裁判傍聴 現住建造物等放火 とある子供部屋おじさんの末路

【現住建造物等放火罪】
 刑法第108条 放火して、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車、艦船又は鉱坑を焼損した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する
 

 グレーのジャケパンスタイルにワイルド系の長髪の男性に少しばかりの親近感を持った。肩に降り積もるフケはグランジファッションとヒッピーカルチャーの名残だろうか。締められたブルーのネクタイは檻の中から見上げる空のメタファーかもしれない。

 35歳無職。年が近い人間の起こす犯罪を見るといつもなんだか不思議な気持ちになる。彼はこの35年の人生で何を見てきたのだろう。

 事件のあらましは、母に無職である事を咎められた男性が将来への不安などから62歳の母と同居する部屋に火を付け、市営の集合住宅の一室を全焼させた、というものだ。
 火は上階へも燃え広がり3人が軽症を負った。本人も顔などに火傷を負い母親は火の手から逃げる際に骨盤を折る大怪我を負った。

 事件とは何ら関係ないが骨盤は形状から「折る」というより「割る」と言う表現を使うほうが適切な様に感じるが「骨盤を割る」と言ってみると違和感がある。不思議だ。
 因みに骨盤骨折の死亡率は5~30%らしい。 その多くの原因は、出血、感染症、臓器や神経の損傷といった合併症ということだ。思いの外多いことに驚く。
 
 被告人の男性は10年以上無職であったという。しかし市営住宅で母親と二人暮らしというところを鑑みるとその母のスネも齧るところがあったのかは疑問だ。もうそのスネは骨がむき出しになっていたりしてやいないかと思えてならない。
 彼は自殺目的でマッチを用いて火を付けたというが燃え広がると我に返り消火もせずに逃げ出した。たしかに自殺で焼身というのは決して簡単に死ねる類の自殺方法ではない。勢いで火をつけたはいいがそれからの苦しみは長い。体は呼吸が出来なくなり次第に藻掻くことも出来なくなっていくが意識は残る。考えただけでも恐ろしい。
 社会の荒波に耐えられなかった彼が焼身自殺に耐えられるとは思えない。その苦しみに耐えられるのはベトナム仏教の僧侶、ティック・クアン・ドックくらいだ。そして彼ほどの信念とそれを突き通せる力があれば彼はこんな凶行に及ばなかっただろう。
 
 裁判の中で男は発達障害を主張していたがそれは認められず、うつ病だったという主張もしていたが拘置所での弁護士との面会では「行きつけの店に行きたい」という言葉を残しており、それはうつ病の人間からは出まい、と一蹴されその主張も認められていなかった。

 裁判を傍聴していると、とりあえず一回精神疾患を理由にしてみようでもいう様な動きを感じる。通れば儲けもん、みたいなシステムでは無いだろう。といつも思う。
 彼の受け答えは割としっかりしていた印象だったがどこか他人事の様だった。発達障害を持っていなかったとしても境界知能だったり知的障害の何かは持っていそうだ。でなければこんな事件を起こした上で能天気に「行きつけの店に行きたい」なんて言わないだろう。

 検察側の求刑は6年。想像以上に軽かった。現住建造物等放火罪の量刑は懲役5年以上、と確かに記されているが、服屋の『最大50%OFF!』というのぼりを掲げつつも実際に店内商品で50%OFFされているようなものは殆どない様に、そんなにも都合よく短い刑期になるものなど無いと思っていた。
 それも判決ではなく求刑である。大体に求刑よりも判決の方が軽い場合が多い。
 もっと求めるべきではないのか?という疑問を抱かずには居られない。こんな時に謙虚な日本人らしさのようなものを出してほしくない。

