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【朔 #120】髙柳克弘が立っていて、生徒と挨拶を交わしている

 もはや、最近の夢のスタンダードになってきている設定。場所は母校の小学校、教師と同級生が高校生時代の連中、奇怪な設備。昨日(二〇二四年六月十八日)の朝の夢はこれに中学生時代の教師も混じっていた。この異物こそが、今回のキーとなる。
 私は体育が嫌いだった。中学生の時は特に。内容もそうだが、担当の教師達が嫌いなのである。根本的に反りが合わない。しかし、生徒の殆どが彼らを嫌っていたから私個人との相性ではなかったのかもしれないが。なんせ、嫌い。よく忘れ物をするような奴には「はいはい、またかよ〜。そろそろ、ちゃんと準備せえよ〜」とヘラヘラと言うのに対して、偶々忘れ物をしてしまった生徒には酷く冷たい態度をとっていた。生徒のキャラクターに合わせている、などという前時代的なナンセンスの塊。いや、例えば対個人の生活指導等ならそれで良いかもしれない。しかし、忘れ物に対する指導や授業内容については一般的な基準で画一的に対応せねばならないのではないか。そう、私は依怙贔屓する教師が大嫌いなのである。そして体育教師たちの威圧的な態度が不愉快でならなかった。
 さて、そろそろ夢の話。先述した設定の夢で登校。門の前に教師として俳人の髙柳克弘が立っていて、生徒と挨拶を交わしている。英語の授業を受ける。それが終わって次は体育、という段階になって水着を忘れたことに気づく。夏の盛り、次の体育はプールの授業だ。先ほどの英語教師は高校生時代の人だったが、体育は中学生時代の連中らしい。怒られるのが嫌だった私は級友に、帛門が保健室に行ったことを伝えるように頼み、教室を出た。仮病。保健室に着くと先客が数人居て、何故か高齢者ばかりだった。仕方がないので、順番を待つ。薄暗い廊下の壁には縦長の大きな水槽が嵌め込まれていて、その中の薄汚い水にホウネンエビ(に形が似た生物。もっと原始的な生物に見えた)が数匹泳いでいた。そのうち、私も賢しらに腹痛を理由に休もうと考え始め、アピールのためにトイレに一度籠ることにした。その階のトイレに入ろうとするも「職員用」と書いており、仕方なく一つ上の階へ。上がってすぐの部屋に入ると教室のような板張りの部屋の隅にひとつの便器と便器を仕切る壁がある。しかし、この壁が低く、明らかに誰かに見られる代物だった。とにかく、使う素振りだけでもとズボンを下ろした瞬間、部屋の扉が開き、ぞろぞろと生徒が入ってきた。聞くと、これはその学級専用のトイレらしい。では、部外者は使うまいと保健室に戻る。高齢者は最後の一人。待っていると、内線が鳴り、養護教諭が取る。「はい、はい、〇〇(帛門の本名)……はししっり……はい、はい」少し距離があって聞き取れない。体育教師が何か言っているのだろう。あんな奴らを見たくもない、早く帰りたい、門の前に立つ髙柳克弘を一目見て帰ることができれば十分だ。
 目が覚めてすぐに考えたことは、己の手に入れている自由であり、勝手に洗脳が解けていて洗脳されていたことと解けていたことを同時に知ったような感じがした。サボることは許されぬことだと、今の私は考えていないのだ。嫌な教師と態々顔を合わせずとも良いと割り切ってしまえる思考をいつのまにか身につけていたらしい。当時(義務教育)の私からすれば、逃げることは選択肢に上がるはずもないことで、許されていたのは耐えることのみであった。そんな大仰なことでもないのかもしれないが、夢の中でその教師を殺すことさえしなかった私が遂にサボり、逃げたことはネガティブな意味ではなく、真に自由を(過去からの?)手に入れたということなのだろう。そして、その門から出ること、社会の檻を出入り自由となることが今の私の憧れであり、それゆえ文学の象徴として髙柳克弘が敷地外に立っているのだ。

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