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The straw Millionaire strategy「わらしべ長者戦略」と題して私の研究者としての今までをお話ししました。

1:はじめに


2022年8月19日に行われた”Science and Me”というオンラインレクチャーでお話しする機会がありました。このScience and Meは熊本大学のInternational Reseach Center for Medical Scienceの主宰で若手研究者に研究者としてのキャリアパスの助言を与えるという内容でした。
 日頃、研究について発表しているので、研究用の資料は沢山あります。しかし、自分のキャリアについて話す機会は殆どないので、あれこれ準備しました。なので、ちょっと、せっかく準備した内容ですので、もうちょっと広く共有したいと思いまました。なので、このIRCMでの発表をもとに、コチラの動画を作成しました。いわば「動画版履歴書」のようなものです。このNoteはその際に作成した日本語版の原稿です。当日の講演は英語で行われましたが、もったいないので日本語でも原稿を準備しておいたのです。
 なので、こちらの動画を見ていただくと、私がどういう経緯を経て、現在、台湾の中央研究院の宜蘭にある臨海研究場で金魚を研究しているのかを少しわかっていただけると思います(以下のリンクを押せば動画をご覧になれます)。もし、「なぜ、この人は台湾にいるのだろうか?」とか「なぜ、金魚の研究をしているのだろうか?」と興味を持たれた方は、ぜひ、ごらんください。

2:確認事項

まずはじめにこのScience and Meの趣旨と私の今日話す内容について確認したいことがあります。今回のレクチャーシリーズの説明をWebで見たのですが、この説明の中に、
"…young researchers who are considering a similar career path."
と書かれていました。
しかし、前提として、私がいい見本になるかどうかはさっぱりわかりません。なので、今日の私の話を鵜呑みに信じ込むのじゃなくて個々人で消化して糧としていただけることを強く望みます。

3:わらしべ長者について

さて、今日の話のタイトルに「The straw Millionaire strategy」という言葉が入っています。これは日本語で「わらしべ長者」という意味なのです。おそらく、皆さんの中に、わらしべ長者の話を存じている方がおられる方が、ちょっと確認のためにどういったお話なのかを非常に簡単に説明しておきますね。
 このお話は、ある男の人が拾った一本のわらしべを次々いろんなものに交換していって最後にはミリオネアになるという話です。最初はオレンジ、反物、馬、豪邸という感じです。詳細はネットで探せば出てきますが、要は、最初自分が手にしたものを他人との取引を通じて価値のあるものに交換していったお話です。
 たぶん、自分の過去を振り返って今に至るまでを考え直してみると、いろんなものを交換してきた経緯あったのです。ちょっと、今回はその過程を説明してみたいと思います。

4:私の履歴

ここに私の今に至るまでに起きたいくつかのイヴェントを年代ごとに図で示しました。1973年に生まれて2017年に独立したTenure PIになるまでです。この図の左側に今まで得た経験や学んだことを書き加えるとこんな感じになります。ちょっと、図がかなりビジーになっていますが、こんな感じ。そして、これらの経験がどこでどう影響してきたのかを矢印で示したのがコチラ。もっとビジーになってしまいました。これだと何が何だかよくわからないので、順を追って説明することにします。

5:和歌山に生まれる

私は1973年に和歌山で生まれました。和歌山は日本のこの辺りです。Google Mapsで見ると海と山が見えます。小学生から高校を出るまで和歌山市内のこの辺りに住んでいたのですが、まあ、ここは紀の川があって周囲は田んぼバッカリの場所です。それほどド田舎というわけではないですが、いろんな生き物が泳いでいる田んぼが近くにあるので小学生の時はそういう生き物を見たり捕まえたりして遊んでいました。いまでも実家の近所の田んぼにいったらホウネンエビを見ることができます。あと、大体この紀の川のこの辺で釣りをしたり魚を捕まえたりしていました。
 あと、夏休みなどは祖父母の住む和歌山の南の串本で過ごしました。ここは本当に自然いっぱいのいい感じの田舎ゾーンです。親族がこの辺りに多いのです。ここで夏休みなど長期の休みを過ごしました。そして、鰻の釣り方を教えてもらったり、日本ミツバチを飼う様子を見せてもらったりして時間を過ごしていました。
 おそらく、子供の頃に、周囲で日常的に出くわした生き物や、体験が生物を研究しようというモチベーションを自分に与えたのだと思います。もともと、生き物が好きなところにこういう生の材料があふれていると、より興味や動機が強化されるのは当然かと思います。なので、小さい時に何となく「生物学者になりたい」とボンヤリと考えていました。

