裁判傍聴 過失運転致死傷 悪いのは誰か

 目の奥に鋭さの面影を残す男性が憔悴しきった様子で証言台に立った。昔はヤンチャしていたが今では子供も出来て頑張って働いている、という風なタイプに見える41歳、会社員。
 彼の住まいは私の暮らす町の近くにある比較的大きな金属加工関係の企業数多く存在する町で、彼もそのうちの一つに勤めていた。
 
 傍聴席には私の他に3名おり私の方を怪訝そうに見ていた。どうやら被告人の関係者のようだ。その視線には非難じみた色すら感じられたような気もするがそれは私の被害妄想だろうか。しかし関係者からしてみたらご機嫌なアロハシャツ(傍聴したのは夏であった)にブルージーンズという裁判所らしからぬ格好の部外者がいればいい気分はしないだろう。
 しかし、よしんば彼らが私に対して非難の気持ちを持っていたとしても正当な権利の元に裁判を傍聴している私にそんな目を向けられても私としてもいい気分ではないのでおあいこだ。こうして戦争は産まれる。
 
 事件の内容としては、他県(それも丸一日運転しなければたどり着けない様な距離であった)に出張の際、被告人は普通貨物自動車を運転し同乗者3名とともに運転を交代しつつ現場へと向かっていた。
 自動車には出張に必要な資材などが大量に積まれており過積載に近い状態となっていた。高速道路を走行中、強風に煽られハンドル操作を誤り横転。シートベルトを着用していなかった同乗者2名がフロントガラスを突き破り内一名は死亡。一人は障害が残ったが命は助かった。恐らく一人目がフロントガラスに穴を開けたお陰で二人目は無事だったのだろう。
 事故後、後部座席にいた一名が車から這いずり出た所、荷物も吹き飛んでおり、何が起きたのか分からなかったという。
 裁判の中で遺族は「夫の部下ではあるが悔しい。厳しい処罰を望む。会社に対しても不信感を抱いている」という旨の言葉を残していた。
 
 仕事をしているとそれが社会的に、あるいは倫理的に良しとされるかは別として”やらされる”類の仕事というものは一定数存在する。その規模が大きすぎると時折ニュースにもなる。
 積載量を超えていないから、そう言われたら運転に対して不安をどれだけ抱えていても走らざるを得ないという判断を下す人間は少なくは無いのではないだろうか。事件当時、強風が吹いており天気予報などから事態を予測できたのでは、という意見も出ていたが予測出来たとしても会社としては限られたカードで対応していかなければならない場面はある。
 昨今、そういった事象に対して柔軟に対応する企業は増え始めたとはいえ、やはり昔ながらの”勢い”を大事にする企業も多い。そういった企業からしてみれば無理をすることが美徳となりうる為、一定数残り続けるだろう。
 
 また、同行者(それも亡くなってしまった)は上司であったという。自分よりも目上の人間が居る中ではやはり部下が多く運転することが多いだろう。単純に運転時間がながければ長いほどに事故が起きる可能性というものは増えるし、その分判断能力も失われていく。挙句の果てにその亡くなった男性はシートベルトを未着用であった。
 法律としては運転者に過失が生まれてしまうが、そもそもシートベルトというものは自身の安全を守るためのものである。それをを付けないというのはただの自殺行為だ。
 映画「ゾンビランド」の作中で”生き抜くためのルール”というものがあった。その中で「シートベルトをしろ(wear your seatbelt)」というものがある。これはゾンビの居ない世界でも必要な生き抜くためのルールだ。そして日本の法律でもある。
 そしてそれを破った上司の男はこの日本がゾンビランドになるまで(なるかどうかはさておき)生き抜く事が出来なかった訳だ。そそれはどこまでも自己責任に思えてならない。その責任を被告人に全て押し付けるのはどうなのか。
 また部下としては上司に対してそういった事を指摘し辛いところがある。それが初めてのことであればまだちょろっと言えるかもしれないが、日常的にシートベルトを着用しない人間あればもうどうしようもない。何が危ないかわからない子供に言って聞かせるのとはわけが違う。亡くなった男性がトランスエイジで自分を6歳児だと言い張っていれば別だが恐らくそうではないだろう。
 
 そんな状況下でも罪に問われた男性は背筋を伸ばし堂々としており、それでいて自身が起こした事故に対して向き合っている印象を受けた。傍聴席には関係者と無関係なご機嫌アロハ野郎が居てもその背中は動じない。
 私がこの事故を起こす側だったらこんなにも堂々としていることなんて出来ないだろう。遺族の「厳しい処罰を求める」という声に対して「おめぇの脳足りんの旦那は自業自得だろうがボケが!バカ同士お似合いの夫婦だな!?」と返してしまいそうだ。そんな事も言わずただただ淡々と受け答えをしている。
 被害者と彼の、そしてそれを取り巻く会社での関係性などはこの裁判からだけではわからない。しかしこの裁判越しに見える景色は随分と歪んで見えた。
 
 この場合、誰が悪かったのだろう。被告人の男性の判断の甘さというものも間違いなくある。それが実質的に判断が委ねられていなかったとしても。そして会社としてもゆるい雰囲気を作っていたのだろう、というのも推測される。亡くなった男性にもそれなりに(死ぬほどのもであったかは別として)あるだろう。
 全員に平等に非があるように思えてならない。
 
 そんな中でただ一人だけが吊るし上げられている姿が痛々しい。
 
 しかしこの社会で暮らしているとどうしてもそういった類の理解は出来るが納得は出来ない様な事象に鉢合わせする。その度に巡り合わせの悪さを呪うことしか出来ない。
 
 この裁判に関しては判決まで追うことも出来なければ、ニュース記事などで事件について調べてもまともに出てこなかったのでここで終わりだ。世間ではこういった事件や事故が山程起きていて誰もそこに注目しないのだろう。
 人が死んだ悲惨な事故よりもみんな芸能人の不祥事やSNSの炎上のほうが好きなのだ。
 
 それに対して何か高尚な意見があるわけでもないけれど、人の命は重くもあり綿毛の様に軽いと思うとなんだか生きるのが少し楽になる気がする。
 不健全な考え方だと理解しているが日々を生きる上で時にはジャンクフードの様な不健全な食べ物による幸福が必要な様に時にはこういう自己肯定も大切だと思う。


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