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社会はなぜ子どもを望むのか?#07生物学編〜環世界〜

社会はなぜ子どもを望むのか?今日はドミニク・チェンさんの「未来をつくる言葉」を読んでいて思いついた環世界との関係性を書いていきます。

環世界とは

生物と無関係に外に存在する世界ではなく、生物が自己を投影した形での世界のことで、これが生物の生きる環境となるというもの。

コトバンクより

環世界は、20世紀にドイツの理論生物学者、ユクスキュルによって提唱されました。
環世界の対比として、「環境」が挙げられます。環境は、主体とは異なり客観的に存在しているものです。英語の”environment”は包み込むもの、ドイツ語の”umgebung”は周囲に与えられたものとして理解されます。
一方で「環世界」は、主体が積極的に作り出すものだとユクスキュルはいいます。

生物から見た世界

ユクスキュルは、著書『生物から見た世界』で、人間・犬・ハエである一つの部屋の捉え方がそれぞれ異なることをひとつの絵を用いて紹介しています。

その絵は上記のnoteに解説とともに書かれていますので、参考にしてください。
簡単に説明すると、絵に描かれているのはリビングダイニングのような空間です。ダイニングテーブルとチェア、食べ物、ソファ、本棚、ランプなどがあります。
人間は、この部屋を全体として捉えます。
犬は、食べ物と座れるもの(チェア、ソファ)、それ以外は障害物として捉えます。
ハエは、食べ物とランプ以外、歩行のトーン(移動可能な範囲)として捉えます。

ユクスキュルは、生物が独自の知覚と感覚を持っており多様な環世界があると考えました。ここから私たちの行動は物理反応ではなく、環世界によるものだと言えるのです。

人間と環世界

ユクスキュルは生物の視点で環世界を説きましたが、私は人間においても環世界があると思います。ここでは人間の環世界の多様さを記していきます。

冒頭で紹介したドミニク・チェンさんの「未来をつくる言葉」では、彼の環世界の経験が語られています。

彼は英語、フランス語、日本語、3つの言語の話者です。それぞれの言語で話しているうちに、人によって見えている世界は違うのではないか、つまり言語の環世界があるのではないかと思うようになったそうです。

確かに、ポーランド語がわからない私がポーランドに行ったとき、どこか違う世界に来てしまったような気がしました。10%くらい意味のわかるスペイン語を話すアルゼンチンで、英語でコミュニケーションをとっている自分と日本で日本語を話している自分は違う気がします。

同じ日本語でも、会社で社内用語が多すぎて全く理解できない会議が今でも山ほどあります。でも、5年も働くうちにだんだん慣れてきています。

このように人間の世界においても、それぞれが違う環世界を持っているのではないでしょうか。

子どもと環世界

子どものいる方から「こっちの世界においでよ」というフレーズ、一度どこかで聞いたことはないでしょうか。何気なく使っているであろうこの言葉、本当にあるかもしれないと思うのです。

ドミニク・チェンさんは、著書の中で自身のお子さんが生まれたとき、いずれ訪れる自分の死が予祝(※)されたように感じたと記しています。子どもの出生が始まり、自分の人生が一度終わったような感覚でしょうか。それはある種、もう一つの環世界が開けた瞬間のように思われます。

自分の死の予祝がなかったとしても、子どもを持っている人と持っていない人の世界の見方は全く違うものです。例えば、今まで全く関心のなかった気候変動に、子どもを持ってから関心を持ち始めたというようなエピソードです。一人の人が持つ環世界すらも複数あるのではないでしょうか。

※予祝:あらかじめ祝うこと。元々は、豊作や子宝を願って行われる神事や呪術として行われた。

もっと全体的な話をすると、子どものいる世界と子どものいない世界では全く異なることが想像できます。研究インタビューの中で、「子どもがいると動きが出る」「子どもがいると活気ができる」といったようなコメントがありました。これはまさに、前に紹介したハンナ・アーレントでいう子どもが新しいことを始める能力を持っているからでしょう。

だから、この子どものいる世界を社会が求めているのかもしれません。

まとめ

  • 環世界とは、主体が積極的に作り出す世界

  • ユクスキュルは生物の視点から、環世界が存在すると提唱した

  • 人間の視点でも環世界は広がっており、その一人の人の中にも複数の環世界がある

  • 子どもがいる世界と、いない世界で異なる世界の認識になる

  • 子どもがいる世界では「新しいことを始める能力」を持っているため、社会がそれを求める

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