6:商業高校に行く

ところが困ったことが起きるのです。こういう子供の頃の生物に対する体験が強すぎたせいか、そちらにばかり意識が行ってしまって、学校の勉強に意味が見いだせなかったんです。
 釣りや山の中を歩いたりするのが楽しくて、なんでわざわざ面白くも無い勉強をしなくてはいけないのかと。あと、周囲の「賢そうなことをいう友人や大人」は決まり切ってこういうのです。「いい大学にはいっていい会社に就職するために勉強している」と。
 アホくさいわけです。こういう周囲の人間からはコスモロジーというか世界観が全く感じられなくて…まあ、年齢的にもそういう時期だったのかもしれませんが。
 そうなると、まあ、バリバリ受験勉強をして進学校に進学していい大学を目指そうとか、さっぱり考えないわけです。毎日釣り。図鑑を読んで魚の名前や植物の名前を覚える。こういう毎日を送るわけです。
 そして、中学から高校に行くことになるわけですが。問題が明らかになってゆきます。とにかく、受験勉強なるものが大嫌いだったのです。全く自分にとって意味不明なことなのです。なので、とにかく受験勉強をしなくて行ける高校を選びました。なので、地元の商業高校に行き始めたわけです。推薦入試で入れたもので。
 でも、結局、学校の勉強が嫌いなわけですから、当然勉強はしないわけです。学校は8:30に始まりますが、8:30に起床して、2時間目あたりからボチボチ出席して、お昼あたりから、ウチに帰って、近くの紀の川に釣りに行きました。まあ、滅茶苦茶な話です。でも、そこで釣れる魚の種類なんかは非常に気になったのであれこれ調べました。あと、植物の好きでいろいろ名前を覚えたりするわけです。そして、何となく、もう、小さい時から「自分は科学者になる」と思っていたのです。科学者に対する勝手なイメージとあこがれを持っていたのですね。でも、そういったところで、受験勉強なる壁がありますし、どうも、自分は、ものすごい長いお話を長い間時間かけて覚えて、記憶にとどめておくのは得意なのですが、短い時間で受験のための必要な知識を頭に詰め込んで、試験に合格したらパパっと忘れるというのは不得意だったんですよね。
 そして、商業高校のカリキュラムの関係上大学受験のための勉強はやっていないわけなので、あれこれ、自分で勉強しないといけない。これはこれで大変で、結局、高校を卒業した段階ではどの大学も受かりませんでした。なので、一年浪人しまして、近畿大学農学部の水産学科に入学するわけです。これは自分の中で非常に強い葛藤だったわけですが、なんだかんだで、この時の小学生の時代の「生物学者になりたい」という気持ちが強かったので、そちらが勝ったのだと思います。

