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SS【追憶】#シロクマ文芸部

お題「街クジラ」

【追憶】(770文字)

 街クジラを見つけた。
 クジラとは鯨の髭を使った弦楽器で、最近は通りすがりの誰もが自由に演奏できる『街クジラ』が人気だ。その一つが近所にも置かれたらしい。

 クジラは昔から子ども達の定番の習い事で、私も教室に通っていた。しかし上達までの道のりは長く、途中で挫折する子も多い。それでも私は、地味にコツコツ練習するのが好きだったので、かなり長続きした。
 今はもう弾かなくなって久しいけれど…。

 クジラには懐かしい思い出がある。
 歌の上手な小さな妹が、私のクジラに合わせてよく歌ってくれた。
「おねえさま、おねえさま…」
 きれいな声だった。

 クジラ、久しぶりにちょっと触ってみようかしら。ふとそんな気が起こる。一緒に歌ってくれる妹はいないけれど、今は誰も見ていないし。

 みょおーん、みょおぉぉん…。

 ああ、そうそう、この音。
 奏でられた音は泡になり、光りながら海面の方に昇っていく。
 でもその様子が私の中の悲しい記憶を呼び覚ます。それが辛くてずっとクジラからは離れていたのだった…。
 しかし、それももう百年以上前のことだ。憎い王子もとうに死んだ。
 恨む相手もない。

 私も明日で百八十歳。還暦の祝いに親類縁者も集まる。いつものことだが、皆が集まれば末の妹のことがまた話題に上るだろう。
 恋を失い海の泡となった、哀れな妹のことが。
 でももうその話はやめにしてもらおう。
 今の私は、愛しさも悲しさも憎しみもすべて、溶け合ってしまっている。

 みょおぉーーーん…。

 街クジラの悲しげな音が、可愛い妹の笑顔を呼び覚ます。
「わたし、おねえさまのクジラの音、好きよ」
 弾むような明るい声で言った、そんな言葉も。

 明日、みんなの前でクジラを弾いたら驚かれるかしら。
 想像すると微笑みが浮かぶ。
 そうよ、もっと前から弾いてあげたらよかった、あの子のために。
 私は街クジラを珊瑚礁の影にそっと立てかけると、その場を離れた。


おわり

(2023/6/30 作)

小牧幸助さんの『シロクマ文芸部』イベントに参加させていただきました。
『街ピアノ』ならぬ『街クジラ』です。
雄大なクジラの姿は影も形もありませんが(;・∀・)
人魚姫のおねえさま達は、きっとあれから悲しい日々を送られたことだろうと思って…。長生きですしねぇ。悲しみの癒える日がきたらいいな、と。

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