。
老婦人の暮らしには、こんな「ちょっといいもの」がたくさんあるのだろうか。ぼくは手の中のボタンをさわりながら想像した。
「今日の夕ご飯はちょっといいものよ」いたずらっぽく笑いながら老婦人が言う。
「へえ、なんだろう。たのしみだな」にこやかに答えるぼくは想像の中でおじいさんになっていた。木の椅子に腰かけてエプロン姿の老いた妻を眺めている。その幸せな感覚…。

ぼくはハッとした。これじゃまるで恋じゃないか。
ぼくは苦笑いしてボタンを袋に戻してカバンに入れた。ありえないよ、おばあちゃんに恋なんて。バカげた妄想だ。彼女が聞いたら鼻で笑うだろう。
しかし、駅前に出て暮れかけた空に三日月を見つけた時、ああ、やっぱりこれは一目惚れの感覚だよなぁ…と、なぜだかしみじみとわかってしまった。胸に手を当てると、ぼくの心はぼくにうなずいていた。滅多にないことが起こったのだ。相手は老婦人だけれど。

ぼくはもう一度ボタンを取り出して手ざわりを確かめた。すべすべとした滑らかな感触。
ボタンに反射したやわらかい夕暮れの残照が、老婦人のいたずらっぽい微笑を思い出させた。

おわり (2021/10 作)

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