7:大学入学後

近畿大学農学部の水産学科に入りました。で、入った当初は基礎学力の点でまあ困ってしまうわけですが、そこはなんとかストラグルしながら、改善していくわけです。その時に助けになったのは、「自分が知りたいことがこれなんだ」ということですね。具体的に言うと、水産学科なので魚やらエビやらカニやらタコやらイカやら、そういった生き物が出てくる。で、子供の頃釣りやら魚とりバッカリしていたので、そういった生き物についての有機的なイメージはすでに持っていたわけです。そうなると、皆が退屈に感じている魚類学や動物学の授業が楽しくて仕方なかった。
 これ、個々の魚の名前とか、生態とか分類とか覚えるのは人によっては退屈かもしれないですが、自分の頭の中にはこうした生き物が生き生きと動いている動いているイメージがあったので、コレが楽しいわけです。あと、生物学の実験や実習で、生き物のハンドリングに困ることはありませんでしたので、サクサクとやれるわけです。そして、体系的な知識が身についてくるわけです。そして、そのままこの大学の修士課程に進みました。それなりに実験もできたし上手に写真を撮ったりすることもできました。この時に、自分の「生き物が好き」という気持ちを「体系的な生物学の知識」に変換することに成功したのだと思います。
 指導してくださった先生たちも、しっかりした教育者の人たちばかりでした。実際、私がついた上野紘一先生からは写真撮影に関する技術を多く学びました。私が学んだ先生方の中で、美的感覚とか生物学的直観という点では、ずば抜けた感覚の持ち主でした。また、周囲の仲間たちの中にも自分よりも生き物が好きで、釣りが得意で、と自然に対する愛にあふれた連中がいっぱいいたので彼らから学ぶことも多かった。なので、この近畿大学での学部と修士の過程で、自分の「生き物が好き」という感覚が強化され「生物に対する体系的な知識」も深まったわけです。なので、当時の先生や仲間には感謝に堪えないわけです。
 あと、そういうこともあってか、心に余裕ができたのか、第二外国語の中国語は意外としっかり勉強したのです。これ、あとで効いてくるのですが、いずれにせよ、周囲に言われて「いい会社に就職するために勉強する」という雰囲気から解放されたのは良い方向に進みました。中国語の腕試しに一か月歩と、一人で中国を旅行しました。今だと、中国国内の移動はずいぶん楽になったと思われますが、私が旅した15年ほど前は結構大変だったのですが、おかげで短い間でしたが割と中国語が話せるようになっていたのです。
 なので、そのまま近畿大学の修士課程に進みました。修士に行くにも入試があったのですが、時間に余裕があったことから準備に時間を使うことができたので、自分の中では「ああ、好きな生き物(この場合は魚)に触れて研究が出来るのはいいことだなあ」と思っていたのです。
 しかし、ここで自分の問題に気付きます。「自分のアイディアをしっかりとした形にして世に送り出す」という能力に欠けていることに気が付くわけです。要はアウトプットする力が全く養われていなかったのです。自分はいろいろ生き物の名前は覚えました、それらの分類や解剖についても詳しくなりました。しかし、自分のオリジナルの考えを自力で論文やプレゼンテーションという形でアウトプットする力が全く育っていなかったのです。
 この時に自分は進化研究に興味を持ち始めており、進化学分野の研究者になりたいと考えておりました。しかし、進化の研究者になるにはしっかりとした論理的思考方法の訓練が必要で、その内容を英語で文章を書いて世に送り出す必要があるわけです。しかし、ちょっと、そういった訓練は非常に特殊な環境でないと受けられないわけです。なので、結構早いうちに動き始めて、他の大学のラボの見学などにも行ってみました。

8:試験を受ける。1度落とされ2度目で受かる

そうして、あちこち探しているうちに、三島にある国立遺伝学研究所で分子進化の研究をしている五條堀孝教授のラボに見学に行き、夏の間少しインターンとして過ごすわけです。この五條堀先生は「生き物が好き」というタイプとは全く違う方でした。ちょっと、そういう生物好きのタイプとは違って、生物を一歩引いた場所から客観的にみられるような感じでした。そして、強いプロ意識を持たれた方でした。自分のやりたいことを完全に言語化する力も考える力も無かったので、具体的にどういう研究をやりたいかについてもうまく話すことができませんでした。なので、はたして本当に自分がこの研究室にぴったりなのかは甚だ疑問だったのところがあったのです。しかし、この研究室にはプロを育てようとする環境があると感じたので、このラボで博士課程を過ごすと決めました。
 しかし、そうはいっても簡単ではないのです。何よりも入学試験が何ともならなかったのです。当時、魚の分類や生態や解剖には詳しかったのですが、私の分子生物学の知識はお粗末なものです。しかし、私が大学院の博士に行こうとしていた時代、周囲は分子生物学的な理解が大事とされていた時代だったのです。そうなると、受験の際にいろいろ聞かれるわけです。でも、そもそも、あんまり分子そのものには興味が無いものですからあんまり頭に入ってこない。当然、面接などで知識やその知識の運用力をとうような質問をされても答えられないわけです。
 2度、試験があったのですが、どうも周囲に聞くと、私の成績は、同期に受験した皆と比べて惨憺たるものだったようです。一度目の試験は不合格になりました。しかし、なぜか、2度目の試験で受かってしまいました。これも後で、聞くと、内部の先生が「分子生物学の知識は無いが魚が大事であるとう情熱が伝わってきたから入れてあげよう」と合否判定の会議で演説をぶってくれたらしいのです。結局、この時の「自然での経験」が「生き物好きです」の気持ちになって、魚類学や動物学の体系的な知識に置き換わって、理解ある人に気持ちが伝わって、国立遺伝学研究所で博士課程の学生として学ぶ機会が与えられたわけです。
 なんだか、あとで聞くと、熱い話なのです…。では、自分が気を取り直して、真面目な博士課程の学生になるかというと...まあ、基本、人間の本質はあんまり変わらないのです。この点はあとで出てきます。

