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設計者から見た世界

通り過ぎていた風景

最近、妻と散歩するのがおもしろい。

何年か前から、いけばなを習いはじめた彼女は、
散歩中、道端に咲いている花をみつけては、その花の名前や植生、それはいけばなの花材になるかや、どういけたらよいかなど、いろいろと調べるのに忙しそうだ。

はじめは、"へぇ"としか思っていなかったのだけど、散歩の度にそれに付き合っていたら、僕もだんだんと道端の草花に興味が湧いてくる。

これまで漠然と通り過ぎるだけだった風景が、見るべきものへと変化していった。

なるほど。彼女はこういう世界に生きていたのか。人は、それぞれ同じ風景をみているけれど、きっとそれは、全く違ったように映っている。

そんなふうに考えると目の前の風景もまた違ったものにみえてくる。

生物から見た世界

では、このわんこ姉ちゃんからみた世界はどんなものだろうか。

そんな興味を満たしてくれるのが、この本だ。

『生物から見た世界』 
ユクスキュル/クリサート著

下記は、この本からの引用である。※1

"人間の環世界では部屋の中の対象物の作用トーンは、椅子は座席のトーン色(口絵ではオレンジ)、テーブルは食事のトーン色(ローズ色)、グラスや皿はまた別のしかるべき作用のトーン色(黄色と赤=食物のトーンと飲物のトーン)で表されている。床は歩行のトーン色をもつが、本棚は読書のトーン色(藤色)を、机は書き物のトーン色(青)を示す。そして、壁は障害物のトーン色(緑)をもち、電灯は光のトーン色(白)をもっている。"
"イヌの環世界では、(中略)食物のトーン色や座席のトーン色くらいで、そのほかはすべて障害物のトーン色を示している。"
"最後に、ハエにとっては、電灯とテーブルの上のものを除いてすべてのものが歩行のトーン色しかもっていない"

ここで使われている"環世界"という言葉は、この本の著者であるユクスキュルによって提唱された言葉で、"すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間(Umgebung、「環境」)も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。"※2

この本を読むと、それぞれの生き物にこの世界はどう映っているのか、新しい世界が開けてくるような感覚がある。

だけど、ふと考えてみると、
僕ら人間は、人によってその興味つまり"対象物"が全く異なっていて、それぞれの人が別の生き物であるかのように、それらの環世界は多様であるだろう。

ぼくたちは、漠然と世界をみることができない。そして、それぞれの対象となる部分に色がついてみえている。
僕にとって、ただの雑草だったもの。それは妻にとっては、知るべきもしくは楽しむべき対象として、色がついてみえていたのだ。

原風景による環世界の違い

そんなことを考えていると、子供の頃のある出来事を思い出す。

僕は函館の生まれで、函館の中でも街の周縁部で生まれ育った。家の近くには、僕らの遊び場となるには充分な広さの道や空き地や原っぱがあった。

ある出来事というのは、
いつものように友達とふざけながら学校からの道を帰っていると、うちのばあちゃんが僕らの通学路の脇の草むらで、蕗(フキ)を採っているのを見つけてしまったのだ。

僕らの通学路で、うちのばあちゃんが食料を調達している。そして、それがうちの今晩の食卓にあがる。その事実を隣にいる友達に知られるのは、当時の僕にとっては、ありえないほど恥ずかしかった。

函館で生まれ育った僕にとっての通学路。
だけど、函館よりももっと田舎(江差という町なのだが)を原風景として持つばあちゃんは、また別の見方をしていたのだろう。
僕らが歩行あるいは遊び場のトーンとしてみなしていた通学路は、うちのばあちゃんには食べ物のトーンして色がついて映っていた。
だけど、その異物感が、当時の僕のなかで恥ずかしいという感情に変換されたのだろう。

豊かな緑であるか、モノトーンか

ところで、最近、転職をした。東京から千葉の片田舎に働くフィールドを移したのだ。そして、扱う建物の規模も大きいもの(ビル)から小さい規模(戸建て住宅)へと変わった。

事務所の周りは、これまで働いていた東京とは違って、緑が豊かで、ふと目を奪われるような風景がそこらにある。

そんな環境で働きながら、最近思うことは、田舎の風景を楽しむことは、実は知的な行為ではないだろうかということだ。

都会では、わかりやすくエンターテイメントとして提供されたものが街中に溢れていて、それらの中からひとつ選択して対価(お金)を払えば、それなりに楽しめるという構図であるけれど、
田舎では、目の前の風景はあちらからエンターテイメントとして訴えてくるわけではない。

そこには、こちらから目の前の風景を楽しんでやろうとする知的好奇心が必要なのだ。
でないと、目の前にある豊かな緑は、ただの立ち入れないゾーンとしてあるだけで、モノトーンのままである。

そんなふうに考えると、僕らの通学路で山菜採りを楽しんでいたうちのばあちゃんは割と知的であったかもしれない。

設計者から見た世界

働く場を変えると、仕事の中で初めて経験することも多くある。

最近、はじめて"地縄張り"の作業をした。
これは、計画中の敷地に縄を張って、建物の外形をプロットし、その配置を確認する作業だ。

前の職場は大きな組織だったので、業務が細分化がされていて、僕はオフィスのデスクの上で、CADで図面を引く時間が多かったから、こうやって実際に身体を動かす作業は楽しい。

まだ建物の建っていない草むらに、縄を張っていく。3人かがりで草むらの上を走り回って、数時間すると建物の外形が形づくられた。

作業が一段落して、ふと視線を下に落とす。
すると、これまで気付かなかったものがみえてきて、はっとさせられる。

足元をバッタや蛙がぴょんぴょん跳ねていたのだ。

さっきまでこの草むらの上を走り回っていたのに、なんで気付かなかったんだろうと不思議に思う。
それと同時に、子供の頃に、原っぱを走り回って虫を採っていた感覚が戻ってくる。

僕ら設計者はこの空間を"敷地"としてみなす。だけど、ふと見方を変えてみると、そこは生き物たちの住処であることに気が付くのだ。

そして、
そうか。こういう色も見れるようでありたい。
そうなことを思ったのだ。

引用文献
※1 ユクスキュル/クリサート(1970) 『生物から見た世界』岩波文庫 p96-98

※2 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E4%B8%96%E7%95%8C

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