 結局、判決は懲役5年であった。犯した罪における量刑の最低の年数である。
 初犯であり、他者を意図的に傷つけようとした事件では無いとはいえ短すぎる気がしてならない。この男が5年服役したところでどれほどの社会性を身に着け、更生を図れるのだろう。
 意図的に傷つけるつもりはなかった、とはいうが真っ当な人間であれば傷つく可能性は容易に想像できる。そこから読み取れるのは彼の先を見通す力の薄さではないだろうか。そういった事実も踏まえ、もう少し別のアプローチをするべきだと思えてならない。

 社会という自分の居る場所を自分である程度選択することが出来る環境で上手く生きることが出来なかった人間がはたして刑務所という閉鎖空間で上手く生活していくことが出来るのだろうか。
 実際、刑務所内でのいじめや人間関係のトラブルから刑務作業を拒否し自室にこもる受刑者も少なくないという。
 そして三食の食事にありつけ、身の安全が保証された刑務所という環境に対して「また戻りたい」という感想を抱き彼がまた別の、「刑務所に戻る」ことを目的とした犯罪に走らないか、という事も心配である。
 他者との交流を断ってきた彼が新たに関係性を築く刑務官やその環境に依存する可能性は高い。人間関係が希薄な人間はそういう努力せず手に入れられる手っ取り早い人間関係に依存しやすい。

 どちらであっても社会に馴染める人間形成を行えると思えない。じゃあどうすればいいのか、と聞かれても私自身この場で語れる様な意見を出すことは出来ない。
 
 裁判が終わり、続々と人がはけていく中、傍聴席の一番左端最前列で白髪の女性が殺しきれない声を漏らしながら泣き始めた。その女性は被告人の母親のようである。
 成人して長い間親と同居し、そしてその庇護下に置かれ続けた結果がこの事件だ。その声を聞くと胸が少しばかり苦しくなったがその結果を作ったのはその人だ。しかしそれを突きつけることは出来まい。
 彼女の流した涙は自責の念か、息子の現状に対してのそれか。あるいはその両方かもしれない。

 実家を出ずに親と同居し続ける人は一定数存在する。その中でも自立心がなく、社会に対して自分の力で対応することを放棄し”守られている”という立場に甘んじている人間は精神面が成熟せず、接しているとどこかに”おかしさ”を感じる事が多い。会話している中での言葉の選び方、立ち振舞いなどにどうしても違和感として現れる。

 自分で考える事をせずに保護者の意見にしか従えない。仕事においても上司の言葉の通り(それも額面通りにしか受け取らない)にしか行動しないために何か問題が起きたときにはどれだけ単純なものであっても「〇〇さんがこういったから、、、」と臨機応変な対応が不可能になる。他人から見ればそれは責任転嫁にしか見えないが当人としては「言われたことをしっかりやっていたのに」という気になる。そういう世間との認識のズレが社会生活を難しいものにしていく。
 そして自分の世界、あるいは都合のいい環境から出ずに周囲に目を向けることがなくなり生まれたズレは広がっていく。

 彼もその類の人間だったのだろう。
 
 35歳、いい年齢だ。35歳といえば芥川龍之介の享年と同じである。片や名作を産み、現代でも文学賞で名前を聞く大作家だ。同じ35年という月日だがその価値は当事者の生活で変わってくる。とはいえ芥川が生きてきた時代と現代では大きく環境が違う。現代であれば芥川も大作家になれたとは限らない。トー横キッズの成れの果ての様な人間になっていてもおかしくない。芥川も不安定な人間だった様で服毒死という最後を迎えている。そこだけを切り抜けばオーバードーズしてそのまま自室で冷たくなったメンヘラとそう変わらない。
 
 すべてのものは絶妙なバランスの上に成り立っている。産まれる時代、住む場所、周りの人達、様々な要素が混じり合い世界を構成している。彼も舞台が違えば輝けたのかもしれない。

 しかしそれもすべて”もしか”の話でしか無い。結局は世界的に有名なアメリカンコミックス的ビーグル犬よろしく配られたカードで勝負するっきゃないのさ。それがどういう意味であれ。

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