9:三島にて

そして、国立遺伝学研究所の五條堀教授のラボで学生をすることになります。この教授はお忙しい人だったので、ラボにはほとんどおられなかったのですが、期待通り、研究者としてのプロフェッショナリズムについては詳しく教えてくれました。あと、私が入学した時にラボのメンバーの半分がオーストラリア人だったり、そのあともマレーシアや香港の人が入ってきて、いやおうなしに英語で話す環境が生まれました。ほかの日本人の先輩方も聡明な方々が多く、自分とは背景が全然異なる人に囲まれて過ごすことで、全然違う分野の人とコミュニケーションをする力も身についたと思います。
 そして、そんな研究のプロになるために最適と思われれる環境で、自分は真面目に毎日研究活動に取り組むかというと、まあ、そうはならないわけです。どちらかというと釣りをしてしました。あと、サンプリングですね。修士課程の時に魚類の染色体進化について研究していましたので、その引き続きを国立遺伝学研究所でもやっていたわけですが、そのために高足がに漁船にのってこの辺りにいました。結構、大変なのですが、いろんな生き物が見れてかなり楽しいサンプリングだったのです。そして、これまた、ちょっと時間ができたので船舶免許を取っておいたのです。

10:水面下で進むヌタウナギ進化学計画

そして、この三島で深海底引き網漁船での経験や船舶免許をとりながら、
さらに、ここで取れた魚を使って学位をとるわけですが、同時にある計画を進めていたのです。それは、「ヌタウナギ進化発生学計画」です。
 と、いいますのは、この三島の環境はプロになるための総合的な訓練は出来るのですが、おそらく、自分はもうちょっと、遺伝子やゲノムとは違ったことをやりたいのであろうなあと感じていたのです。なので、学会や何かでいろんな方が遺伝研を訪れる機会を利用して、次のポスドク先を吟味していました。それが、あとでも出てくるOxfordのPeter Holland研究室と、当時、岡山大学、後の理研に移る倉谷研究室なのです。そして、ここで、倉谷教授からヌタウナギについていろいろ聞かされるのです。
 彼はヤツメウナギを研究していて、完全に個人的な興味から、ヌタウナギのサンプルを持って、岡山大学の彼のラボを訪れるわけです。そして、あれこれ話を聞かされる。
 「この生き物の胚は、いままでほとんど見つかっていないので...」というはなし。そして、Bashford Deanの論文の写しを渡されます。
 まえから、ちょっと、この人のことは知っていたのです。そして、進化発生学という分野があるのも知っていました。分子進化の研究室で、染色体の進化を研究しているうちに、進化は進化でもどうも、遺伝型に寄りすぎているなと感じていたわけです。そうなると、ちょっと、微視的なものと巨視的なものがつながった世界とは違ってくるなあと。それに対して、この進化発生学という分野は遺伝子情報がどういう風に生き物の姿かたちが出来てくるか、そして、その姿かたちがどのように変わってきたかを説明しようとしている学問なのだなあということを知るところとなるわけです。
 このBashford Deanの論文を渡されて、なんとなく、眺めたり読んだりしながら、引き続き底引き網に乗りながら、サンプリングをしていたのです。学位を取りましたけれども、あれこれやり残した研究がありましたので、そのデータの補完のためにいろいろとサンプリングしていました。そしたら、卵を持ったヌタウナギに出くわしました。正確に言うとあの時のヌタウナギはクロヌタウナギとムラサキヌタウナギなのですが、とにかく、この時にヌタウナギの卵は頑張れば簡単にとれるとわかった。なので、心の中に「いつか、この生き物の発生を見てみたい」と考えるようになりました。

