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俺と私と

あえて、この記事は気取らずいつものように「俺」で書いていく。

最近になって俺は声を出し始めた。Twitterのスペース、お絵描き配信など。喋るのが下手すぎるのと、いまだに対人への恐怖もとい緊張がとんでもないから緩和していきたいと思って、勇気を振り絞りすぎて毛穴の脂が出るくらい、…汚いが。チャレンジしている。


くしまの性別ってなに?

マシュマロでも聞いてくれる人がいたが、俺は身体的性別は女に該当するが、女でもないし、男でもない。自認しているのは「Q」だけだ。「Xジェンダー」の方が日本では定着しているが、俺はXジェンダーも「うーん…なんか違う」だった。

決めない、気にしない。どうでもいい。これが一番自分の性別認識だと思っている。だからQが合ったのかもしれない。

そもそもに俺はQであるが、性別自体を認識することが困難に近い

例えば女の子がわざわざ「私は女の子です」と言わないように。俺だって別に、わざわざ「俺はQなんです」っていう必要が、なんであるのか?っていつも疑問になるのだ。

声を出している話に戻る

先ほどの声を出すことにチャレンジする中で、悩んだことがある。

声を変えるか、どうか。だ。

俺は女でもない、男でもない。でも、身体的には女である。

俺の声はどうやら高めのようで、頑張って中性的な声へとトレーニングをしたんだが、ダメだった。変な声だし、頑張って変えるものなのか?とも疑問も持ち始めた。

性別自体に嫌悪もとい、苦痛があるのに、なぜまた性別で悩まないといけないんだ。そう思ったら、もうどうでも良くなった。

一人称が俺で、女声で変な人間かもしれない。痛い存在かもしれない。でも、俺にとってはこれが自分なのだ。

一人称が俺という理由

単に使いやすいのと、俺、が一番しっくりくるから。それだけ。私でもいいけれど、それでは女になってしまう恐怖が実はある。声、服装、見た目。完全に女に分類されてしまうのはキツい。何がキツいのかは、アイデンティティあたりだろうか。

俺は服装をわざわざ中性にしたくないし(性別を意識しているみたいで嫌)、着たい時に女の子の服装をするし、男の子の服装もする。したいときにその姿になればいいと思っている。でも、比較的好きなのは女の子の服。可愛いから。しょうがない。これは、しょうがない。可愛いものを着たい意味では身体的性別が女で良かったと思っている。今ではサイズも増えてきたけど、身長の意味などでは着れる、着れない問題が出るからだ。

日常生活での苦痛

俺が日常生活で一番苦痛なのは、「男・女」欄の記入だ。

なんで必要なのかが、まずわからない。

丸するときに、とても苦痛だ。苦しい。嫌だ。なんで。なんでこれに縛られないといけない。どうしても丸をしろってなら、俺はこの真ん中の「・」に丸をしたい。

身体的性別は認めている。それでも自分の認識している性別とは違うのだ。だから苦しい。こんな紙切れに悩まされることが、情けないし、やっぱり苦しい。

これは身体の、と自分に言い聞かせてぐ、っと力を入れて丸をする。

この苦しさ。これだけはわかってほしい。

そして同時に、その他の欄を作るか、男女の記入欄を消すか。
この選択肢を作ってほしくて多様性を考える、noteをかいた。

この欄に悩まされる日がなくなればいいな。本当、しんどいから。俺は俺。変わることはないし、変えることもない。それともそんなに「規格外」は我慢したり堪えたりして生きないといけないんだろうか。自分というものは、こんなにも自分の息を詰まらせるものなのだろうか。

いろんな選択肢を増やしてほしい。これも、わがままなのだろうか。



#多様性を考える

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