思えば1年が経った。僕が会社を辞めてからを徒然なるままに書き綴ってみる
思えば1年が経った。僕が会社を辞めてからだ。
僕は、いまでこそライターをしているが、もともとは新卒で佐川の物流企業に入社した。そこから3年半、物流現場でのオペレーションを経験した。
毎日100名前後のパートさんと相対しての指示出し、生産性や進捗の管理をしたり、新規立ち上げの現場の応援に行ったり、新たなシステムの運用をしたり。
体力的にはキツイと思ったことはなかった。厳しい上司のもとで仕事をしたのはメンタル的にかなりキツかったけど、それでも当時の上司は深く尊敬し、憧れる人間の一人だった。非常に厳しかったことにさえも、本当に感謝している。
そんな会社を去年、退職した。係長や同僚、一緒に働いていたパートさんなどに退職の旨を伝えるとき、 “フリーライター” と言ってしまうと心配されそうな気がしたので、「次は決まっているのか?」と聞かれたときは「はい、編集の仕事をします」と答えていた。
本当は、元ダイヤモンド社の編集者である竹村俊助さんが屋号とされていた「WORDS」で、「WORDS塾」の塾生として、ライティングや編集のお手伝いをさせてもらいながら勉強させていただく身であることしか決まっておらず、仕事など何もなかった。
言ってみれば、自分を野ざらしにしたような状態だった。
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昨年の11月末日付で退職した僕は、翌月の12月は何をしていたのかというと、クラウドソーシングでライティングの仕事を獲得しようと提案文を送ったり、転職を考慮に入れて転職先を探したり。
それと同時に、貯金もさほどなかったぼくは、アルバイトを探していた。
そこで見つけたのは、物流倉庫の日雇いの派遣アルバイト。僕はもともと物流現場の管理をしていたわけだが、指示される側になって働いてみたいと思った。
やってみると、やっぱりなかなかキツい。「僕が現場で仕事をお願いしていたアルバイトさんやパートさん方々は、みんな毎日こんなに大変なことしてたんだよなあ」と痛感しながら、家具をピッキングしたり運んだりして働きまくった。
もともと現場にいた分、場所は違っても要領がわかる。しかし、派遣をやり続けていると本当にやりたい仕事が一向にできなくなる気がしたので、4日で辞めた。
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しかし、もう少しお金を稼いでおきたい。それに、こんなに自由にやりたい仕事に挑戦できるのなんて今だけかもしれない。
そう思ったぼくが次にやってみたのは、アマゾンの配送ドライバー。こちらはバイトではなく業務委託だった。日給で2万円とあったが、実際は7000円が引かれて1万3,000円。それでも1日あたりで考えれば少しだけ多いほうだと判断して、2ヶ月ほど続けた。
そこはアマゾンの配達を下請けするベンチャー企業だった。会社から車を借りて、1時間運転してセンターに行く。運転していたのは、街中でもよく見かけるスズキのエブリイという小さめの白いワゴン車。後部座席が全部なくて、荷物が詰めるようになっている。オートマだったけど、窓はパワーウィンドウではなく、手動で開ける古いタイプ。
センターでトラックを荷物を積んで1便の荷物を配達。1便の配達が終わると、2便が来るまで時間が空くので、その間は何をしてもいい。2便が来たらそれを積んで配達して、終わったら日報を提出して車で帰る。
この仕事には、比較的自由を感じた。倉庫内のアルバイトなら、決められた休憩時間に休憩し、倉庫のなかに拘束され、決まった場所で決まった動きをしていなければ注意を受ける。社員の監視下で、完全に管理された状態。僕には耐えられなかった。
しかし、配達は “配達が終わるまで” という実質的な拘束はあっても、自分で場所を選び、自分のやり方で配達ができた。車の運転も、人と会うのも、知らない場所へ行くのも好きだったので、なおさら向いていた。
逆に、倉庫の閉塞した空間で、人がいるのに人とかかわることはなく、無機質な機械と商品を扱い、狭い空間を走り回るのは、僕にとって何よりの苦痛だった。よく4日も続いたものだ。
とにかくそんな理由で配達は好きだったので、2月上旬あたりまでスポットとして働いてお金を稼いだ。
そして、僕は我に返った。
「いつまでもこんなことをしている場合じゃない。書く仕事で生きていかないと」
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ふと気付くと、僕はオンラインサロンなるものに興味を持つのだった。なにやら盛り上がっており、調べてみると、種類はいくつかあるようだ。
僕が興味を持ったのは、堀江貴文さんのオンラインサロン「H.I.U.」、箕輪厚介さんの「箕輪編集室」、前田高志さんの「前田デザイン室」の3つだった。
他に、イケダハヤトさんの運営する脱社畜サロンなどもあったけど、名前とキャッチ画像が体に合わなかったので中身を知りたくもならず、入る入らないの選択肢からはすぐに外れてしまった。
僕は堀江さんの『ゼロ』(ダイヤモンド社)で僕の価値観が大きく変わるほど影響を受けていたので、3つなかでも、H.I.Uはまず注目していたものの、内容をざっくりと見た感じは自分と合っているように思えず、金額が高いこともあって入るのはやめた。
そして残った箕輪編集室と前田デザイン室。僕は迷った。ライターとして仕事をしていくうえで、編集の力は僕の仕事と最も直接的につながっているし、あの剛腕編集者と言われる箕輪という人のコミュニティなら、これからの経験や実績になるかもしれない。
一方で、前田デザイン室は、もともと任天堂で15年間デザイナーをしていた人がオーナーをしている。デザインセンスのような感覚を幾分か身につけられるかもしれない。僕はライター・編集者として生きていくうえで、「デザイン」は必須の力だと、感覚的に思っていた。
それに、2018年11月27日に行ったイベントで初めて見た前田高志さんの、クリエイティブで世の中を見ている目というか、完全に “クリエイティブ” という脳でしかこの世を見ることができなくなっていたような、天才性みたいなものに惹かれていたのもあった。それで前田デザイン室に僕は注目していた。
決めかねた僕は気付いた。「2つとも入ればいいんだ」。僕は「えいや」とボタンを押して一度に2つのサロンに入会した。
そこからは一気に活動が増えた。
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前田デザイン室では「NASU本」という、前田高志さんの渾身のデザインブック兼ビジネス書になる書籍をつくろうとしていたので、僕は「ライティングやります」「プレスリリース書きます」と手を挙げた。書いたこともないくせにだ。
箕輪編集室では、「夕刊ミノ」というnoteマガジンを書いているというので、編集メンバーに名乗りを上げ、且つ「箕輪書店だより」という何かで取材やライティングをするというので、そこでも「取材やります」「記事書きます」と手を挙げた。竹村さんの取材の同行をしたことがあったとはいえ、ついて行ってひと言も喋らずに、黙って横にいた程度だったくせにだ。
そんなことをしながら、僕はオンラインサロンで経験と実績を積んでいった。
ここから、ぼくがライターとして、収入を得ながら本格的に仕事をするきっかけとなるできごとがあった。
▼続き。
ライター 金藤良秀(かねふじ よしひで)
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