11:Oxfordへ

そして、結局、まずはPeter Holland研究室にポスドクとしてゆくことになります。そして、ヌタウナギのサンプルを持ってイギリスに行きました。はじめての海外の研究室での経験でした。で、このOxfordに行って、最初はあんまり英語もうまく話せない中、イギリスで一年8か月ほど過ごすことになります。で、結局、研究で取り立てて進展はなかったのですが、イギリスの人たちの研究の進め方を見て、いろいろと、ギャップを感じるわけです。
 確かに、聞いていた通り、ラボでの大半がお茶を飲んで過ごしているが、それほどガシガシ仕事をしているわけではないわけです。でも、他の研究をちゃんと分析して、効率よく自分たちの研究をしようとしている感じはしました。研究に関しては業績面ではサッパリでしたが、彼らからは「効率的に研究を進めるとはどういうことか?」を少しは学びました。

12:任期が切れそうになる

そして、ラボの皆とも、それなりに楽しく過ごしていたのですが、JSPSの任期も切れることが分かっていたのです。これはヤバいと思って、日本に帰った折をみて、先ほど出てきた倉谷さんに話を持ち掛けるわけです。日本に帰った時に倉谷さんと会って「例のヌタウナギの胚」の話を持ち掛けてみるわけです。そうしたら、ほんとにバカ見たな話ですが、そういうことをやろうという話になりました。
 しかし、まず、理研のポスドクになるにあたって、公式な面接を行うわけです。やはり、人を雇うには公式な理由がいるわけです。しかし、Oxfordであまり業績が無かったわたしを理研のポスドクにどうした理由で雇うのか?という話だったのですが、どうも、ここで船舶免許が少しは効き目があったようです。分子生物学の知識がすこしあって船舶免許を持っているひとが理研に応募してくるケースが少ないので、例外的な存在として公式な理由ができやすかったのかと思います。
 どうも、あとで話を聞くと、倉谷先生が、当時のCDBの所長に特別に頼み込んで私のためにポジションを準備してくれたそうです。ありがたい限りです。いずれにせよ、ほとんど誰もやったことのないクレイジーな研究を許してくれる人間のサポートでチャレンジできるようになったわけです。どうも、いろいろ、話を聞くと、偉くなると倉谷先生も忙しくなる、ヤツメウナギを取っていた時は自ら新潟に出向いて行って、サンプリングなどしたが、いまはそうもいかない。なので、そういう実務が出来る人間である私が代わりにやってくれ。ということでした。なので、これでナントカ、公式なJob Interviewはクリア。

13.本当のJob Interview

しかし、ここから、本当の入門試験があるわけです。それは、ボスである倉谷滋教授と一緒に映画を見るというものです。彼の住むマンションで一緒にDVDを見るわけですが、一発目の私の指定は新海誠監督の「ほしのこえ」。ありがたいことに、このチョイスには非常に喜んでください
 そして、12時間かけてこれらの映像作品を見終わりました。
とうぜん、これらの作品に対する批評や物語構造の分析なんかもやっていく訳です。
 もともと、中学、高校と勉強していなかった私は時間が有り余っていましたので、こういうサブカルの教養を身に着ける時間がありました。
なので、この手のアニメに対する事前の知識がたっぷりあったのです。
そして、RIKEN CDBでヌタウナギ進化発生学に挑みます。

14:ヌタウナギに詳しくない人に捕捉説明

これがヌタウナギ。ヌタウナギをテレビで見たことがある人は、こういうネバネバを見たことがあると思います。手足が無いし目も無いのでちょっと不思議な見た目をしていますが、これは脊椎動物の仲間です。脊椎動物の仲間は顎のあるグループと無いグループにあって、ヌタウナギはヤツメウナギと同じ顎の無いほうの脊椎動物の仲間です。
 そして、理研でこの生き物の進化発生学をやりました。当初は、先ほどの駿河湾でトライしたのですが、そのあと、場所をかえて、島根でサンプリングをしました。この時にサンプリングを手伝ってくれた漁師の柿谷さんにはお世話になりました。そして、これらの論文を書いたわけです。

