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おとぎばなし「階段を降りる」

目を開けると私は高い高い塔の頂上にいた。

恐る恐る下を覗き見ると、地上と思われる場所がうっすら見える。

頂上は寒く、雨風を凌ぐことができない。

私は意を決して長い長い階段を降りることにした。

階段は石を積み重ねて作られたもので、一段一段が不均等で手すりもなく、また勾配も急であった。

高い高い塔、足を踏み外せば終わり。

私は足元を注意深く確かめながら降りていく。
降りていく中で少しずつ私には喜びが芽生え始めた。
降りれば降りるほど地上に近づく。
降りれば降りるほど足を踏み外しても救かる可能性が上がる。
死ぬ可能性が減る。

死から遠ざかる実感が私の心を強く保たせた。

長い間歩き続けようやく私は「地上と思われる場所」にたどり着いた。

しかしそこはだだっ広い中間層で、階段はあいも変わらず下へと続いていた。
風の冷たさも変わらず私を攻撃した。
「進め!進め!!」
そう言われている気がして休むことすらできずに私はさらに降りていく。

そのようなことがその後も何度か続いた。
もう私の中に喜びはなかった。
降りても降りても死は遠ざかることはない。
降りても降りても死が隣に在る。
もしかした永遠にそうなのではないのか。

私にはもう一つの絶望があった。
それは、私に想像力があることから生じていた。
もし想像力がなければ、死がすぐ隣にあっても(生きるとはそういうものだ)、とすることができる。楽になることができる。
けれど私には想像力がある。
そうでない世界を想像できる。

(何故、私だけがその世界にいないのだ)
(何故、そういうものだと思えないのか)

想像の中の安全で安楽な世界に辿り着きたい。 

もしくは、想像力を消し去って死の恐怖を忘れ去れたい。

矛盾する両者の狭間で揺られながら、どちらにも傾けず、それは自己への嫌悪を生じさせた。
何一つ選ぶことができない自己への。


階段を降り続ける内に私には奇妙な感覚が芽生え始めた。
それは、(私は本当に階段を降りているのだろうか)、という感覚であった。

(死から遠ざかるために階段を降りてきたはずなのに、降りれば降りるほど私の中に死の恐怖や絶望がのしかかってくるではないか。)

(それは階段を降りているつもりで登っているからではないのか?)

(私の目は、感覚はたしかに階段を降りている。
けれど私の目や感覚が本当はおかしくて、私の魂が登っていることを恐怖として私に教えているのではないか?)

そのような感覚に囚われ始めると、私はついに正気を保っていられなくなり発狂した。
涙と唾液がとめどなく溢れて、全身から汗が噴き出す。獣のように咆哮をあげながら尿を漏らしていた。
そして私は階段を走り出した。

走って、

走って、

走って、走って

走り続けた

そして足を踏み外し下へ落ちそうになったが、すぐ近くが中間層でなんとかそこへ倒れ込んだ。

倒れ込んだまま少し休んでいる内に息が整い、頭も冷静になった。
そういえば、ここにきてから走るという行為をとったのは初めてだった。

私はここに来てからのことを思い返した。

私が「歩く」行為を始めたのは死への恐怖であった。
道を踏み外さないように恐る恐る歩き続けそこに喜びを感じるようになっていった。
死から逃れることが喜びであり、それこそが進むことであったが、死は私を追いかけてきた。
死が現実的な問題として私の心に追いついたとき、私は「走った」のだった。
そして完全に捕らえられてしまい、私は今空を仰いでいる。「休んでいるのだ」。

死というのは本当に逃れるべき、打破するべき、敵なのだろうか?

死はいつも隣にいて、
だから歩く
だから走る
だから休む

そして、あおむけになって眺めた空の青さを私は初めて知る。

死はいつも隣にある。
そこから逃れることができないのなら、綺麗な景色を楽しみながら降りいってもいいじゃないか

終わりが見えない旅ならそう急ぐ必要もないではないか

走ることを思い出したなら、寒さも忘れられるだろう

死がそれを教えてくれたのではないか。


そう考えが至り私は眠りに落ちた。

そして、こちら側へ戻ってきたのだった。

つづく


見てくださりありがとうございました。

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