15:またも任期が切れそうになる。

しかし、仕事は無いんです。もう、理研の任期が切れようとしていて、理研をでて別の場所に移らないといけないと思っていたのです。でも、若手が独立して研究をすすめられる環境というのは日本にはほとんどなかったんです。なので、また「海外でどこか研究を続けられるところは無いかなぁ」と考えていたんです。
 そういうことを考えながら、あるアメリカの学会に参加して職をあれこれ探してみるわけです。特に自分のラボを持って、研究を進めたいと思うようになる。そして、自分の発表を終えたら、一人に声をかけられて、臨海研究所に来て見ないかという話になりました。
 そしたら、台湾のこの人がヨウツウカイ氏が台湾のAcademia Sinicaに呼んでくれたんです。このAcademia Sinicaのメインキャンパスは台北にあるのですが、この臨海研究場に空いているポジションがあったのでそちらに行くことに決めました。
 この地図で示すと、ここですね。
台湾の北部の真ん中あたりにメインキャンパスがあって、この東部のここに臨海研究場があります。臨海研究場というなまえですが、それほど海からも近くないんですよね。まちからもちょっと離れています。まあ、いい感じの田舎です。
 そして、宿舎が与えられて、ここに住んでいるのですが、自宅からラボまで一分なので、研究には便利な立地です。そして、水槽もいっぱいありますので魚類の研究をする上では全く問題ありません。
 ちなみに、こういう台湾の田舎にある臨海研究場なので、買い物とかいくと周りの地元の人たちは中国語か台湾語を話すわけです。英語はそれほど通じないんですよね。でも、まあ、私はこの時にすでにある程度の中国語ができていたので、敷居が低かったのです。なので、ここに来ることに決めました。皆も暖かく迎え入れてくれました。

 おそらく、皆、私がヌタウナギの研究をやってくれるだろうと信じていたのだと思います。

16:台湾で私は金魚の研究を始める

しかし、もう、自分の中で、ヌタウナギの研究に飽きてしまったのです。そして、前々から自分の中でやってみたいと思っていた金魚の研究を始めました。この臨海研究場の周りではあちこちで魚を飼っていますので、こうした養殖業者の人たちに頼めばあれこれ魚も手に入るので材料に事欠きません。
金魚も比較的容易に購入することができましたし、飼育もできます。これらを人工授精すれば発生学が容易にできます。
 そして、近畿大学の時にアクアカルチャーに関しては少し学んでいたのと、進化発生学に関しては理研にいた時に学ぶことができたので、これらを合わせて金魚の進化発生学をやってみようと考えたのです。当然、個々にはOxford時代の「効率性について考える思考方法」であったりとか、国立遺伝学研究所時代のプロフェッショナリズムについて考えるなどの影響もありました。
 とにかく、形態学や解剖学を学んでいたのと魚類学の知識、アクアカルチャーの経験があったので、いろいろとインスピレーションが湧いてきたのです。そして、自分の中で信じていた「自然なるもの」が何であるかについても考えたかったので、金魚の進化発生学をすることにしました。

17:金魚の進化発生学

もう、いくつか論文が出ていますので、研究の詳細はそちらを参考にしていただきたいのですが。ここですこし金魚について説明します。ちょっと、真面目な研究の話です。金魚は同じ種類の中に形にいろいろバリエーションがあります。こんな感じの眼が飛び出していたり尾っぽが割れていたりするのです。でも、これ、お互いに交配ができるのです。同じ種なので当たり前なのですが。
 そして、これらの品種がどういう感じで現れてきたのかについては歴史資料を見れば大体わかります。あと、胚発生の過程を詳しく観察できるのもいい所です。おそらく、ゼブラフィッシュの研究をやったことがある人がいれば、ゼブラフィッシュと同じだと思われる人がいるかと思います。この写真に見えているのは金魚です。
 そして、この中でも、双尾の金魚に注目して研究を進めてまいりました。
左の一つ尾の写真を見てください。これ、この魚の骨格を見たら尾っぽにも骨が入っているのがわかります。この尾っぽの骨は背骨の一部なのです。この断面がコチラ。体の正中に骨格が並んでいるのがわかりますね。
 一方の双尾の金魚ですが、これ表面上二つに割れているだけじゃなくて、中の骨も二つに割れています。つまり、背骨の一部が二叉になっていることになります。おそらく、金魚以外の脊椎動物でこのような形態を持っている生き物はいないと思います。
 そして、このようなほかの脊椎動物で見られない変異が金魚の系統では大体600年ぐらいの時間の間で起きたと考えれれます。そこれで、何が起きたかを研究してみようという話になったわけです。
 ここでちょっと、当時のラボメンバーの写真を張っておきます。この一番右の黒い服を着た彼。Abe Gembu氏がこのプロジェクトで中心的な役割を果たしてくれたわけです。
 そして、結果としてchordin遺伝子が双尾金魚の形態に大事だということがわかって、いま、なんでコイの尾っぽは二つに割れないのだろうか?という研究をやろうとしているのです。
 そして、これらの疑問もまとめて、最近、書籍を出しました。高い本なので、皆さんが買う必要はないです。図書館の人に相談してください。

18:交換するということ

さて、最初に見ていただいたこのビジーな図を順を追って説明してきました。このプロセスで私は他の人と交渉しながら交換をしてきた訳です。その話をこのわらしべ長者の話になぞらえて話をしてきました。でも、なんだか、自分はうまくいろんなものを手に入れてきたように話してきました。でも、あくまでも交換なので。
 得るだけでなく失ったモノもたくさんあります。逆に言うと、すべてを得ることはできないので、何かを失うことになるのは当然です。では、何を失ってもよくて何を得るべきかが自分の中ではっきりしているかが重要なのかと思います。あまり、こういう場所では話せないことがいっぱいありますので、多くは話しませんが、個人的に興味のある人は相談に乗ります。
 でも、いずれにせよ、私の話をどう消化するかは皆さん次第です。私はかならずしも良い例ではないかもしれないので。

19:さらなる挑戦

さて、ここまで来て、PIになってしまったわけですが、次、いろいろとやりたいことがあるので終わりの前にもう少し付け加えておきます。テニュアになったら終わりかというとそうではないわけです。「挑戦は終わりなのか?」と聞かれたら「No」と即答します。
 といいますのは、私は現在、登録者数294人のYoutube クリエーターなのです(294万人じゃなくて294人)。これはもうちょっと頑張りたい。ほかにもアジア圏に進化研究コミュニティーを作るための国際会議にもコミットしているのです。これも、なんとかあと何年か続けてゆきたい。
 とにかく、人間の寿命は限りがあるので、どんだけ偉くなっても、いつかは研究を辞めなくてはいけない、そうなると、研究を辞める前に、私のこの研究で得られた経験を欲しがっている人がいるとしたら、その人とその経験をシェアーしたいと思うわけです。
 なので、いまは、Youtubeみたいな便利なSNSなんかがある時代ですので、私のチャンネルを通じてあれこれ研究の楽しい所や大変なところをシェアできないかなぁと頑張っております。そういう意味では、私はいまだにチャレンジャなのです。挑戦はまだまだ続きます。

文献:

ヌタウナギの論文

Ota, Kinya G, and Shigeru Kuratani. “The History of Scientific Endeavors towards Understanding Hagfish Embryology.” Zoological Science 23, no. 5 (2006): 403–18. https://doi.org/10.2108/zsj.23.403.

Ota, Kinya G., Shigehiro Kuraku, and Shigeru Kuratani. “Hagfish Embryology with Reference to the Evolution of the Neural Crest.” Nature 446, no. 7136 (April 2007): 672–75. https://doi.org/10.1038/nature05633.

Ota, K.G., S. Fujimoto, Y. Oisi, and S. Kuratani. “Identification of Vertebra-like Elements and Their Possible Differentiation from Sclerotomes in the Hagfish.” Nature Communications 2 (2011). https://doi.org/10.1038/ncomms1355.

金魚の文献

Abe, Gembu, Shu-Hua Lee, Mariann Chang, Shih-Chieh Liu, Hsin-Yuan Tsai, and Kinya G Ota. “The Origin of the Bifurcated Axial Skeletal System in the Twin-Tail Goldfish.” Nature Communications 5 (2014): 3360. https://doi.org/10.1038/ncomms4360.

Ota, Kinya G. Goldfish Development and Evolution. Springer, 2021.

参考文献

“Dean: On the Development of the Californian Hagfish... - Google Scholar.” Accessed September 10, 2022. https://scholar.google.com/scholar_lookup?title=On+the+development+of+the+Californian+hag-fish,+Bdellostoma+stouti.+Lockington.+.&volume=40&publication_year=1898&pages=269-279.

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